(小学校低学年期)
道徳判断についても、かなり利己的な傾向がみられる。たとえば、じぶんが、悪いことをしても、わざとじゃないよ、というように弁解して、平気でいるのに、他人が悪いことをすると、それがわざとじゃなくても、非常に非難する、といったたぐいである。すなわち、自己に対しては動機論をとり、他人に対しては、結果論をとることになっている。これは、一見はなはだ利己的なように思われるかも知れないが、これも、「あそび」と同様に、半分自己中心的傾向から脱却してきた中途の現象なのであって、じぶんのことは、動機がわかるから、動機論をとり得るが、他人のことについては、他人の身になって考えてみるという能力が発達していないため、このような態度に出るものと考えなければならぬ。だから、これを利己心の発露とのみ考えて、いたずらに、しかったり、せっかんしたりすることは、きんもつである。
「子供の心理」波多野完治 講談社学術文庫 1976年
富翁
道徳判断についても、かなり利己的な傾向がみられる。たとえば、じぶんが、悪いことをしても、わざとじゃないよ、というように弁解して、平気でいるのに、他人が悪いことをすると、それがわざとじゃなくても、非常に非難する、といったたぐいである。すなわち、自己に対しては動機論をとり、他人に対しては、結果論をとることになっている。これは、一見はなはだ利己的なように思われるかも知れないが、これも、「あそび」と同様に、半分自己中心的傾向から脱却してきた中途の現象なのであって、じぶんのことは、動機がわかるから、動機論をとり得るが、他人のことについては、他人の身になって考えてみるという能力が発達していないため、このような態度に出るものと考えなければならぬ。だから、これを利己心の発露とのみ考えて、いたずらに、しかったり、せっかんしたりすることは、きんもつである。
「子供の心理」波多野完治 講談社学術文庫 1976年
富翁
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