妻が、きのう:平成30年3月16日に私の腕の中で逝きました。昭和26年4月2日生まれ(※戸籍上の誕生日/本当は26年3月末の生まれ)の満66歳という少し早い肉体の死でした。
私と仁恵が出会ったのは、ともに同じ高校の3年生と1年生の4月でしたから、知り合ってもう51年になります。
仁恵(ひとえ)という名のとおり、ヒトだけでなく、すべてのいのちを慈しむ、恵み深い人でした。また苛烈な人でもありました。
そして、音楽を除き、人生に関するほとんどの領域で私の師でありましたが、とても控えめな性格のため、仁恵の”なかみ”については、娘と、仁恵の数人のお弟子さん(「気」に関して)などがいくらか知っていらっしゃるぐらいでしょう。
仁恵には(ほとんどの人々がそうであるように)さまざまな面があり、ここで語りつくすことはとうていできませんので、彼女の生を大きくつらぬく、「気」に関していくつかお話しします。もう肉体を離れてしまったので、話しても怒らないと思います。
・仁恵は大人になってから(自分のことで)病院に行ったことはありません(私も娘もほぼ同じようなものでした)。最後までその信条をつらぬいた苛烈な死でありました。ですから、みずから選んで、自宅の自分の部屋で、私の手を握り、私をだいて息をひきとりました。前日に自宅においでいただいて一度だけ診ていただいたお医者さんの診断は子宮癌でした。
3月15日(おととい)、からだの状況が急変して、食べることも歩くこともできなくなったので、信頼するお医者さんの病院への入院を勧めましたが、強い意志は変わりませんでした。
・もっとも多く語り合ったのは、ヒトと宇宙(自然)、森羅万象のいのちのありよう、人の生き方などでした。(おおむね昔の)真言密教やカソリックなどの宗教における「神秘的な力」についてもよく話していました。
彼女の言1:「縄文時代の日本人はみんな”気”が使えたのに、”文明化”するにつれてほとんどの人々が使えなくなった。」・・・確かに、「和語」の多くは縄文時代から生き残っている日本語だと思いますが、「きもち(気持ち)」、「きがつよい(気が強い」、「てあて(手当て)」など、「き(気)」に関する多くのことばがあります。
言2:「本当に地球のためというのなら、人類はいないほうがよい。」 …苛烈ですが、人類の過去をかえりみ、「山川草木悉皆成仏」の思想にたてば、真実だと思います。
・彼女は真剣に世界と向き合い、誰もしらないところで、ほとんどの人々がしらない方法で、世界にはたらきかけていました。(私は夫でしたのでその断片をかいまみることができました。)
最も壮大な(将来の)計画は、大勢の人々の「気」・「念」の力で、地球に衝突しようとする小惑星などの軌道をそらそう、というものでした。
実際に神々に祈りをささげて実現した(と思える)のは、日本(や世界)にとって大事な数人の方々や、大好きな方々への気の支援でした。
平成8年ごろから、台風についても夜を徹して神々に祈っていました。かなり利己的な祈り(唐津市とその周辺に来ないで!)だったのですが、なぜか願いがかなっていました。(北部九州に近づこうとした台風のおかしなふるまいについては、このブログでいくつかの記事を書いています。「台風」で検索すると出てきます。)
※常識的には《荒唐無稽な与太話》なのですが、「実際の現象の奇妙さ」は、気象学者だけでなく、一般の方々にもわかるとおもいます。今年からの唐津市(周辺)の夏も、この20年間ほどのように穏やかであればいいと思います。
信じがたいことも含めて、こんな日本人もいるのだということを知ってもらいたく、私の50年来の師、仁恵について書かせていただきました。
蛇足ですが、本人の遺言により、死の告知はいっさいせず、本日、自宅にて、仁恵が指名した8名によるささやかなとむらいの会を催します。なお、私は「仁恵が死んだ」とは思っていません。本人が生前言っていたように、ただ、この世の肉体を離れたのだと感じています。