山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

記者クラブ問題に関する論点整理

2005年06月13日 | メディア論
多くの弊害が指摘されている記者クラブ問題については、インターネット上でも様々な議論が交わされている。現在の記者クラブ制度に批判的な立場を整理すると、①解散すべき②外部に開放し閉鎖性を改善した上で存続すべき―の2つに大別されるのではないか。

既に何度か書いてきたように、私の立場は①である。記者クラブは、官庁が情報発信に前向きになったことや、通信手段が多様化したことから必要性が薄れており、その一方で記者を大量のプレスリリース処理に忙殺させるなど非効率性が謙著になっているからだ。

そもそも記者クラブ制度は、新聞・テレビが通信社と競争関係にある日本のマスコミ業界に特有の制度であり、欧米のように通信社を有効活用すれば解散しても問題はない、と私はみている。大量のプレスリリースの処理は通信社に任せ、新聞やテレビは独自の問題意識に基づいた取材に専念すべきだ。また、そうすることで取材対象(行政当局や企業)から距離を置き、常に批判的視点で報道することが可能になると思う。

これに対し「誤報だった時に責任を負えない」として、通信社の活用に否定的な意見もあるが、これは当然だ。日本では多くの新聞社が記事に署名(クレジット)を入れないから、掲載社は通信社記事の責任まで負わなくてはならなくなる。

通信社の有効活用は「記事の署名化」とセットで実現されなくてはならない。外国の新聞では自社記者の記事には署名を付し、通信社や提携紙の記事には配信元を明記するのが普通だ。テレビでも「AP通信によると…」などとソースを明確にし、映像にクレジットも入れる。

これは読者、視聴者に対する当然の説明責任だろう。日本の新聞も外電(外国発の通信社記事)にはクレジットを入れているのだから、国内記事だけ例外扱いにしている理由が分からない。「全国取材網を敷いているのだから通信社記事を使うのは恥だ」といった「メンツ」程度の発想としか思えない。

一方、現役新聞記者の立場から記者クラブ制度の閉鎖性を厳しく批判しておられる高田昌幸氏は、②の立場のようである。高田氏は自身のブログ「札幌から ニュースの現場で考えること」の中で、沖縄の米軍基地がイラクから帰還した海兵隊の取材案内状を共同通信など一部メディアに限って送付したことに対し、「権力によるメディア選別」であり「民主主義の自壊につながる」と厳しく批判した。

同エントリーでは、選別の事実を知った「沖縄県庁記者クラブ」が他社にも取材を認めるよう米軍に要請したが、実現しなかった経緯も紹介されている。この部分に関し、山川が「記者クラブが抗議する筋合いのものではないのではないか」「必要最低限の記事は通信社に任せて、外側から遠慮会釈なく批判的記事を書けばよいではないか」という趣旨のコメントを送信したところ、高田氏からは次のような返信を頂戴した。

「外されたら思いきり遠慮会釈なく批判的な記事を書いてやればいいのはないでしょうか」との御指摘は、全く同感です。それと同時に「抗議」もすべきだと思います。

ただ、それを「クラブ」でやるかどうかは、現状では微妙なところでしょう。記者クラブはフリーや市民記者等も含めて広く解放し、かつ、当局者に対する「圧力団体」としての機能は残すべきだと私は考えています。

それができていれば、こういう場合、「クラブで抗議」も名実とも意味あるものになるのかもしれません。


コメントを読む限り、高田氏は「記者クラブは当局に情報公開を迫る圧力団体として有益であり、その圧力の正当性と説得力を高めるためにも、記者クラブは閉鎖的な現状を改め、外部のメディアに開放すべきである」という考えのようだ。

確かに、メディアが団結して当局に情報公開を迫ることは必要かも知れない。ただし、その主体は本当に「記者クラブ」でなくてはならないのだろうか。

たとえば、日本新聞協会と民間放送連盟に加盟している新聞・テレビ各社は、メディアスクラムなど複数の記者クラブに関わる問題を調整する目的で、各都道府県ごとに地元メディアの編集幹部と全国メディアの支局責任者で構成する「報道協議会」「編集部長会」などの組織をつくっている。

私は、取材現場の記者クラブを解散しても、こうした各社・各支局の責任者でつくる組織が、圧力団体としての機能を代行できるのではないか、と考えている。(首都圏の場合は、新聞協会や在京社会部長会、政治部長会などが対応すればよい)

圧力団体としての記者クラブの機能を重視するのは、実証的なマスコミ研究で定評のあるブログ「J考現学」にも共通する視点だ。同ブログの筆者は、独占スペースとしての「記者室」の廃止を求めるとともに、当局に会見を要求する圧力団体としての「記者クラブ」は存続すべきだ、との立場から次のように主張する。

記者クラブは確かに閉鎖的で、問題は多い。改善すべき点は山ほどある。しかし、権力に風穴を開ける役割もある程度は果たしているのである。問題にすべきなのは、むしろ知る権利に応えようとしない権力の方である。

その気になれば、各役所のトップは「多様な知る権利に応える」という名目で、記者クラブ加盟社以外の記者を会見に参加させようとすればできるはずである。あるいはわざと非クラブ員だけに記者会見を開くとか。そうすれば、記者クラブは大騒ぎするだろうが、今であれば記者クラブは騒げば騒ぐほど、世の中の支持を失うだろう。

鎌倉市や長野県のように、記者クラブ改革を断行すればいい。どうしてほかの自治体はこれに続かないのか?多様な知る権利に応えたくないからにほかならない。

「J考現学」では、記者クラブ改革案も提示されている。要約すると次のような内容だ。
(1)既存の記者室はすべて廃止し、記者会見場とプレスセンターを設ける。プレスセンターを取材拠点、休憩目的で利用することは認めない。
(2)記者会見への参加やプレスセンターの利用は、記者クラブ加盟社に優先権を与えるが、物理的な余裕があれば希望するメディアの参加も認める。
(3)記者クラブは、記者会見の開催を要求でき、当局はこれに応じる。
(4)発表文はインターネットで同時公開され、メールアドレス登録者全員に送信する。

――この場合、「記者室を廃止した後の記者クラブ」とは結局、前述した「報道協議会」と同じような存在になるだろう。内容自体はそう目新しいものではないのだが、この改革案の要求先として想定されているのが、記者クラブでなく、行政当局である点は注目に値する。「J考現学」の筆者は続ける。

以上のような改革案は、既存の記者クラブに迫る必要はない。当局に迫ればいい。国民の1人として、その権利はある。

戦略としては、いきなり霞が関の官庁に要望するのは実現可能性が低い。そこで、地方からの変革を迫る。都道府県庁、大きな市町の記者室を廃止する要望書を議会に提出する。

いろいろと摩擦は起きるだろうが、全国で運動を連帯させれば、一つ二つと実現する自治体が現れ、やがてうねりとなるだろう。

同感である。記者クラブはあくまで任意の組織であって、その任意団体に記者室を独占使用させているのは行政当局の責任だ。行政を取材するために任意団体である記者クラブに入らなくてはいけないのはおかしい。

新規加入を認めない記者クラブばかりが批判されているが、事の本質は、特定の任意団体に公共スペースの占有を認め、かつその団体に加盟していない取材者からの取材を拒んでいる行政当局の問題なのではないか。

ところで、沖縄駐留米軍によるメディア選別を批判した高田氏のエントリーには、「ぱっと」と名乗る人物から次のような反応が寄せられた。

全てのメディアが参加できる(そうあるべき)とされる理由は何でしょうか。一般国民の意見なら理解できますが、報道関係の高田さんが当然そうであるべきと言われることは、既得権益を主張されることと何ら違いを見いだせないのですが、どうしてそのように言いきれるのでしょうか。

これに対して高田氏は

新聞やテレビだけでなく、もちろん、雑誌やフリーランス、市民記者等々も取材の道が閉ざされるべきではありません。

私が言っているのは、取材される側(それも軍や行政機構等々の公的存在)が、「公正でバランスの取れた」といった都合良く援用できる言葉を用いて恣意的な基準で、取材規制をかけるべきではない、ということです

と反論を試みているが、歯切れはよくない。「ぱっと」氏からは次のような再反論が寄せられた。

「みんな」を招待すべきであれば、まず基地の負担に耐える沖縄県民こそ招待されるべきではないでしょうか。しかしそのようなことは基地の広さから言っても不可能なわけですから、あとは米軍の判断で招待するのはある種当然のように思えます。

また、「抗議」するならなぜ「沖縄県民」を「全て」招かなかったことをまず抗議しないのでしょうか。どうしても「報道機関」は「全て」「特別」に「招待」される資格があると考えられるのでしょうか。

海兵隊の取材を「すべての沖縄県民」が希望するかどうかは甚だ疑問だが、それはさておき、私も「ぱっと」氏と同様に、米軍側が自らに好意的なメディアや、影響力の大きいメディアを選別するのは致し方ないことだと思う。

多くの場合、取材を受ける側は取材の対価を受け取らない。PR効果以外にほとんど何の得にもならない取材を受け入れるからには「費用対効果」を計算するのは、無理からぬことだろう。

そうした「メディア選別」を「記者クラブ」が批判するのは、実は自己矛盾である。何故なら記者クラブとは、当局から「世論への影響力の大きさ」を買われて特別扱いを受けている存在にほかならないからだ。当局側はそうした「影響力の大きいメディア」を記者室に囲い込むことで、少しでも好意的な――つまり発表主体から見て「正確な」――報道を期待しているに違いない。

たとえば、記者クラブはよく、外国メディアの取材を阻んでいるとの批判があるが、近年とみに対外情報発信の重要性を認識しはじめた外務省では、既存の記者クラブ向けの定例会見とは別に、外国記者向けの会見を実施している。それは当局側が外国メディアを「効果的なPR手段」と認識したからだろう。

これとは対照的に、ルーシー・ブラックマン事件では警察の記者説明に外国メディアが入れず、記者クラブが強い批判を受けた。これは警察側が捜査の背景説明を、記者クラブに対する「消極的なサービス」としか認識しておらず、もちろん「対外発信」の必要性など微塵も感じていなかった結果だ。

もしそれが必要だと思えば、当局はいつでも記者クラブ以外のメディアに情報を流すことができるし、逆に「面倒くさい」と思えば、「クラブ加盟社以外からの取材は受け付けていない」などと理由を付けて拒むこともできるのだ。

もちろん、記者クラブとは競合社の連合体であり、競争相手がこれ以上増えることを望まないのも事実だろう。だから記者クラブへの新規加盟を申し込めば断られることが多い。それは悪しき「閉鎖体質」であって、改められるべきだが、一方で、クラブ非加盟でも当局側が「利用価値」を認めた取材者には取材の機会は与えられるのだから、記者クラブに加入する意味はあまり大きくない。

記者クラブは結局、当局が情報開示を望まない時に外部からの批判をそらすための「盾」として、都合よく利用されているに過ぎない。すべては「取材される側」の意向次第なのである。

以上のような理由から私は、沖縄県という行政当局から「選別」されてきた「沖縄県庁記者クラブ」が、沖縄駐留米軍のメディア選別に対して、抗議するのは筋違いだと思う。同時にまた、米軍のメディア選別を「ある種当然」と言い切る「ぱっと」氏が、仮に一方で記者クラブの「既得権益」を問題視しているのであれば、その姿勢もまた矛盾していると思う。

記者クラブも当局による「メディア選別」の一形態に過ぎない。当局が全市民から取材を受けたほうがメリットが大きいと考えるならば、市民からの取材を受け付けるだろう。現実には一部の大手メディアを通して発表した方が「費用対効果」が高いと考えているから、現在のような記者クラブが存在しているのだ。

もし「ぱっと」氏が、記者クラブというメディア選別制度に批判的な立場ならば、同じく米軍のメディア選別に対しても批判的態度をとるのが正しい姿だ。逆に米軍のメディア選別を当然だと考えるなら、論理的には記者クラブ制度も容認することになるだろう。

他方、ブログで読む限り、高田氏はあらゆるメディア選別を問題視しているようだ。彼が「米軍によるメディア選別」を批判すると同時に、「記者クラブの開放」をも訴えていることに注目すべきだろう。「ぱっと」氏がもし記者クラブを容認する立場でないなら、彼は高田氏を批判するのでなく、むしろ支持すべきではなかったろうか。(了)


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2 コメント

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Unknown (高田昌幸)
2005-06-15 02:46:13
私のブログは一次休止にしましたので、こちらでコメントを。



私が言っているのは(1)当局に対する圧力団体的なの機能は残すべき(2)各人の所属先に左右されず、かつフリーや希望する全ての表現者が加わる組織ーーは必要だろうということです。「現行の記者クラブ」の拡大版を想像されると、少し違うかもしれません。官庁の中に居る必要はないし、どっか近辺の適当な場所に事務所スペースを構えてもいいのです。



圧力団体としての機能を各社の編集責任者等に任せる考えは賛成しません。それだと、結局はフリーなど個人営業者等を軽く扱ってしまう余地を残すでしょうし、だいたいがメディア「幹部」は当局と親和性が強いのですから。
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ギルド結成は理想形 (山川草一郎)
2005-06-15 12:50:37
高田昌幸さん、コメントをありがとうございます。東京転勤後も無理のない程度でブログは更新していただくことを期待しております。



さて、ご指摘の件ですが、まず―

「記者クラブはフリーや市民記者等も含めて広く解放し、かつ、当局者に対する『圧力団体』としての機能は残すべき」

との記述から、既存の記者クラブの加入制限を大幅に緩和する形を想定しておられるのかと思いましたが、



「各人の所属先に左右されず、かつフリーや希望する全ての表現者が加わる組織」

「官庁の中に居る必要はないし、どっか近辺の適当な場所に事務所スペースを構えてもいい」

との今回の説明で、より明確になりました。要約すると「取材対象を同じくする記者が、社の肩書きにかかわらず、フリーも含めて結成する職能団体」というイメージでしょうか。記者クラブの圧力機能を「残す」のでなく、オープンな記者クラブを新たにつくるという意味ですね。



理想的にはそれがベストな形でしょうが、現実には、事務局や費用分担、取材先と交渉し、連絡調整する幹事業務などを考えると、フリージャーナリストにはメリットよりも負担の方が圧倒的に大きく、多くの参加は期待できないのではないでしょうか。



そもそもフリーの人には、「情報は個人と個人のつながりで入手すべきもの」と考え、集団の圧力で公開を迫る手法には批判的な人が多いような気がします。当局の記者会見とか情報提供とかを必要とする度合い(あるいはその使命感)も、産業ジャーナリズムとフリーとでは格段に違うと思います。



職能団体=ギルドを結成するとすれば、現実には共通の利害を有する企業内ジャーナリスト同士が手を組む形にならざるを得ないでしょう。もちろんフリーはフリーでギルドを結成し、重要局面では両者が連携するという道もありますが。



圧力団体としての機能を各社の編集責任者等に任せると、「結局はフリーなど個人営業者等を軽く扱ってしまう余地を残す」というご指摘は、趣旨がよく分かりませんでした。「軽く扱う」の主語は「当局」でしょうか?それとも「報道機関」でしょうか?



いずれにせよ、報道機関が団結して当局に圧力をかけて情報を開示させ、その結果はフリーも享受できるようにすればよいのではないでしょうか。要するに、苦労して開かせた記者会見に、フリー記者が「ただ乗り」することを認める寛容さが、報道機関側にあればいいだけなのです。



最後に、「だいたいがメディア『幹部』は当局と親和性が強いのですから」とのご指摘は、警察の裏金を追及されてきた高田さんがおっしゃるだけに迫力がありますね。もし、メディア幹部が当局と癒着しているのなら、現場の記者がギルドをつくって圧力をかけても、上層部同士がグルなのですから、そもそも無意味なのかも知れません。記者クラブ云々以前の話でしょう。

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