山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

ジャーナリストはプレーヤーであるべきか

2005年12月12日 | メディア論
読売新聞社の渡邉恒雄会長が回想録「わが人生記」(中公新書ラクレ)を出版した。といってもここで話題にしたいのは、この本そのものでなく、11日付日経新聞朝刊に掲載された芹川洋一編集局次長の書評についてである。芹川氏はこう書いている。

本書を通じて浮かび上がってくるのは「時代のプレーヤー」としてのナベツネ像である。共産党時代も政治記者としても、球団経営にあたっても、観客席でプレーをみているだけではおさまらず、いつも自らがプレーヤーになり、ときには主役まで演じてしまう。旺盛な知識欲と教養主義をバックに、常に時代の前面に立っている言論人であり、経営者の姿なのである。

本書では言及が少なく物足りなさを感じさせるが、派閥記者としての「活躍」ぶりにしても、読売巨人軍のオーナーとして天下の悪役を演じてしまった「たがが選手」発言にしても、そうだ。時代を論じるのがジャーナリストだとすれば、もちろんその枠を大きくこえている。むしろ、時代をころがす役者の趣といっていい。


「ジャーナリスト」でなく「プレーヤー」。正にその通りだと思う。芹川氏のナベツネ評そのものに異論はないのだが、これを読んでふと思ったのは、「日本の言論界では、ジャーナリストがプレーヤーとなることの是非について議論されたことはあるのだろうか」という疑問である。

派閥記者として大物政治家に食い込み、秘書然として人事を指南したり、若手政治家をあごで使ったり。昔の政治記者にはそういう輩が多かったと聞く。ジャーナリストというよりはフィクサーだ。渡邉氏がそうした派閥記者の一人として「暗躍」したことは有名だ。

ただ、彼らには彼らなりの確たる政治哲学があったのも事実だ。それは書生時代の乱読と記者としての実体験からもたらされた哲学であり、昔の記者は「これからの日本は」「日本の政治はこうあるべきだ」といった持論を競い合った。

その持論を紙面で展開すればジャーナリストだが、現実社会において実現しようとすればフィクサーとなる。西日本新聞の伊藤昌哉記者は池田勇人氏と意気投合し、彼に「所得倍増計画」を炊きつけた。産経新聞の楠田実記者も佐藤栄作氏のブレーンとして政治に関わり、首相秘書官を務めた。佐藤政権の末期には、田中角栄氏の人柄や考え方に魅了された多くの新聞記者が、角栄政権樹立に向けて奔走した。

いずれも現代的ジャーナリスト観からは「不道徳」な行動に思われる。「ジャーナリストは当事者とはならず、常に傍観者、客観的な記録者であるべきだ」という考え方は強い説得力を持つ。

たとえば経済部の記者が株価動向を書くのは当然の業務だが、実際に株を買えば当事者となる。違法ではないが、好ましい行為とは言えない。記者の株売買を内規で禁じている報道機関も少なくないと聞く。経済記者の例えに当てはめると、政局報道に携わる政治記者が、実際に政局を動かそうとするのは「ルール違反」になるだろう。

ところが、ひとたび事件記者に当てはめると、事はそう簡単ではないことに気付く。事件を取材する社会部記者が「客観的である」ということはどういうことか。それは即ち「事件に関わらない」ということだ。では、刑事と競うように、事件現場周辺で聞き込みを重ね、犯人を追う行為は、ジャーナリストとして「ルール違反」だろうか。

「法令には触れないが、明らかに反社会的な行為」というものが世の中には存在する。そうした行為の当事者は、記者の取材を受けると「警察でもないのに、お前らに何の権利があってそんなことを書くのか」と怒ることだろう。名誉毀損で訴えることも可能だ。グレーゾーンの「悪」を暴き出し、被害者を救済しようとすることはジャーナリズムとして「邪道」だろうか。

こうした疑問に対して、筆者はまだ明確な答えを見つけ出してはいない。ジャーナリストと呼ばれる人たちは、時として「プレーヤー」となることをためらうべきでないと思う。一方で今のご時世、そうした行動は世論から激しい批判を浴びるかもしれない。ジャーナリズムに「客観性」を求める世論にも、十分な説得力がある。

「被害者のために事件を解決したい」と行動する事件記者と、「国家国民のために政権交代が必要だ」と信じて行動する政治記者。両者の違いは、その動機の純粋さにおいて紙一重であり、一概に「善」と「悪」に分類できるものではない。

ただ、唯一自信をもって言えることは、事件記者は真相追究の過程で捜査を妨害してはならないし、解決に至る過程は隠さず公表すべきであるということだ。同じように、政治記者は政局に関わる過程で国益を損ねるべきではないし、関わった過程はすべて公開すべきである。

昔の派閥記者には、政局への自らの関与をすぐには記事にせず、関係者が他界した頃にようやく公開する「習性」があった。その点は大いに反省すべきだろう。〔了〕

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