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Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

岡山 昼寝

2007-04-13 23:59:39 | 
幼い頃、私の故郷にも路面電車が走っていた。しかし物心付く前に廃線となってしまった。そのためか旅で地方へ行った際、函館・松山・長崎・鹿児島等で路面電車が走っているのを見ると妙に懐かしさを感じてしまうのだ。

15:50、岡山着。知人の家に泊めて貰う予定のため、電話をしてみる。18:30には捌けるので適当に時間を潰しているように言われた。
駅前でガイドブックを見るも岡山城と後楽園以外特に目立つ物はない。とりあえずそっち方向へ行ってみることにする。

駅を出るとそこには意外にも路面電車が走っていた。150円で県庁前まで行く。そこから徒歩で岡山城へ行って見た。この日、岡山は桜の開花宣言が出たそうだ。


【市内のマンホールの蓋、さうが桃太郎のメッカである・岡山城】

岡山城をのんびり眺める。ちなみに300円払えば城の中に入れるらしいが、特に展示物を見ても仕方がないので横にある後楽園に向かった。しかし、丁度16時になったため裏門は閉鎖となった。表門にまわればまだ入場出来るようであったが急いでまわっても仕方がないのでまた次の機会にすることにした。

まだ約束の時間にはかなりあった。特に行きたいところもないため桜並木の下のベンチに寝そべる。


【後楽園前での昼寝・旭川に架かる鶴見橋】

思えば一昨日の松江宴会。昨日の大山登山&山頂宴会。夜の米子打ちあげ。今日の各駅停車の旅、新見・高梁・倉敷とたった48時間のうちにかなりアクティブに動いていた。東京を出たわずか2日前が遙か昔に感じられた。

ザックにiPodを突っ込んできたのを思い出し取りだしウトウトし始めた。桜の季節らしい穏やかな温かさが非常に気持ちいい。普段なら出張とはいえこの時期にのんびり旅をすることはあり得ない。突然、ランダム演奏から矢野顕子の『春咲小紅』が流れ出した。どちらかといえば梅の花っぽい曲であるが何か最高に春らしい気分になった。


春咲小紅

作詞:糸井重里
作曲:矢野顕子
編曲:YMOYMO

ほら春咲小紅
ミニミニ 見に来てね
わたしのココロ
フワフワ 舞い上がる

いつ咲くかしらと待ちぼうけ
指折り数えて いたかしら
お返事出します 微笑の
どこかにポチッと 赤い色
わたしに逢えばわかります
自分で言うのもへんだけど
今日はなんだかキレイです


倉敷

2007-04-12 23:59:33 | 
高校のときの思い出はあまりない。進学校の上に男子校。学園祭も3年に一度しかなくなく、必修科目の社会の履修も1単位のみ。芸術系の授業は2年次まで。1日8時限の授業時間と毎週のように行われる模試に辟易していた記憶が著しい。

そんな中でも、2年次まで選択であった美術の授業は良い感じの息抜きであったと記憶する。私は創作活動は苦手な部類であるが、写生と称し学校の裏手にある阿武隈川沿いで昼寝をしたり、鑑賞という理由で近くの県立美術館にみんなで絵を見に行ったりとのんびりした物であった。そんな記憶さえすっかり忘れ去っていたが今回、思い出すきっかけとなるものに出くわした。

13:41、倉敷着。備中高梁からわずか35分であるが昼飯のときのビール大瓶のおかげで熟睡であった。

改札を出て唖然とした。これまでまわってきた山陰の都市やJR伯備線沿いの街とは明らかに違い人も建物の数も多く都会なのである。

とりあえず駅の観光案内所にて情報収集。美観地区という場所が名所らしい。10分ほど歩くと左手がやたらごみごみし始めた。美観地区に入口であった。確かに歴史的古さが漂い、面白そうではあるが人が多いところはどうも苦手である。

美観地区の入口にギリシャのパルテノン神殿を思わせる建築物があったのには笑ってしまった。しかしこの建物、1930年に設立された日本最古の私立近代美術館である『大原美術館』であった。

私は芸術のことは良くわからないが、『大原美術館』という名称は聞き覚えがあった。ガイドブックを見て驚いたことがあった。高校の頃にこの美術館の所蔵する作品を見ていたという事実を知ったのだ。

20年近く前、たまたま特別展示で私の田舎の美術館にこの大原美術館の『児島虎次郎』の「ベゴニアの畠」等の作品が来ていたことを思い出した。折角なので見て行こうと思ったが団体のおばさん方が挙って入場して行ったので今回はやめた。

美観地区は運河に沿って拡がり、道端では針金細工等の物売りが並んでいた。通りには雰囲気の良さそうなレトロ風の喫茶店等もあったが、なにぶん混雑している。『民藝館』や『日本郷土玩具館』も覗いては見たがやはり人が多く落ち着いて見れない。



まあ、春休みといえばそれまでなので仕方ない。今までののんびりした旅から気忙しい観光地に来てしまったことに若干後悔しながら倉敷の駅に戻った。またゆっくり空いている時間帯にぶらぶらしたい場所である。

JR伯備線 備中高梁2

2007-04-11 23:08:43 | 
婆さんに見送られ石段を登る。寺からの高梁の眺めはのんびりした春の様相であった。気温は22度。初夏を思わせる日差しが気持ちが良い。

寺はそれほど面白くなかったため観光コースを歩き始める。辺りの風景は畑の準備をしている人がいる程度で長閑そのものである。


【散策途中で見つけた廃車】


頼久寺・武家屋敷を過ぎると美観地区に指定されている紺屋川筋に出る。この川、備中松前城の外堀の役目を果たしていたらしく水路も土手も石で作られていた。丁度桜も咲き始めていて風景が楽しい。


電車から見えた広い石段は旧松山藩城主の居城(通称:御根小屋)であったらしく現在は高梁高校となっていた。

そこから今度は駅に向けての通りを歩く。木造のレトロな雰囲気の建物が並び、非常に面白い。


【高梁市街の風景】


丁度昼時だったため見つけた割烹で昼食を注文し冷えたビールで流し込んだ。残念ながら地元の食材は無かったが暑い陽気にビールは最高であった。

倉敷行きの電車は13:06、ちょっと間があったので今更がならに観光案内所を覗く。私の歩いたルートを案内所のおじさんに話すと市内の名所は十分らしかった。精進料理屋のばーさんにつかまった話をすると、おじさんは大笑いしながら、
「いい人に会って良い説明が聞けたじゃろう。」
と言ってくれた。

彼女はこの地域のトップレディであるらしく、昔は盛んに婦人会活動等を行っていたそうだ。

JR伯備線 備中高梁

2007-04-10 23:43:50 | 
備中高梁(びっちゅうたかはし)この梁という漢字を恥ずかしながら私は実家の近くにある梁川(やながわ)という地名を意識していたため正しくは読めず、駅が近づくまで『びっちゅうたかやな』と勘違いしていた。車掌さんの、
「次はびっちゅうたかはし」
というアナウンスにより車窓を見ると、見事な石畳の階段や石造りの水路が流れる街であると知った。10:46備中高梁着。雰囲気が良さそうな街であったため下車した。とりあえずガイドブックに載る3時間の徒歩コースを歩いてみることにした。駅の真裏にある松連寺というお寺に向かう。途中、井戸端会議をしていた地元主婦が私を見つけ何処へ行くのか訊いてきた。寺の名前を告げると、
「ああ、すぐそこじゃよ...。その後、石段の下を左に進むとぐるっと回ってこれるじゃよ...。」
と教えてくれた。特に寺巡りの趣味はないが何とも雰囲気が寅さんっぽく、頭の中をテーマ曲が流れた。目的の寺の石段の下まで行って笑ってしまった。なんと先日テレビで見た、『男はつらいよ 第32作 口笛を吹く寅次郎 』のロケ地との碑があった。どおりでテーマ曲がまわるはずである。

「あんた勉強してらっしゃるじゃか...?」
突然、背後から声をかけられた。見ると手拭いを被ったばーさんが突っ立っていた。
「いいえ、観光でぶらっと寄ってみただけだったんですが...。」
「ほーか。この寺のあの紋様はなんだか分かるか...。」
ばーさんは一方的に話題を振ってきた。彼女が指さす先には寺の屋根に描かれた菊の紋様があった。


【松連寺遠景・菊の御紋】

「菊ですかね...。」
「そんなことは誰でも分かる!その意味は何じゃ!!」
こんなぶらりと寄った土地で見知らぬばーさんに説教されるいわれもないがこう答えた。
「ああ、天皇家の関係の寺って事ですか?」
「よく知ってるなあ!たいしたもんじゃ!」
たいしたもんじゃといわれて悪い気はしない。

ばーさんが言うには何でもこの寺は天皇家にゆかりがある寺で菊の紋を持つ由緒ある寺は日本でもそうはないらしい。ちなみに私の実家近くの霊山町(現伊達市)にもそんな寺があった気がする。

延々とばーさんの話は続いた。このばーさん、若い頃この寺の下で『長船』という精進料理屋を経営していたらしく今は95歳の隠居の身だそうだ。適当にあしらって退散しようとするが、少々耳が遠いせいかこちらの話が聞こえにくいらしく話が伝わらないのだ。適当に相づちを打っていると終いの方には東京の新宿に孫がいる話や、旅行などしないで子供を作れだのと説教をされてしまった(笑)。

「折角だから元気のいいばあさんの写真でも撮らせてくれよ!」
カメラを取り出すと、
「ああ、ちょっと待ってろ。」
と言いばあさんは手拭いを解いた。
「ばあさん、洒落っ気があるんだから長生きするぞ!」
と返すとばあさんは嬉しそうに大笑いしていた。


【隠居のばーさん】

JR伯備線 新見

2007-04-09 22:29:23 | 
本日で当ブログも2周年となりました。2年間でジャンル別にweblogという名の戯言116、登山・アウトドア86、旅88、音楽35、映画22、合計347という出来事がアップされてきたわけです。この旅の途中ではこのブログを通して知り合った方と初めてのオフ会を持つことも出来ました。今後何処までこのブログが続きますやら...。

ということで、毎年恒例『弁慶と牛若丸』♪おーいはじまるよ!!←なんかやってて恥ずかしくなってきた(=_=)

昨日までの続きです。

上石見の駅で鳥取県を後にし岡山県に入った。分水嶺を越えたため次の新郷駅からは西川という高梁川の支流と下ることになる。

9:41、岡山県新見市着。乗り継ぎの倉敷行きは10:11発である。駅の改札近辺には思った通り、現在封切られている映画『バッテリー』のポスターが貼られていた。当然市内には映画館はないため倉敷まで出なければ見れないらしい。



この映画、原作は『あさのあつこ』という女優の名前のような児童文学作家が書いた少年野球物であるが、ストーリーが大人にも共感を呼び原作本1000万部を超える大ベストセラーと化した。現在、小説も5巻まで全部出揃ったが、私は昨年3巻まで一気に読み4巻の発売まで間があったためそこから先は読んではいなかった。ところが、この旅を終えて家に帰ると何故かこの映画の鑑賞チケットがあった。嫁が言うには私の留守中新聞屋が置いていったらしい。そこで4月7日(土)暇に任せて見にいった。監督は『コミック雑誌なんかいらない! 』『陰陽師1・2』の滝田洋二郎であった。肝心のストーリーはというと単純明快な物であったがエンディングを知らなかっただけにそこそこ楽しめた。作中の新田市はこの新見の町が設定らしいが、映画自体は岡山のあちこちで撮影したようだ。じーさん役の菅原文太の渋さもさることながら何より新見やこの後に書く予定の高梁の風景が入っていたので余計に楽しめた。

話は戻るが、新見の駅前は瀬戸内海に注ぎ込む高梁川が流れていた。とは言った物のこれといった観光の目玉はなく15分程度の散策となった。試しに観光案内所へ立ち寄って見るも歩いていける範囲にはやはり珍しい物はないようだ。何か変わった食い物が無いかと覗いた商店にも面白い物はない。しかし、かなり懐かしい物を見つけた。

かつて一世を風靡したトイレットペーパー、『落とし紙』である。この紙、今のように水洗トイレが普及する以前の汲み取り式トイレで使われていた物で今で言うB5サイズほどの紙である。用を足した後はそのまま便壺に落とすため『落とし紙』と呼ばれていたらしい。


【冷蔵庫の上の束が落とし紙】

この辺りの家庭は未だに水洗トイレの普及が進んでいないのだろうか?そんなどうでもいいことを考えながら駅に戻り出発前にトイレに行き笑ってしまった。トイレの電灯の覆いが外れていた。幼い頃、私の実家のトイレも汲み取り式でこの電灯の覆いを使っていた。しかし、いつの間にか電灯の覆いが外れ、その覆いは元の場所に設置し直されることはなくトイレ内で未使用の落とし紙を置いておく箱に代わっていたのであった。

更に列車にて揺られる。備中川面(びっちゅうかわも)の駅でのこと。ホームに降りて特急電車の待ち合わせの時間確認をしている車掌さんに声をかけた。
「新見って乗り継ぎの始発駅で、駅前にホテルとかありましたけど観光って何があるんです?」
車掌さんは、
「スキー場や横溝正史原作の映画『八つ墓村』のロケにも使われた鍾乳洞『満奇洞』があるんですよ。どちらもバスやタクシーに乗らなきゃ行けませんけどね。それよりこの先の備中高梁(びっちゅうたかはし)の方が観光には有名なところですよ...。歩いては行けませんが、それこそ『八つ墓村』のロケに使われた屋敷なんてのが残ってますからね。高梁はいろんな映画のロケに使われている街ですよ。」
と教えてくれた。
確かに観光ガイドに載るような土地なので降りてみようとは思っていたところである。

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以下goo映画より抜粋
中学入学直前の春休みに、岡山県に越してきた原田巧。少年野球のスター選手だった彼は、ピッチャーとしての才能に絶大な自信を持っているが、母親が病弱で弟・青波にかかりきりだったためか、他人を寄せ付けない孤独さを漂わせていた。そんな彼が、同級生の永倉豪と出会う。巧の天才的投球に惚れた豪の希望で、二人はバッテリーを組むことに。入学した中学でさっそく野球部に入った二人は、順調に絆を深めていくが…。
[ 2007年3月10日公開 ]

JR伯備線 ファン

2007-04-08 22:19:08 | 
世の中には様々な趣味がある。例えそれが私の価値観から見て不思議な物であってもそれはそれでその趣味を持つ人の個性の問題だし、それにより周りに迷惑をかけなければ一向に構わないと私は考えている。しかし、その趣味が全く私に興味が無い事なのにもかかわらず、その事を延々と語られるのはかなりの苦痛である。

上石見駅のホームに戻ると大学生くらいの男性が話しかけてきた。
「鉄道ファンの方ですか...?」
私は見ず知らずの方にこんな事を問われるのは初めてである。
「違いますけど、なんで...?」
丸刈りで、濃紺のアディダスのジャージを着ていたその男性は、
「いえ、先ほど根雨の駅で特急スーパー八雲6号の写真を撮っておられたようですので...。」
「ああ、何となく撮っていただけですよ...。」

この男性、大学生で学校は春休み。暇に任せて青春18きっぷで周遊しているらしい。何となく世間話程度に話を合わせたところやたら懐かれてしまい徐々にうざったくなってきた。放っておけば一人で、
「この駅は見通しが良いのに予備信号がありますね...。」
とか、
「伯備線の駅は全部で28あるんですよ...。」
とか私にとってはどうでもいいことをブツブツ話し始めた。この先新見まで行って姫新(きしん)線で津山方面へ行くらしいが途中までつきまとわれるのもうざいので、こう返した。
「どうでもいいが、にーさんは鉄道研究会か何かに入っているのかい?」
頷いたヤツに更にこういった。
「じゃあ、やっぱりかわいい子なんかサークルにいるんだろうな...?今回は一人旅なのかい?」
ヤツは照れた素振りでこういった。
「いえ、そのような物は一切縁がありませんので...。」
更に私は冷やかすように続けた。
「縁がないって言ってもさぁ、その素振りじゃ気になるのは一人くらいいそうだぞ...。いるんだろ...。」

...我ながら全く嫌なオヤジの発言である。丁度特急が通過するというアナウンスがあったのでヤツは足早に私から去って本人にとってのベストポジションで一眼レフカメラを構えだした。


【JR伯備線普通列車・一眼レフを構える鉄ちゃん】

馬鹿馬鹿しい会話であるが、私はこうしてこの大学生から逃れることが出来た。

当の本人はというとあまりに写真撮影に熱中し、この特急電車の通過直後に我々の乗る普通電車が出発する事実をすっかり忘れていたと見え、車掌の出発の笛の音に焦って、
「すみませ~ん、乗ります~!!」
と血相を変えてホームを走ってくるというおまけが付いた。鉄道マニア恐るべし...。

※ 『鉄道マニア』の方々は自分たちのことは『鉄道ファン』と呼ぶらしい。

JR伯備線 春

2007-04-07 22:52:43 | 
26日(月)モーニングコールを頼んだにもかかわらず二度寝してしまい、気づけば7:00、慌てて飛び起きる。身支度を調え、すぐにチェックアウト。ホテルの朝食を5分で済ませ駅へ走った。

丁度滑り込んできた普通列車新見行きに飛び乗る。この列車は山陰本線から岡山の倉敷までを結ぶJRのローカル線である。通勤時間帯とはいえ中心部から郊外へ向かう路線。あっさり座れた。車中は春休みにもかかわらず部活でもあるのか高校生が大半を占めていた。

嬉しいことにこの列車、ほとんどの駅で1分間隔で止まる上、特急列車待ち合わせの際は最大17分程度停車するところもあるのだ。昨日大山に登る途中で会った人から距離によって有効期限があるため乗車券だけ購入しても表示されている経由路線の間なら戻らない限り途中乗り降り自由であることを教わったのだ。その特典を利用すべく東京までの切符を昨夜購入したのだ。


【米子-国分寺間の乗車券・6日間有効】

車窓からの景色は日野川沿いに進み、菜の花も所々に見頃でのんびりしていた。根雨の駅にて5分ほど停車。高校があるらしく学生がこぞって降りた。駅前は特に目立ったものもなかったので、ホームに戻ると特急電車が通過していった。程なく出発。次は上石見という駅で17分の停車であった。こちらも駅前には郵便局と商店がある程度で特に面白い物はない。すると先ほどまで隣の席に座っていた女性が何かを探すようにウロウロしていた。声をかけてみると京都の大学を卒業したばかりの新任の小学校の先生で、新年度付でこの界隈の小学校に赴任となるそうだ。職場となる学校へ挨拶に来たのだが、ここから歩くと30分ほどあるらしく、バスもタクシーも駅前にないため困っているとのことだった。郵便局で何か方法を聞いてみることを提案したらお礼を言い向かっていった。



彼女が言うには全校生26人で1・2年生の複式学級を担任させられるらしい。1年程で自分の実家のある県東部へ戻れるらしいが、この学校にいる間は米子市内のアパートから車で通うと語っていた。

何となく春らしさを感じさせる出来事であった。

鳥取県~米子

2007-04-06 23:15:44 | 
ホテルにて入浴後、荷物を整理し登山用具一式を家に送る。私は旅に出る際、着古したシャツ類を持参し、持ち帰ることはなく、ゴミ箱に突っ込んでいく。たった二日で荷物は軽くなった。明日以降は既に仕事の道具と一緒に宿泊先に送付済みである。

20:00一休みした後、地のモノを食おうと街に出ることにする。フロントでお奨めを訊くと、繁華街は1km程離れている上、日曜のため営業している店はほとんど無いであろうとの話。また途中のアーケードも18時の時点でシャッターが降りてしまっているとのことであった。

それでも適当に街をぶらつく。寿司屋が一軒開いていたため入って見る。地のモノを頼んだが今はお奨めがないとの悲しい回答だったため6貫程食って店を出た。

その後、あちこちブラブラしたが、特に目立った店もなかったため不満ではあったが酒でも買って帰りホテルで呑もうと思う。そんなとき何気なく曲がった裏路地に『大山地鶏』の看板を見つけた。店内はカウンターのみであったが落ち着いて呑めそうであった。肝心の大山地鶏はというと店の大将曰く近々東京でブレークするという言葉通り、表面はカリカリで中は柔らかくジューシーで最高であった。


【大山地鶏・刺身の盛り合わせ(イシダイが絶品)】

大将曰く、この米子は地理的に山陰の中心部、そのため他の地域からの山陰のアクセスポイントとなり、空港まで設置されたとのこと。昨夜の松江は政治・観光の街として城下町で有名な反面、この街は古くから商業として発展してきたとのこと。そのため大手企業の支社が多いとのことであった。付随して現時点で大手のビジネスホテルチェーンの展開が顕著であるとのことであった。

米子の味覚を十分に堪能し、ホテルに戻る。エレベータに乗ると一緒に若い女性が乗り込んできて私より階下のボタンを要求した。香水がきつくやけに派手である。不審に思い声をかけてみた。
「旅行ですか...?」
彼女ははにかみながらこういった。
「...デリです。」

なるほど交通の要所を実感した出来事であった。

アイボール

2007-03-31 20:32:36 | 
業界用語という物は少なからずあちこちに存在する物であろう。私の働く仕事でも当然のようにあるし、趣味とするバイクやアマチュア無線の世界でも様々な物が存在する。ちなみにこのログのタイトルである『アイボール』というのは無線業界の言葉で普段顔の見えない会話のみの無線の世界の人間同士が実際に会うことである。PCの世界のオフ会とでもなるのであろうか。

当然のようにアウトドアの世界にもそんな用語がいくつか存在する物である。昨年、そんなブログの内容にコメントをしたのをきっかけに馴染みになった方がこの松江在住である。一緒に大山を登ることになりその日の晩、顔合わせを兼ねて酒宴を行うこととなった。

19:47、部屋のテレビでボクシング観戦をしていると携帯が鳴った。約束をしたyetiさんがホテルのロビーに着いたとのこと。早速エレベータで降りると、ロビーには一人しかいなかったためすぐに本人と分かった。早速タクシーにて移動し、お奨めの壱岐料理の店で杯を交わしながら話に興じる。初対面であるためお互いの性格はブログの文章からしか判断は出来なかったが面白いほどギャップは無く、お互い気持ちよく馬鹿話をして酔っぱらった。特に学生時代のアウトドア活動を中心とした与太話はお国は違えどやっていることは殆ど一緒と言う事を知り笑いが止まらなかった。当然のように業界用語である、ブスやブキの話でも盛り上がった(この言葉の意味は又いずれ...。)。

肝心の食ったモノはというとやはり非常に美味い物で、『白バイ(貝の一種で決して警察のバイクではない)』『岩カキ』が特にお奨めであった。
白バイはコリコリとした食感でまた肝の甘露煮も美味かった。


【壱岐料理での酒宴】

翌日は午前中曇り午後は晴れの予報であった。そのためか、いつの間にか翌日の山行など二の次になり二次会と称し沖縄料理店に突入し、しこたま酒を飲んだ。飲んでいてお互い認識した共通点であるが、例えお金をかけて遠くまで山行等で出かけたとしても悪天候で展望が望めないなら山をやめて観光・温泉・酒に切り替えるという種類の人間であった。お互いピークハンターではないということが認識できた。非常に楽しい出合となったことにお互い感謝しつつも明日の朝に登山の可否を決めることを約し、8:00にホテルの前で再会することとして解散となった。

島根県~松江

2007-03-30 22:40:33 | 
16:30に松江着、あいにくの雨であった。早速ホテルに荷物を置きブラブラ散策することにする。とはいっても雨では歩く気も失せる。シンボルである松江城までは歩いて2km。傘を差しても行けない距離ではないが、これから先の旅で傘をずっと携えるのも面倒である。そんなことを考えて駅前をぶらついていると一般環状路線バスが観光ルートを走っていることに気づいた。松江駅から名所をまわりまた松江駅に戻ってくるのである。時刻表を見ると17:24に私がいた寺町のバス停に来ると分かった。最終便なので途中下車すると不便であるが雨なのでそんなつもりもない。全線乗っても150円のため迷わず飛び乗った。

馴染みのない街に来てこの手の交通手段は有り難い物である。松江大橋を渡り、島根県立美術館を過ぎた。この美術館はバスの音声案内によれば『日本夕日100選』に挙がる美術館として有名だそうだ。

その後、堀川地ビール館や小泉八雲旧居・記念館等魅力的な景観をまわって松江城となった。バスの中でのわずか40分の旅であったがまた機会を作ってゆっくりまわりたい街であった。


【松江城・車中からなので若干のブレ】

松江駅に戻り、おみやげ屋を物色する。漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作者ゆかりの地であってあちこちに鬼太郎グッズが売られていた。以前読んだ雑誌・宝島に
幽霊・・・死者の霊が生前の姿になって現われたもの
妖怪・・・水木しげるが作ったもの
と書かれたくだらない記事があったことを思い出した(笑)


【鬼太郎のストラップ・耳かき、そしてカマボコ】

また伝統工芸品の店で嬉しいことがあった。私が幼い頃、日本中を旅してまわっていた祖父がお土産に買ってきてくれたものを発見したのだ。
この地方では男の子が生まれると健やかな成長を願い家の中に飾られるという『張り子の虎』である。



亡き祖父が東北から遙々この土地まで訪れていたことを知り、嬉しくなったのであった。

急病

2007-03-29 23:39:49 | 
24日、11:40、羽田に着くも昼であることもあり、飲食店は全て行列であった。そのため、すぐにゲートの中に入り、米子行き70番乗り場に向かう。

搭乗して間もなく空いていた私の隣の席に客室乗務員に抱きかかえられて10歳前後の女の子が座った。ぐったりしていてやたら苦しそうであった。様子を見ていると乗務員の女性が水を持ってきたりしている。出発時刻は過ぎたが一向に飛ぶ気配はない。程なくアナウンスが入った。病人が発生したため出発を見合わせているとのことであった。病人とは女の子のことのようであった。

横にいる乗務員が言うには現在、見送りに来た人とコックピットが連絡を取り合っているらしく、連絡が付いたら判断を仰ぐとのことだった。
「搭乗の時点で私どもが子供さんの変調に気づいてあげられればよかったのですが...。ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません...。」
と模範的な回答をしていた。

結局、女の子の見送りと連絡が付き搭乗を見送ることとなった。乗ってしまえば1時間15分程であるが動き出すと何かあった場合すぐには着陸出来ないという飛行機の欠点を目の当たりにした出来事であった。

離陸後1時間程度で飛行機が着陸態勢に入った。間もなく米子である。ところが、この瞬間から突然私は腹痛を覚えた。しかし、飛行機は着陸態勢に入るとトイレへは行けなくなる。トイレに人がいる場合は着陸出来ないという規定があるらしく、今更トイレに行かせて下さいとは言えないのだ。必死で痛くなっては収まるという感覚を我慢する。全身冷や汗でびっしょり濡れはじめ腹痛の感覚が少しずつ短くなり出した。かなり焦りだした瞬間、飛行機に振動が走った。無事着地したのであった。それから下りるまでの数分間、普通なら苦しむところであろうが、笑ってしまうことに腹の痛みは完全に鎮まりあの苦しみは一体何だったのかと思うほど楽になった。



約40分の到着の遅れで15:25到着となった。米子は雨であった。意外なことに直通の連絡バスが出ていて16:30に松江着となった。

はじまり

2007-03-28 23:44:41 | 
2月初旬のことであった。久々に出張の話が来た。出張先は山陽地方であるが仕事自体は火・水曜日。年度末進行の忙しさは予期できたが逆に、目標付け月曜に無理矢理代休をぶつけての出張とした。

今回のターゲットは中国地方最高峰の大山。最高点は剣ヶ峰(けんがみね、1,729m)部分であるが、大山自体が造山運動による形成時期が古い山であるため現在そこまでの道は崩落事故が多く、基本的にその手前の1709mピークである弥山が実質上の山頂になっている。

今回の山行に当たり、当ブログにしばしばコメントを下さる地元のyeti氏に情報を求めたところ、氏は忙しい中スケジュールを調整してくださり、初対面の私を山頂までガイドしてくださるということを申し出て下さった。お言葉に甘えることとなり、大山山行計画は着々と進んでいった。

そのようなわけでたった4泊5日ではあるが、中国地方、島根・鳥取・岡山を回る旅がスタートしたわけである。


【羽田空港・ターミナル】

山陰地方は6年前のゴールデンウィークに嫁とツーリングで回った。しかし、東京からのバイクでのアクセスは非常に不便な地域である。そのときはやむなく、福岡の門司までバイクをフェリーにて送り、夜行列車で追いかけピックアップしたのであった。しかし、今回は何と言っても出張のついで。足となるバイクや車では行けないため飛行機と列車移動と言うことで羽田・米子間の飛行機での早割利用での出発となったのであった。

うまい水

2007-01-06 19:42:43 | 
福島市の中心部には信夫山という標高272mの山がある。展望がよく市民の憩いの場所となっているこの山、ほぼ山頂部まで車で上れ眺望もまずまずである。

暇に任せて登って見るも後部座席のちび共は熟睡。私も嫁も駐車場で一眠りとなった。


【山頂部へと延びる山道】

考えてみれば小学校5年の時のウォークラリーの際、昼食で登ったのを最後に二十数年ぶりとなる。公園の一部を見ていてふと忘れていた記憶が蘇った。

小学校1年の時のことである。社会科見学の際の昼食はこの山にある公園での持参した弁当となった。昼食後、空になった水筒にこの公園にある水道から水を汲んでいて爺様の「山で飲む水は美味い...。」という言葉を思い出した。子供心にこの山で汲んだ水をお土産に持ち帰ろうと思いそのまま自宅へ持ち帰った。

家に着くやいなや私は自慢げに家の者共にこういった。
「信夫山の水を汲んできたからのんで...。」
その言葉をきいた家族は口々に、
「ありがとう。」
と言ってくれた。

その後、夕飯前にテレビを見ていた私は何となく美味いと言われる山の水が飲みたくなり水筒の水を少しのつもりで飲んだ。しかし、テレビに夢中になるうちに気づくと殆ど中身は空っぽになっていた。子供心にお礼を言われたのに飲んでしまったのはまずいと焦り、自宅の井戸水をこの空の水筒に入れておいた。夕食時、家の者共はこぞってその水を飲み始めた。流石にばれると思い、怒られる覚悟をしていたときのこと。飲んだ大人達は口々に、
「やっぱり信夫山の水は美味い。」
と言って喜んでくれた。子供の心に、大人はいい加減だと気づいた瞬間であった(笑)。

まあ、今になって思えばこの信夫山の水も湧き水ではなくただの水道水である。水の味より子供の気遣いが嬉しかったのだろうが当時の私はこの後、家の者共を騙した後ろめたさに苛まれたのであった。

あぶくま親水公園

2007-01-05 22:34:12 | 
さて、6年ぶりに実家で年越しをしようと帰っては見た物の特にすることは何もない。元日にアップしたように夕方からは連日の宴会であったが昼にすることは特にない。30日(土)、思い立ち、ちび共を白鳥の名所で知られるあぶくま親水公園へ連れて行くことにした。



行ってみると大量の白鳥と同じくらい尾長鴨があぶれていた。よく見ると黒鳥(こくちょう)もいた。暫く眺めていると白鳥の飼育で知られる白髪の観光協会の白鳥部長の通称「白鳥おじさん」が声をかけてきた。白鳥の飛来シーズンはここで毎日餌をやり、また怪我した白鳥は1年を通して面倒を見て翌シーズン群れに返している人である。

おじさんの説明によるとここに集まるオオハクチョウは中国・ロシア(シベリア)を中心とした地域を繁殖地とし、コハクチョウは遙か北極海の方から毎年飛来してくるとのこと。北海道や北東北を中継地としこの阿武隈川に飛来するらしい。おじさんは我がちび共にパン切れを手渡し餌として撒くように指導してくれた。



我がチビどもが喜び勇んでえさを投げ始めるとおじさんは突然大声で白鳥に向かって叫んだ。
「おーい!アンナ!餌だぞ!!」
呼ばれた白鳥はおじさんの方を向いて餌が投げられるのを待っていた。
訊いてみると8年前から渡ってくる白鳥に緑の標識129Yを付け、アンナと名付けているそうだ。なんでも屈斜路湖でその白鳥に標識をつけた人物の孫の名前らしい。



白鳥おじさんは毎年この阿武隈川を忘れずに帰ってくる鳥達が可愛くて仕方がないそうだ。

陸・海・空

2006-12-23 19:24:02 | 
今年わが家のちび共には、あこがれていた電車・バス・飛行機・消防車・パトカーに乗った。最後の二つはちょっとした機会に消防士さんやお巡りさんが乗せてくれた。陸・空と制覇し残る乗り物は海である。しかし当面フェリーに乗って旅に出る予定はない。そんな折、横浜の氷川丸とマリンタワーが今月25日で営業終了となるとのニュースを耳にした。記憶は定かではないがどうも私が生まれて初めて乗った船は幼児のとき神奈川の親戚を訪ねたついでに寄った横浜での氷川丸らしい。

ということで16(土)久々に横浜まで出た。たまには贅沢するかと言うことで中華街の名店”聘珍樓”の個室で食事をする。席についてメニューを見てあまりにも高いのでぶったまげたが手頃なコースものもあったためそれを注文し、チビどもの分は一品料理でごまかす。珍しいことに電車で移動したため久々に嫁としこたま酒を飲む。



その後、中華街を冷やかしながら山下公園に進む。気温は10度程度と寒かったが酒を飲んでいたため温かかった。肝心の氷川丸は営業の最後が近い週末にもかかわらずそれほどの混雑は見られず、あっさり乗船出来た。おそらく私にとって中学のとき以来であろうが、殆ど記憶がない。この氷川丸1930年(昭和5)に竣工後、1960年まで戦中戦後の特殊航路はあったものの横浜-シアトル間の定期船であったらしい。動かない船ではあったもののちび共はそれなりに海に浮かんでいることに感激していたようだった。


【氷川丸・水上バスから見た氷川丸とマリンタワーのイルミネーション】

その後、隣の桟橋から水上バスに乗って横浜駅まで移動した。夕暮れから夜景が浮かび上がり出す風景は海から眺めていてきれいな物であった。

後に実家の親と電話で話して知ったことだが、私が初めて乗った船はやはり氷川丸であり、初めて海の上を乗り物で移動したのはこの全く記憶に残っていない水上バスだそうだ。

とりあえずチビどもは陸・海・空は制覇となったが本物の船と呼べる動く代物に乗れるのはいつのことになるであろうか...。