続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

「中らない」は技が未熟ということ

2009年12月25日 | 積み重ね
弓道では往々にして精神的な何かを重視する傾向がある。たとえば射品とか、風格といったものである。

これらが大事だということに異論はないが、そういうことを言っている人ほど、勘違いをされているように思えてならない。

つまり、「射技はいいのだ」というような傾向である。

もちろん、言葉ではそうは言っていない。「射技も重要であるが・・・」という言い方をするのだろう。

しかし、射自体がそれを物語っていないことが少なからずあるように思う。つまり、会が浅かったり、離れが鈍かったり、的中率が低かったり、と。

弓道はあくまで武道であり、儀式ではない。したがって、心構えは常に生死を分かつ場面を想定していることが理想である。(極端ではあるが)

つまり、その一射がもし外れたら、その瞬間に敵に射られて死んでしまうかもしれないのである。だからこそ、技を磨き、いついかなるときでも最高の射を出せるように稽古するのだと思う。(これが中・貫・久の「久」の意)

そして、必中の射は、すなわち正射であって、それ以外はまぐれ中りに過ぎない。中るべくして中る、という射をこそ求めるべきである。だから、中りではなく、正射を求めるのである。

ここを履き違えてしまっては元も子もない。中らないということは、技が未熟なのだと思わなくてはいけない。(自省をこめて)

中らない ⇒ 中る ⇒ 正射により中る ⇒ 射品・風格(神秘さを感じるレベル)