山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

靖国神社は「死を要求する装置」か

2005年07月19日 | 社会時評
共同通信社「CH-K」編集部が運営しているブログ「署名で書く記者の『ニュース日記』」で、編集委員の小池新氏が2回にわたって靖国問題を取り上げている。靖国神社とは「国が個人に犠牲を求める壮大なシステムの『最終装置』」であり、そもそも戦死者を国家が慰霊するような施設は、たとえ靖国に代わる国立墓地であろうと要らない、という意見のようだ。

小池氏の主張には無理があると思う。たとえば彼は、民主党の西村眞悟衆院議員の言葉を引用する形で次のように言う。

「靖国は『戦争』による死者のために存在してきたといっていい。だからこそ、議員が言うように、靖国では『戦争をしない』と誓ってはいけないのだ。極言すれば、それは靖国神社そのものを否定することになりかねないからだ」


前段の「靖国は『戦争』による死者のために存在してきた」というのは分かる。その通りだろう。しかし、そのことと、それに続く「だからこそ、議員が言うように、靖国では『戦争をしない』と誓ってはいけない」の部分が、論理的にどう結び付いているのか、筆者には理解できない。靖国神社が新たな戦死者を待ち望んでいるとでも言うのだろうか。

小泉純一郎首相が靖国参拝の目的を「戦没者に哀悼の誠を捧げ、二度と戦争を起こさないと誓うため」と説明していることに対し、「靖国は追悼施設ではなく、英霊を顕彰する施設だ」という異論がある。

顕彰施設である以上、先の大戦が「侵略戦争」だったと認めれば、英霊の名を汚すことになるから、靖国は侵略の事実を認めようとしないのだ、という意見があることも知っている。おそらく小池氏の主張は、そうした議論に影響されたものと思われる。

筆者も「過去の戦争の否定=靖国の否定」という論理ならば素直に理解できる。しかし、小池氏の言うように「戦争をしないと誓うこと=靖国の否定」という結論がどうしたら導き出されるのか、理解に苦しむ。それは明らかに論理の飛躍ではないか。もし西村議員がそう発言したのなら議員の考えが特殊なのであって、安易に便乗するのはいかがなものか。

小池氏は、中曽根康弘元首相が過去に「『国が慰霊するようでなければ、誰が国のために死ぬだろうか』というような発言」をしたことも、靖国批判の根拠としているが、それとて日本が自ら戦争を起こすことを想定した言葉ではないだろう。日本が平和国家の道を歩もうとも、国際社会で「名誉ある地位」を得るために、国民に犠牲が出ることはあり得ることではないか。靖国さえ無くせば、そうした国際社会の責務を免れるというわけでもないだろう。

ところで、筆者は、靖国神社の見解とは異なり、先の大戦を「国策の誤り」「侵略戦争」と認めることと、国のために出征して戦死した将兵の功績を称える行為とは、必ずしも矛盾しないと考えている。命懸けで出撃して、国のために亡くなった彼らの行為自体は、たとえ国の方針が間違っていたとしても、決して汚されることはないと思う。

戦没者の功績を称え、その魂を慰め、感謝することと、後の首相が「二度と戦争を起こさない」と誓う行為が矛盾するとは、どうしても思えない。

もちろん、戦争が職業軍人に支えられていた時代と、日中戦争から太平洋戦争にかけての総力戦の時代では、「軍功」という言葉の持つ意味が違うのは事実だろう。

プロフェッショナル同士の戦闘では、互いに相手国の死者を思いやる精神が成立するが、民間人を巻き込む総力戦では、互いに相手国に対して深い憎しみが残る。まして日中戦争やベトナム戦争のような内戦型の戦闘では、犠牲者は民間人が多い。日本軍が史上初めて行ったとされる無差別爆撃も、国内外で多くの民間人犠牲者を生んだ。

したがって、靖国にまつられた兵士の功績を称えることは、民間人殺傷を肯定することにつながるのではないか、という意見には謙虚に耳を傾けなくてはならない。だからこそ靖国神社には、政府が「国策の誤り」と認めている先の大戦に限っては、兵士の軍事的功績を強調するのでなく、その尊い犠牲を後世に伝えることを優先してほしいと思う。

小池氏の言うように、西南戦争で「賊軍」とされた西郷隆盛らがまつられていないことも問題だ。西郷とて明治国家を思えばこそ、専制政府に挙兵したのであって、天皇制を転覆しようとしたわけではあるまい。たとえ挙兵の目的が(正統政府から見て)間違っていようとも、国のために闘った事実は否定できないだろう。敵将兵の闘いぶりを称え、その戦死を自らの兵の死と同様に悼むのが武士道精神ではなかったか。

同じように、日清、日露から大戦に至る敵国将兵に関しても、その勇敢な闘いぶりに敬意を表し、追悼する展示(顕彰碑や慰霊塔)が、靖国にはあっていいと思う。そうした展示があれば、「侵略を美化する戦争神社」という汚名も返上できるに違いない。

「世の中で言われていることをうのみにせず、もっとよく事実を知ったうえで、自分の頭で考えるべきだ」という小池氏の意見には同感だ。若い世代に、戦前の日本が歩んだ道をすべて肯定するような短絡的な傾向がみられることには、筆者も危惧を覚える。

と同時に、戦後の特殊な教育を受けて育った、我々より上の世代が、戦時の一時の狂気を明治以降の日本の歩みに普遍化し、戦前を一括りに全否定してしまう傾向があることに、筆者は違和感を抱かざるを得ない。

靖国神社が、戦争中の一時期、「国が個人に犠牲を求める壮大なシステムの『最終装置』」として機能したことは事実だろう。しかし、それは靖国神社の本来の目的ではなかったはずだ。戦死を目的化した異常なカミカゼ特攻作戦が、靖国の性格を変質させ、「死んだら靖国で会おう」という悲壮な誓いを若者たちに強いたのである。

靖国を小池氏のいう「最終装置」として利用したのは、先の大戦を指導した政治家や無能な軍官僚たちであり、靖国自体はその何十年も前から存在していた。筆者には、靖国の前身に当たる招魂社が、来るべき「カミカゼ戦争」に備えて発足したとは、どうしても思えないのだ。

現職首相が戦没将兵に不戦と平和(それには国防の意思も含まれる)を誓うことは、靖国神社を二度と「戦死を強要する装置」に利用させないことの誓いでもある。その誓いが本物である限り、靖国にまつられた神々は、この国が再び戦禍に見舞われることなく、靖らかに繁栄を続けられるよう見守ってくれるに違いない。(了)


【追記】文中に個人的な内容が含まれていたことで論旨が不明確になっていたようなので、該当部分を削除しました。(7月21日)




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21 コメント

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Unknown (モーイイヨー)
2005-07-21 01:05:24
私の家族に戦死者が3人、いる。末弟の私だけが生き残った。戦争の時代、そして平和になった時代、自分と家族が辿ってきた70年は簡単なものではない。飽食の身を安楽椅子に座り、口先だけ達者に議論をもてあそぶ。もういい。それよりも残り少ない人生を、戦争を語り継いでいる人々の声に耳を傾けよ。この人々の発するメッセージを君たちはどれだけ理解しているのか?

ブラジルに渡った小野田少尉はNHKテレビで日本を捨てた理由を次のように語っている。「戦争のこと、ジャングルでの孤独の戦い、そして降伏の心境・・・問われるから語るが、結局はケンカになる。投降の時、上官の命令がないと出て行かない、といったことが"カッコつけて”と言われてもう何を言ってもダメだ、とブラジル永住を決めた」と述懐していた。この心境、君にわかるだろうか?

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Unknown (小西"Xaraya"慎一)
2005-07-21 02:37:08
>>直接の戦争経験を持つ祖父は通信兵として中国戦線に赴いたが、病気のため帰国し、幸運にして存命のまま終戦を迎えた。



これがどういう事だったのか、と僕は考えるのです。「歩くことは兵隊の宿命」な陸軍で大陸のどこをどのようにして移動していったのか。「病気で帰国」とはどのような事だったのか。「終戦」とは当時の日本在住の人間にとってどのように生じた現象だったのか、つまり「一様に訪れた」ようなことだったのだろうか、断層として現れたようなことだったのだろうか。



山川さんは当時青年であったお祖父様の目を借りて何が見えていたのだろうか。



僕の父は土浦にいました。幸にして聡明な少年であった父の目を通し僕はそこで一少年として生きることがどういう事なのかを知り得ました。しかし、そのリアルな映像がどういう意味を持つのかは膨大な資料と格闘することでやっと分かってきました。法律、経済情勢、そして「空気」としか言えない何か、を知ることで僕は一少年とは別の大きなパースペクティブを得ることができました。



土浦にいた一少年が風景として見える位置まで着いても僕にはその少年は「すでに艦載機で銃撃される状況」で死んでしまえば僕はそもそもいないのだという決定的な存在としてただの一地点ではありませんでした。



「戦死」、つまり「戦闘状況で死亡」にも色々あり、それが現実的な意味合いを持つがゆえに「終戦後」もその事務処理に忙殺されていた人たちのことも僕は考えていました。



なので僕は実は一度も靖国を思考したことがありません。賛成とか反対とか別の実装とか、を考える地点に至っていないのです。それは一少年の生活から辿るには僕にはとてつもなく遠いことなのです。



そういえば、当時の時代としての子細が不明なのに邪馬台国はどこなのかを論じている人たちがいるようです。その時代には邪馬台国しか存在しなかったように。

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申し訳ありません (山川草一郎)
2005-07-21 12:33:50
モーイイヨーさん、コメントをありがとうございます。私のブログでの記述が不快感を与えてしまったとしたら大変申し訳なく思います。



「残り少ない人生を、戦争を語り継いでいる人々の声に耳を傾けよ。この人々の発するメッセージを君たちはどれだけ理解しているのか」とのご質問ですが、理解しているつもりでも、実際に体験した人と同じ感覚で理解しているとは言い難いと思っています。



小野田さんが「上官の命令がないと投降できない」と言ったのは当然のことですし、「カッコつけている」とは思いません。そう言った人がいるとすれば、ひどいことを言ったものだと思います。



「この心境、君にわかるだろうか?」というご質問については、そんなひどいことを言われたら「もう何を言ってもダメだ思った」という小野田さんの心境は、理解できます。「実際にジャングルで孤独な戦闘を体験しないと分かるはずがない」といわれればその通りかも知れません。



以上、質問と思われる部分に関してお答えしましたが、モーイイヨーさんのご意見は、私の見解に対する疑問や異論というよりは、「戦争を知らない世代が戦争を語っていること」そのものに対する不快感だと想像します。



そのお気持ちは分かりますが、「過去の戦争」は現代を生きる私たちにも大きな影響を与えているものなので、私なりに考えた結果を表明し、異なる見解を持つ方と自由に議論することを「止めろ」といわれても、止めるわけにはいきません。この点だけはご理解いただきたいと思います。私の見解の中で不適切な点があるならば、ぜひモーイイヨーさんの実体験に基づいて、ご指摘、ご叱責いただきたいと思います。



戦争を知らない共同通信の小池さんが靖国に対する私見を表明し、それに対して、同じく戦争を知らない私が異なる私見をもって反論する。「問答無用。貴様らは年長者の言うことに黙って耳を傾けろ」という時代に鍛えられた皆さんには、戦後世代のこうした自由な議論風景は、気に障ることがあるかも知れませんが、何卒、ご理解を賜りたいと思います。



小西"Xaraya"慎一さん、いつも貴重な問いかけを頂き、感謝しておりますが、モーイイヨーさんのおっしゃるとおり、祖父の戦争体験について、実体験のない私が云々することは不適切かも知れません。日本の過去の戦争や靖国について語ることを止めるつもりはありませんが、個別の戦争体験について語るのは以後、慎みたいと思っております。ご了承ください。
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Unknown (人として)
2005-07-21 16:20:27
天皇制の話は別においとくとしても・・・

靖国神社の成り立ちがどうであれ、戦った人たちは「靖国で会おう」と死んでいったことは事実です。靖国参拝否定は、彼らを裏切るに等しい行為であり、馬鹿にするような行為ではないのでしょうか。



そもそも、天皇制維持のために、死んでいった人ばかりではありません。特攻隊員の遺書(検閲なし)を読めば、彼らが「国」のためでなく「家族や隣人」という具体的な他者のために死んでいったことがよく分かります。その彼らが「靖国で会いましょう」「靖国に来れば、父さんに会えますよ」と遺言を残していったのですから、その思いぐらいは叶えてあげましょうよ。他国になんと言われようと、この約束ぐらいは守ってあげましょうよ。
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ありがとうございます (山川草一郎)
2005-07-21 19:21:10
人としてさん、コメントをありがとうございます。「署名で書く『ニュース日記』」にも同じ内容のコメントを寄せられており、文面からも、私の記事に対してというよりは小池さんの記事に対して書かれたものと理解しましたが、如何でしょうか。



ベトナム戦争から帰還した兵士が、反戦活動家から「人殺し」と罵声を浴びせられ傷付いた、という話をよく聞きますが、たとえベトナム戦争が米国人にとって「間違った戦争」だったとしても、国の命令で戦場に赴いた兵士に「戦争の責任」まで負わせるのは、あまりに酷でしょう。



モーイイーヨーさんが引用された小野田さんの話も、戦後の日本社会に帰還した兵士が、世間からの冷たい視線に戸惑い、最後には嫌気がさして外国移住を決意した、という経緯だと思います。



米国政府は、ベトナム戦争で亡くなった将兵も、他の戦争と区別することなく追悼し、敬意を払っていると聞きます。それは当然の姿でしょう。反戦運動家や平和主義者からどんなに後ろ指をさされようとも、国家が戦没将兵を見捨てることはあってはなりません。



<国家が戦死者を慰霊する施設→国家が戦争をするための施設→そんな施設は不要だ>という論理は、あまりに短絡的だと思います。



戦争の実体験がない私には、こうしたことを書く資格がないと言われればそれまでですが。

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Unknown (小西"Xaraya"慎一)
2005-07-21 19:32:36
戦争もまた「個別に」立ち現れるのではないのだろうか。



現在の事象も同じことが言えるが、いつ誰がその「個別に」立ち現れた事象の鳥瞰図を与えたのだろうか、そしてそれは「個別」の体験とどう切り結び、どういう行動に帰着したのだろうか。



山川さんはお祖父様からどういうお話をお聞きになったのだろうか。



大陸に渡ったのはいつなのか、階級は、そしてどの部隊でどこから出港したのか。それらは経験に対して決定的な違いを生じます。お祖父様はどこを歩いておられたのでしょうか。その目に映ったのはどういう「風景」だったのでしょうか。



兵隊と言っても旧軍では少なくとも



常備兵役

後備兵役

補充兵役

国民兵役



という法に根拠を持つ違いがありました。補充兵として戦地に行く事は現役として行っていた事とは経験として大きく異なります。



そして、「特攻」もまた、知覧での最初の状況と、僕の父が見たような土浦でのそれは全く様相を異にしています。



「一口に戦場で死ぬって言いましてもね、直撃弾くらって即死する場合もあれば、飢えと病でじりじりと野ざらしになりながら死んでいくのもあるんですね。負傷して、足がとれて、なんとかはじめはそれでも隊と行動をともにしているが、そのうちだんだん弱ってきて、ついに落伍するかはぐれるかして、野垂れるのもあるんですわ。それはねえ、おんなじ死ぬっていっても、えらいちがいなんですよ、ほんとは!しかしそういう経験をもたない者はね、そこであなたが集めている例でも当時のぼくでもね、みんな、死っていうものをおなじようにしかとらえないんですねえ。さまざまにあるんだっていうとらえかたができないんです」



加古川からガタルカナルへ送られた赤松元二等兵はこう語ったのですが、僕もまた父の話を聴いていて同じことを思ったのです。



では、誰が鳥瞰図をどうやって何を意図して誰に語ったのだろうか。

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すみません (山川草一郎)
2005-07-21 20:04:48
小西"Xaraya"慎一さん、いつも名文コラムをありがとうございます。おそらく小西さんも戦争を体験された世代ではないと思いますが、モーイイヨーさんのおっしゃりたいことは、内容云々よりも戦争を体験していない世代が「戦争」をネタに文を書き連ねる行為、に対する不快感だと思うのです。



私は「ニュース日記」の小池さんの書かれた記事の結論部分に違和感を感じ、かつその論理に飛躍があると思ったので、それを指摘したかったのです。それにあたり、「戦争を体験した世代でもなく、靖国に親族がまつられているわけでもないので、靖国に特別の思い入れがあるわけでもないが」と断りを入れたつもりでした。



というわけで、祖父の話はこのエントリーの内容の本旨とは関係ありません。祖父の話を引用して、さも自分が見てきたかのように書くのも気が引けますし、モウイイヨーさんの不快感も一面では理解できますので、今後もその話題に応じるつもりはありません。重ねてご了承いただきますよう、お願い致します。



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Unknown (Unknown)
2005-07-21 21:11:25
身内に戦死者がいるのはわかるけど、いきなり他人のブログに「飽食の身を安楽椅子に座り口先だけ達者な議論をもてあそぶ」は失礼でしょう。どんな正論も礼を失したら受け入れられませんよ
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どうも (山川草一郎)
2005-07-21 23:23:23
率直に言って、私は読者の方のコメントが失礼かどうかにさほど興味がありません。多少失礼な表現でも、やりとりをきっかけに何か得るものがあれば、建設的な対話だということになりますし、いくら丁寧な口調でも建設的な対話にならない場合もあるでしょう。



たまに議論自体を否定されることもありますが、感情論に感情論で対応しても何も得るものはないので、そうした時には、なるだけ相手の言いたいことを斟酌してご返答することにしています。



少し前の「報道ステーション」で、キャスターの古館伊知郎氏が、ゲスト出演した中曽根康弘元首相の改憲試案について問い質していました。「戦場に行かない中曽根さんみたいなエリートに、戦場に行く人の気持ちは分からない、と言う意見もありますが」と聞く古館氏に、中曽根氏は「そういう意見があることは健全なことだと思いますよ」と受け流したあとで、自身も海軍に所属していたことや兄弟が戦死していることなどを淡々と語っていました。



中曽根氏が海軍主計少佐だったことは有名なので、古館氏はずいぶんと失礼なことを聞くなと思いましたが、それよりも中曽根氏の冷静な受け答えの方が強い印象を残しました。戦争を体験している人の言葉というのは、控えめな表現であればあるほど、他人には簡単には窺い知れない「何か」を感じさせるものです。



私の靖国に関する記述が、モーイイヨーさんに不愉快な思いを与えたのだとしたら、ただただ申し訳ないと思うだけです。一方で、モーイイヨーさんと同世代の方でも、私の記述を読んで特に不快に思わない方もいるかも知れません。印象は人それぞれですから、あまり気にしても仕方がありません。



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Unknown (Unknown)
2005-07-22 00:30:28
お~い、山川~!

飽食の身を安楽椅子に座り口先だけ達者な議論をもてあそぶなよ~!w



削除した部分を読ませろw



たとえ、胸グラ掴まれて「知った風な口きくんじゃね~よ!餓鬼が!」と膝蹴り十連コンボ喰らったとしても、語り継がねばならないモノもあるんだぞ。山川のおじいちゃんの話は、山川が語り継がねばならない話なのではないのか?おじいいちゃんが死んだあと誰が語り継ぐよ?おじいちゃんの話をを安易に引用してしまったとしても削除はするなw 訳わからんじゃないかw



まぁ、エントリーそのものは小池氏のブログに対する意見が主らしいので、無くてもいい一文であったのかもしれんがな。



で、だ。戦争というものをネットできちんと語ることのできる文化の第一歩として「靖国問題」はいい題材だと俺は思う。「知った風な口きくんじゃね~よ!」という意見も含めてだ。それを含めて、子供たちの為になるログが作成されるべきだと俺は思う。夏休みに入れば、小・中・高校生たちもそれなりに戦争について考える機会が増えるであろうし、このブログを読む奴もいるだろうしね。



要するに俺が言いたいのは「暑い毎日ですが、元気を出していきましょう」ってこった。
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