新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

授業評価2

2009年03月04日 11時13分12秒 | 学部教育情報

 学生に教員の教え方を評価させることについて、あらかじめ考えておかなければならないことがある。
 現在教え方に関しては前項に示した項目について4段階で点をつけさせるやり方をしている。ということはこれらの項目を支える「よい授業」のモデルがあるということだ。教育学部よい授業ポリシーとでも言っていいだろう。なにしろ教育学部なのだからどういう大学の授業がよい授業なのかという研究成果が背景にあると思われてもおかしくない。そのことをよく承知しておいて欲しい。

 まず、大学教師たるもの熱意を示さなくてはならない。研究に対する熱意ではない。学生を思う熱意だ。学生を教えたい、という熱情を示すことが必要なのだ。(と考えなくてはならない。なぜなら研究に対する熱意は以下のそれぞれの項目には合致しないからだ)
 その教育への熱意をどうやって示すか。
 私たちは他人の熱意をどのようにして感じるのか。新興宗教やマルチ商法の勧誘などに来る方々からは確かに熱意を感じる。そういう熱意にならざるを得ない。そういうものがなぜ大学の講義に必要なのだろうか。僕は不要だと思う。そのような熱意はあくまで表面にあらわされるパフォーマンスに過ぎない。
 小学生ならばそんなものは期待していないだろう。なぜなら、それが授業であるならば、「教えてやる」という熱意が見え見えになった段階でその授業は失敗となるからだ。冷静に子どもたちに仕掛ける仕掛けが熱意でばれないようにね。

 そして、私語は注意しなくてはならないらしいし(学生を叱ったらパワハラだという自由回答もあったらしい)、携帯をいじっている学生や居眠りをしている学生も注意しなくてはいけないらしい。だいたいそういうことが大学でまじめに考える必要があるのだろうか。大学によっては私語が甚だしいところもある。九大でもそういう講義を見た。しかし、それに注意をするようになったら学生をバカにしていると同じだろう。
 二つばかりの私大で講義をしている。私語をしようとする者は多い。だけど僕は私語を決して注意しない。ただ、私語がある限り授業は進めないから私語はしなくなる。それはおとなに対する礼儀というものだろう。友人の私語を注意してくれることを教師に期待するのは自らの幼児性を示すものでしかない。それにつきあうことでわれわれは評価されるのか。
 私語に対する適切な対応? そういうものが大学の授業評価に入っていることがおかしい。

 で、だ。1人ひとりの学生の理解度を見ながら、それに合わせていくという進め方をしなくてはならないらしい。そんなことをしたらシラバス通りにはすすまない。学生のペースとは何だ。講義を聴くのにペースがあるのか。学習指導要領に縛られていない大学だから学生の理解度に合わせた講義はできる。それならばシラバスを廃止すべきだ。とは言え、極力そのように努力はしてきたが、それだけシラバスはめちゃくちゃになる。それを後述のように「まとまりのある」講義に仕上げるのは至難の業だろうな。

 明瞭な口調で、聞き取りやすい話し方をすべきなんだと。僕のように先天的に滑舌の悪い人間はどうすればいいのだ。答は一つ。発声練習を毎日することだ。まもなく大学のあちこちで教員たちの発声練習の声が響き渡るようになるだろう。それが望ましい大学の姿なのだ。笑止。

大切なポイントを要約して伝えなくてはならない。しかし、これは困る。講義を要点にまとめるのは学生自身の訓練であって教員がすべきことではないと思うが、そういうポイントをまとめる能力は学生につける必要はないようなのだ。ノートまでとってやらなければならないのか。

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