タケ・タケ・エヴリバディ!

当ブログは「竹と生きる・竹を生かす」をメインテーマに、管理人の田舎暮らしの様子をお届けします。

長岡藩三傑の1人・三島億二郎とランプ会

2024年09月11日 | 徒然なるままに

「まちなかキャンパス」の「近代長岡の幕開けを学ぶ」という講座に参加してきました。今回の講座は、「北越戊辰戦争で壊滅的な打撃を受けた長岡(藩)が、いかにして復興を遂げ発展していったか」というのが学習テーマです。

今回のこの講座は、「フェニックス大手イースト」にある「まちなかキャンパス」の施設ではなく、昨年オープンした「米百俵プレイス・ミライエ長岡」で行われました。と言うのは、講座の前半30分はミライエ5階で行われましたが、後半の1時間はミライエ6階の「第四北越ミュージアム」を見学しながら行われたのです。

「第四北越ミュージアム」というのは、第四銀行と北越銀行が合併してできた第四北越銀行が設立した小さな博物館で、主に長岡(つまり北越銀行)の北越戊辰戦争後の復興や産業発展、金融の仕組みなどについて幅広く展示した施設です。ちなみに館内での写真撮影もネット上への公開も自由だそうなので、今日のブログにも掲載しています。

さて、幕末から明治維新への時代、長岡藩には後に「三傑」と呼ばれる3人の偉人がいました。1人は「米百俵」で有名な小林虎三郎、もう1人は司馬遼太郎によって小説「峠」に畫かれた戊辰戦争の悲劇の英雄・河井継之助、そして最後の1人が今日のブログで紹介する三島億二郎です。虎三郎や継之助に比べると、世間的な知名度は圧倒的に低い三島億二郎ですが、長岡の復興や経済の発展への寄与という観点の実績では群を抜いています。

これは、ボクのランニングコースである信濃川の土手(左岸の日赤病院の裏手)に建立されている、三島億二郎の銅像です。戊辰戦争後の長岡の復興・発展に尽力した三島億二郎の姿。なかなかの迫力ですね。億二郎が指しているのは長岡城があった方角(現在の長岡駅)だそうです。億二郎は長岡の産業や文化、経済界の向上に大きく貢献しましたが、この像の後ろにある長岡赤十字病院(当時は長岡病院)も億二郎が開院しました。

ミュージアムの中に展示されていた億二郎の実績を紹介しますね。

医療に関しては前に紹介した日赤病院の前身である長岡病院を設立、教育面ではボクの母校県立N高校の前身である長岡洋学校を開校、さらに金融面では北越銀行の前身である第六十九銀行の設立に尽力しました。

こうやって実績を紹介すると、「長岡版の渋沢栄一だ!」って感じがしますよね。まさにその通りなんです。三島億二郎は、戊辰戦争で荒廃した長岡を復興させた恩人と言えます。

展示品の中には、三島億二郎の交友関係を表すパネルも掲示されていました。パネルの上部にいる5人は、福沢諭吉、渋沢栄一、大隈重信、松方正義、勝海舟ですから、まさに当時の日本を牽引した人材たちです。億二郎の人脈は中央とも密接に繋がっていたのです。ちなみに、億二郎とともに中央に位置している岸宇吉というのは、長岡の商人で第六十九銀行の創始者の一人です。

ここで特筆しておきたいのは、この時代に長岡の経済や産業を牽引したのは、億二郎ら一部の人間だけではなかったということです。そこには身分を超えた「ランプ会」という存在がありました。

この「ランプ会」は岸宇吉の自宅で定期的に開かれたそうです。岸家には当時高価だったランプがあり、身分を問わず多くの者たちが集まりました。戊辰戦争で荒廃した長岡の復興や商業のあり方を夜を徹し話し合ったそうです。その中で、商業のためには銀行が必要であるとして第六十九国立銀行が開業し、その後の日本石油(現・ENEOS)や北越鉄道(現・信越本線)なども設立されていったそうです。

ミュージアムには、「ランプ会」のジオラマも展示されていました。

さて、この「ランプ会」。「メンバーの中にはさまざまな身分の人達が集まっていた」というのが、大きな特徴なのだそうです。そしてボクはこのメンバーの中に、ある人物の名前を発見しました。

続きは、また明日

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