山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

覇道から王道へ ―日本外交の「転機」に備えよ 

2005年01月18日 | 日本の外交
2020年、日本は大国化した中国との関係で「対抗か追随か」の選択を迫られる-。米CIA長官の諮問機関である国家情報会議が最近、報告書の中でこんな近未来展望を示したそうだ。日米同盟を基軸としてきた日本外交は、15年後に重大な転換点を迎えるのだろうか・・・。

報道によれば、報告書は、日本社会の少子高齢化が「アジア経済、とりわけ中国経済との統合」を余儀なくさせると分析しているという。実際、現時点でも多くの日本国民が政府の外交路線を「対米一辺倒」と批判し、「アジア重視」への転換を求める声も強い。そうした文脈の中で、FTA(自由貿易協定)を深化させた「東アジア共同体」構想も真剣に語られるようになった。

私自身は、過分に感情的な要素を含んだ「アジア主義」復権論には与(くみ)しない立場だ。米国人が戦時下の極めて内向きな心理状態に塞ぎ込んでいる現状を考慮しても、なお、現在の国際社会で、米国以上に、日本と民主政や自由経済に関する基本的価値観を共有できる国はない。

さらには憲法上の制約で、国家の安全保障を(核を含む)米国の軍事プレゼンスに依存している現状では「日米基軸」以外の選択肢はあり得ないとさえ思う。これが現時点での私の基本的立場である。

とはいえ、15年後の中国が、日本と価値観を共有できる大国に変貌する可能性はゼロではないし、国連改革や憲法改正の展開次第では、日本の安保環境も劇的に変化するかも知れない。国際社会の集団安全保障体制が機能するようになれば、自ずと日米同盟の比重も軽くなるだろう。(※1)

だから私は、将来、日本国民が自らの利益を冷静に考慮した上で「アジア回帰」へと舵を切るのであれば、その判断を歴史的必然として追認したいと思う。無論、その判断には「中国の体制変化」と「安保環境の変化」という客観的国際情勢の2つの変化が前提となることは言うまでもない。(従って現時点での「日米同盟からの脱却」「東アジア共同体」などの主張は時期尚早であり、賛同できない)

日本国民は明治以来、近代化という価値観を共有する西欧列強の帝国主義諸国と共同歩調をとってきた。その方向性に大きな影響を与えたのは、120年前に福沢諭吉が時事新報紙上に掲げた「脱亜論」であったといわれる。

福沢は、パワーポリティクスが支配する国際政治の本質をよく見抜いていた。その上で、理に従う「王道」と、自らの力を頼る「権道」とがあれば「我輩は権道に従う者なり」と言い切った。当時、清朝支配下の中国は西欧文明を取り入れる近代化を拒み、相変わらず日本を属国と見下し、軍事的に威圧してさえいた。福沢は、そうした国際情勢を客観的に考慮した上で「心において東洋の悪友を謝絶」するとの決意を宣言したのだ。

福沢の影響を受けた明治政府は、「脱亜入欧」をスローガンに欧化政策の道をまい進した(福沢自身は「入欧」とは言っていないのだが)。すでに徳川政権と不平等条約を結んでいた列強諸国は日本を、分割対象としての「アジア」の一部とみなしていたから、「脱亜」の選択は植民地化される脅威からの緊急避難という意味で、正しい選択だった。(福沢はこれを隣家の火事が燃え移る様子にたとえた)

ここで注意しなければならないのは、福沢の脱亜論が、あくまでアジアとの「謝絶」を主張したものであり、アジアの「支配」や「指導」を目的としなかったことだ。彼の主張は、清朝政府が近代化の受け入れを決断しない限り、かの国を同等の主権国家としてでなく、列強と争う「市場」として扱って構わないという、現実主義に則った「割り切り」に過ぎなかった。

それは「アジアからの離脱=アジアの客体化」を意味するものであり、「アジアへの積極関与=アジアの主体化」を論理付けた1930-40年代の「東亜盟主論」「大東亜共栄圏構想」とは正反対を志向するものであったのだ。

さて、福沢の思想が敷いた明治政府の「脱亜」路線は、しかしながら、1901年に福沢が死去したのち、彼が生前予期していなかった事態によって大きく変質することとなった。孫文の辛亥革命によって、中国に近代化、西欧文明化を受け入れる新体制が誕生したのである。

こうなれば、日本と新中国は価値観を共有することが可能になる。福沢が前提とした「頑迷固陋なる儒教思想に支配された清朝」は滅んだのであるから、日本は本来、この時点で方針転換し、国民政府を近代文明の仲間として迎え入れ、積極的に支援すべきであった。

しかし、当時の大隈内閣は「脱亜」路線に固執するあまり、中国政府に21カ条の苛烈な要求を突き付け、新たな外交路線の可能性を自らつぶしてしまった。当時、日露戦争でロマノフ王朝を滅ぼした日本の躍進に触発され、アジア各地で近代民族主義の動きが勃興していたが、日本は彼らの期待を裏切り、「アジアの覇者」へと歩みを始めたのである。(※2)

さらに第1次世界大戦後、列強による世界分割が一段落し、米国を中心に新たな秩序を模索する時期が始まったことも、日本には災いした。日本の帝国主義だけが国際社会で突出し、「秩序を乱す行為」として米国から危険視されることとなったのだ。

それでも中国市場に巨大な権益を抱えたままだった大英帝国とは、同じ帝国主義国として協調が可能だったが、日本は昭和恐慌を乗り切るための対中輸出攻勢で結果として英国製品を中国市場から追い出し、英連邦を経済ブロックの殻に追い込んでしまった。

民族自決の理念を説く米国の「王道」外交と、力と既得権の現実を重視する英国の「覇道」外交の双方を敵に回した1930年代の日本は、一種の思想的混乱状態に陥った。(※3)

そうした中で急浮上したのが、西欧列強からのアジアの解放を謳う「東亜新秩序」論であった。それは民間の「アジア主義」思想を都合よく一部採用してはいたが、基本的には日満支「円ブロック」形成の必要性が生んだ、ツギハギだらけの“泥縄”思想だった。

近衛内閣が打ち出した「東亜新秩序」路線に対して、しかしながらアジアの視線は冷たかった。日本が本気でアジア解放の理念を掲げ、「王道」外交へ転回するのならば、その決断は、中国が近代化を受け入れた1910年代にこそ下されるべきだった。日本の転進は遅きに失したのである。コウモリのたとえを引くまでもなく、西洋と東洋の間を揺れ動く日本の姿は、アジアと列強の双方から疑念を招いた。

先入観に邪魔され、「中国の近代化」という歴史的転機を見落とした失点は、取り返しのつかないほどに大きかった。「覇道」から「王道」への転換期を見誤った日本のアジア外交は、単なる「邪道」外交へと堕落し、アジア民衆の共感を得られぬまま、60年前の8月15日を迎えることになったのである。

戦後の日本にとって、日米同盟は「道義」や「理念」を超えた「覇道」の選択だった。東西冷戦というパワーポリティクスの現実の中にあって、その選択は福沢の脱亜論と同じ意味での「現実的割り切り」として意義を保ってきた。

しかし、戦前の経験が示すとおり、国際情勢は永遠でないことも事実だ。外交路線は常に再検討され、国際情勢の劇的転換期に備えなくてはならない。そして冷戦終結後の現在の国際社会は、1910年代に匹敵する流動期にあるのだ。

中国政府がバブル崩壊などの経済危機を乗りきれば、米国家情報会議の報告書が指摘するとおり、2020年ごろに経済大国として台頭する可能性は高いだろう。だが、果たしてその頃の中国が、議会制民主主義や言論の自由、フェアな競争を担保する市場ルールといった西側社会の価値観まで共有できる国になっているかどうかは依然、不透明である。

一方で、これからの日本外交が、少なくとも従来の路線や先入観に必要以上に束縛され、国民の利益にとって重大な転機を見失うような事態は避けなくてはならない。ポスト冷戦時代の日本外交は、従来の「覇道」路線から「王道」路線へと転回すべき岐路に立っているのかも知れない。(了)



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※1)そのためには国連安保理常任理事国である中国が武力による台湾解放オプションを放棄し、アジア地域の安定に寄与する決意を固める必要がある。

※2)もっとも、この時点では、列強と協調して中国市場の分割に参画した方が利益が大きく、日本政府が国内経済界の反発を制し、かつ列強に歯向かって、新中国の建国支援という選択をすることは現実的に困難であったと想像される。
 しかし、大隈政権の態度が、のちに「日貨排斥」という中国民衆の日本資本ボイコット運動を引き起こしたことを考えれば、早い段階で国民党政府と協調、妥協しながら対中貿易を管理する道を選んだ方が、長期的にみて日本の国益にプラスだったことだろう。そうすれば満州建国→日中全面戦争→太平洋戦争の道も避けられたかも知れない。

※3)無論、ウィルソン米大統領の「民族自決」論には、後発国が中国市場に新規参入するための「門戸開放」要求を論理的に裏付ける目的もあったと思われる。楽天球団のプロ野球入りと同じように。その意味では理念的な「王道」外交も、冷徹な国益計算のもとにあるといえよう。



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2 コメント

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中曽根論文 (山川草一郎)
2005-05-16 18:20:08
読売新聞2005年5月15日付朝刊に掲載された中曽根康弘元首相の寄稿記事「対中外交 国運決めた分水嶺2つ」は大変示唆に富む内容。一読をお勧めします。
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寺島論文 (山川草一郎)
2005-07-05 19:50:22
日本総研理事長の寺島実郎氏といえば、反米独立志向を持つ数少ないリベラル派の論客で、保守系の人間から見ると見解を異にするケースが多いのだが、朝日新聞05年7月5日付朝刊に掲載された論文「新世紀の世界史と日本」は多いに共感できる内容。



「自らも植民地化されるかもしれない恐怖心の中で開国、明治維新を迎えた日本は、富国強兵で次第に自信をつけるにつれて、『親亜』を『侵亜』に反転させ、欧米列強模倣の武力をもって覇を競う帝国主義路線へとのめり込んだ」



「既に、中国やインドにおいて『民族自決』『国民国家』を目指す二〇世紀の世界史のゲームが始まっていたにもかかわらず、遅れてきた帝国主義国家として『列強の一翼を担う一等国』の夢を追い、アジアに覇道を求めた結果、満州国問題で孤立して真珠湾へと吸い込まれていった」



論文が提示する歴史観は、本エントリーのそれとほぼ一致する。
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