しゃけの携帯写真

携帯写真で景色撮るのが好きなのです。見てください。

爪木崎は楽しい 【重要史跡:玉泉寺の巻】

2009-12-28 16:00:40 | バイク ツーリング 携帯写真 風景
伊豆下田の爪木崎で、水仙が見ごろだというので出かけてみた。
爪木崎には埼玉県入間から、圏央道八王子JCTを経て中央道大月JCT、東富士五湖道路、東名御殿場、沼津IC、伊豆縦貫道、修善寺道、R414(天城声)、河津七滝ループ橋で眼を回し、K14、、R135右折、下田港のチョッと手前柿崎を左折で行かれる。

途中、タンクに貼り付けてた地図が気づかぬうちに吹っ飛んで、中央谷村PAあたりでは寒さがひどくかえろうかと思ったし、道は妖しく氷の結晶が光ってる。やべ~帰ろう。今から引き返し童子さんと上野原で蕎麦でも食おうと思うほどだったが、籠坂トンネルを越えたら急に別の国の暖かさ。上記ルートで
湯ヶ島でガソリン入れるまで一気に走る。天城越えで転倒した人が居て救急車が二台下りてきたとGSのおば様に脅かされたが、既に溶けていて快走する国道だが偉く楽しいワインディングでスピードが乗る。

135号線柿崎を左折すると、『水仙祭り』の看板が出ていて目的地はすぐ判る。
ところが、『史跡玉泉寺』の看板が眼に留まる・どこかで聞いたことがある・止まれと脳が命じる。

ここはペリー艦隊と同時期に来航した米国初代在日総領事タウンゼント・ハリスの領事館となった所だった。田舎のひなびた寺にしか見えないが、日米の外交史で最重要な寺だったのだ・・・ここに来れたなんてなんという幸運だろうと思った・・・

というわけで、今回は【重要史跡:玉泉寺の巻】、【爪木崎・景色くいものの巻】、【爪木崎・可愛い花たち】の三部作でお届けいたします。

大丈夫!最初から退屈させないってば・・・・


話題はチョッと変るが、足が短いのでバイクから降りるとオーバーズボンを引きずってしまうので写真のようにめくらなければならない。
なんだか、これからオシッコするオバサンみたいですごく嫌だ。
サービスエリアでトイレに並び、甲斐甲斐しくズボンの裾めくってるおばさん、『さあ!オシッコするゾウ!』というあの態度、見えないところでやってよね。

短足の俺は、女性にはもてないが、犬にはもてる。犬のほうから寄ってくる。
犬は優しい人がわかるんだよ~ん♪

しばらく犬と話してていたら、『犬がお好きかしら?』とお寺の奥様らしき人に声をかけられた。お寺手作りの蜜柑を戴き、歴史の話をした。下田は幕府の直轄地であり、外国船を入港させるのに江戸に近からず遠からずの地として選ばれたこと、ここ玉泉寺では『日米修交条約』だけでなく『日露通行条約』も交わされ、北方4島が日本領土としてこのとき確定していたこと、1856年の日露調印の日に、下田で
大地震と大津波があり、ロシア艦ディアナ号が沈没し4人の犠牲者が出て、この寺にはロシア人の墓もあることなど興味深かった

日本初の外人墓地で、安政元年から安政三年(1856~58)、玉泉寺が米国領事館であった期間、米艦隊旗艦サスケハナ号乗員など、無くなった米国人の墓が5基立っていた。最年長の軍医行年38歳のJ・ハミルトンのかすれた墓碑(一応英文だじょ)を見ると、『この墓石は、彼を敬愛する艦の有志によって立てられ・・・』というようなことが書かれていた。墓の専門家である自分から見ると、石は当時手に入る最高級墓石ではなかったが、形態は堂々たる大名墓の形式を採っている。つまり決して粗末なものでなく、かといって政治的配慮だけではない日米交流の絆がなぜか感じられる。ロシア人の墓もほぼ同じ仕様である。
ロシア人は4人で津波の事故死。本当に遠い異国で気の毒だ

ロシア人はアレクセイというファーストネームの人が多かった。
ロシア人はアレが臭えのか・・等と密かに思うのが俺らしい所だ・・・
あ、ロシア関係者の方、ごめんなさい。きちんと脱帽してお参りしました

心がこもった墓だと感じたのは、ロシア人の墓からは北方の山が見え、
米国人の墓からは下田港・太平洋が見えることだ。つまりそれぞれの
故国をむいて立って居るのだ・・・これに気づき歴史を大変身近に感
じる事が出来た。これも旅の楽しさの一つだと思ってる。

併設されているハリス記念館にあったハリスの公務用の羽織。
家紋が何と米国のシンボルの鷲だ。眼はいかめしいのだが、羽根がすずめのようで妙に可愛い。これを生真面目な顔で着ていたハリスの人柄が感じられた。



【ハリスと愛人『唐人お吉』の会話】

お吉 『お乳を搾ってまいりました・・・』
ハリス『Oh!そのお乳私の欲しかったお乳とすこ~しちがうので~す!』
お吉 『?』
ハリス『貴女がしぼる、それよくな~い。絞る私です。』
お吉 『・・・・・・』
ハリス『・・・・・・』

と、言うわけで、お寺には外国人が牛を絞ったり食べたりするための設備も有ったようです。寺で殺生ですから、又、外国人も教会を建てずに寺を尊重したのですから、鳩山オバマよりは余ほどお互いの文化を尊重していたのだと思いました。


この寺をカーター大統領や、ライシャワー駐日大使等多くの米国要人は大変日米交流の象徴として重視しているようです。
残念ながら、日本ではこの寺の重要性はあまり考えられていないように思います。
渋沢栄一は駐日大使バンクロフトと交流が深く、玉泉寺の重要性を認識していた数少ない有力者です。日米交流の実績を買われ米国が日本の小学生に送った12,700体の米国人形、有名な『青い眼のお人形』の受け取り手と成ったのです。

私は、今日ここに来て良かったと思います。機会があれば、米国人、ロシア人をここへ連れて来たいです。

最後にハリスがここの領事になった日の日記を紹介して、一旦筆を置きます。
次号、景色やお花お楽しみに!

【タウンゼント・ハリス領事就任の日の日記】
1856年9月4日
興奮と蚊で眠れない。ここの蚊は何故こんなに大きいのか?(中略)
兵達は領事旗を立てるため朝7時半から作業を開始している。(中略)
午後二時半にここに最初の領事旗が翻った。(中略)

疑いも無く新しい時代が始まる。
敢えて問う。 日本の真の幸福に(このことは)成るだろうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日のブログはまじめだなあ。
オバマ君、鳩山君、読んだらポチしてよ~♪
写真を見てくださってありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。


にほんブログ村 写真ブログ 携帯写真へ
 ポチッと応援お願いいたします





最新の画像もっと見る

コメントを投稿