高樹のぶ子のSIAブログ
番組審議会
このSIAで「TVドキュメントSIA」を製作して下さっている地元テレビ局RKBの
番組審議会が、ありました。
番組審議会とは、局外の人間により、番組だけでなく、テレビ局への意見を言うコミテイです。
今日も、8人の審議委員が集まり、ひとつのドキュメンタリーに関して、感想を伝えました。
みなさん、真面目に番組を見ておられて、ご自分なりの意見を仰られました。
同じ番組を見ても、見る立場で、いろいろ違いがあり、委員の感想を聞くのも面白いです。
私は小説家なので、ドキュメンタリーを小説に引き寄せて、お喋りしました。
小説は短編と長編は、おのずと盛り込む中身(テーマ)が違ってきます。
というより、500枚に書くには500枚の構造が必要になってくるし、20枚にはある意味瞬間芸というか、着地のキメが必要だと考えます。
500枚の中のどこか20枚を抜き出しても、短編にはならないのは当然です。
あるいは、川端康成の「掌の小説」という極短小説もありますね。
同じことがテレビ番組にも言えるのだと思います。
今日の番組審議会にかけられたドキュメンタリーは15分の短編でした。
九州の柳川という水郷で、小学校の先生をしながら、水路に生息する珍しい淡水魚の繁殖に努力をしている人間ドラマでした。
特別のドラマや悲劇やガンバリが作りこまれていなくて、ごく身近にこんな先生がいるのだとしみじみ、感じさせてもらいました。
ドキュメンタリーにもいろんな種類があり、「稀有なこと」の方が、描きやすいのだと思います。
悲劇があったほうが、きっとラクなんだと思います。
でも15分で大ドラマを見せられると、消化不良になってしまいます。
「いかにここちよく、自然に、力まず見せて」「深く記憶に刻ませるか」
これはきっと、小説も映像も同じなのでしょう。
小説を読み終えて、覚えているのはテーマや主張ではなく、ひとつの場面、シーンです。
ドキュメンタリーを見終えたあとも同じだと思います。
なぜなら、テーマや主張は、アタマに入ってきますが、場面、シーンは直接、カラダに入ってきます。
アタマよりカラダの方が人間を動かす力として、強いんだと思います。
高樹のぶ子
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小説の書き方、はっといたしました。勉強になります。場面、シーンで書く。私はつたい歩きで小説を書いており、時折霧にまぎれるように、ふと、書き方がわからなくなる時があるのです。心して書いていきます。ありがとうございました。
買ってもいい、と思っていても、それを紹介したヒトの物言いとか態度などが気に食わないと、そこからは買うのをやめる、というようなことが多いと思います。
作品でも、そうですね。自分にとって心に残る部分。文章や表現があるから、その部分が、十人十色あっても不思議ではありませんね。
長編でも短編でも、その人にとっていいものはいい。
感動してあの部分が頭に残っている、というのは、後になってみると一箇所かもしれません。
映像だと目の前のシーンだけど、文章はある部分からイメージするところが個人によってまったく違うところが面白いですね。
ドキュメンタリーって、製作者の個性によ、つくられた作品が大きく違ってくるのでしょうか。。
思うだけなんですけれど・・錯覚です。
いつも読ませていただいています。プロの方の声を生で聞くことが出来て、光栄です。
柳川も少し水質が良くなったのでしょうね?
小説の印象は言われる通りです。
ゴールズワージーの[林檎の木]も、印象は強風にざわめく青々とした林檎の木の、状景表現しか覚えていませんでした。(笑)
粗筋を読み直し、あっ、そうだ、あの頃は永遠に故郷とお別れする予感が有り、林檎の木の小説に惹かれたんだな・・・と思い出しました。(苦笑)
長編・短編の構造はそのようなことでしょうね。
建築計画もその様になりますが、文学の世界より考えや考え方を明確にしてれば、マンモス複合建築の経験者として、その建築計画は意外と簡単と思われます。
その点、小説家はご苦労様です。
昨夕から義母が来訪、大きな新聞専売所(3万部)に嫁いでる義妹が作った、西条系の[干し柿]を戴き、適度な甘味で美味しかったです。
寒い地方は干し柿が上手くできるようです。
最終とも思われる暗赤色の無花果も食す。
今朝は冬です。(笑)
一瞬の「これはといった映像」であったり、「風景」等々であったり、記憶として残っているといった節がないのに、ある時、ある場所で、一瞬脳裏をかすめるということがあると思います。
「五感で受け止めたもの」が、あるいは、潜在意識化され、それがふっと顕在意識の中に姿を現すのかもしれません。。。
他方で、頭の中に入ったものも、「どんどん抜け落ちていく(=忘却、あるいは、潜在意識化)」ことになります。
また、「ドキュメンタリーを小説に引き寄せ比較対照している点」についても面白い視点であり、また、同じ小説であっても、短編と長編は構造が異なり、「長編に一部を抜き出しても短編にはならない」等は参考になりました。
またひとつ記事をトラックバックさせて頂きました。。。
By T.S. on 21st Nov., 2007
「君の作品のひとつの特徴は、人間を書いているわけじゃなくてね、ひとつの〝場〟を書いているんだと思うね。」
「それで全部〝場〟なんだよ。場をを書いてて、その場の性質ってというか特徴がね、一種の好意、っていうのとはちがうんだけど、好き嫌いの〝好き〟っていう雰囲気を持った場の中に、人物が登場してくる。だけどもその人物の性格がどうでこうでっていうようなことはちっとも書いていない。のっぺらぼうな場の中のこと。単一のひとつの場が君の小説では、全部好き嫌いの〝好き〟っていう場だと思うんっだよ。それが極端に好きだと恋愛でもいいんだけど場が濃くなる。そのたった一つの好きっていう場の中で登場人物が出てくる。」
作家の小悦作法まで触手が届いた鋭い批評ですが、こういう作品のつくり方もあるということと、僕もできるならそこまで言えるように、高樹氏の作品を読み込んでみたい、という意味をこめて、紹介してみました。
作品のナレーションに耳を傾けていて、その文体から、デレクターがオトコかオンナか見当がつきます。
もちろん構成作家という、書き手がいる場合もありますが、それでも全体のトーンは微妙に違いが出ます。
これを作ったのはオトコかオンナか、などと想像しながら見ているのも、面白いです。
映画もそうですが・・「この先、どこに連れていくつもりなのか」を想像しながら見る。すると、何だそこまでか、とか、おう!こういうことか、と以外性も出てきて、また面白くなります。
そんなことを考えさせないで、「番組に溺れさせる」のは、やはり力技ですね。
思考する人間と、感じる人間。
それ以外にも、オトコとオンナの違いも見えてきます。
この場で何か言えることではないですが、「場」の援用としても、面白い。高樹のぶ子さんの作品についても、どんどん言ってください。読まれて、言われて、ナンボ・・ですから。
私自身はこれから「思考」から離れますので・・(と、本人は願っている)
ナレーションのお話しは気にすると解ります。
たまに見る、CMはいつもよく観察してます。
吉本父娘についてのお話しは、ピースさんと高樹さんのお話は参考になります。
ピースさんが好いお話しをされたので・・。
僕も参考になるかどうか解りませんが、専門から・・・。
バブル期から、建築にも物語性を持ち込む設計手法をと、語る建築家が多くなりました。
殊に規模を問わず商業施設のデパートを設計するときの、人の導線計画に端を発してた感じです。
大規模複合建築(オフィス・ホテル・住居・商業施設・スポーツ施設・公園広場・病院等の複合)を計画するに当たって、ストーリィ性は場面転換のスペースに設定します。
人の導線計画そのものはできるだけ、視野をリズミカルにするだけです。
建築計画にストーリィ性をと期待されても、不特定多数の個々の人達の人生や生活まで、想定するわけでは有りません。
場面転換のスペースとは小説と異なります。
小説では突然ワァープもしますが・・・・。(笑)
この建築計画では各施設をアトリウムや大小広場を中心に、各エントランスから、各施設のEVホールやホワイエやアルコーブを散りばめ、
立体的に場面転換のスペースとして設定します。
場面転換を[出会いの場]と設定してます。
これは住宅に於ける、リビングを中心に据える設計方法の延長線上と似てます。
何処がと言うと、イメージとして同じ求心型になります。
これは限られた500M×500Mの土地に、大規模な建築容積を建て、採算性も考えるからです。
じつは有り得そうもない、無制限の分散型の大規模計画をしたことも有ります。
もちろん企画設計だけです、実施設計では有りません。
それの敷地は山の中でした。
東大・坂村氏のトロン計画の一貫としての間接依頼で回って来たのです。
これは山中に客船の浮かぶ本物の海も造ります。
黒メバル釣りもできのでます。
本当にです。(笑)
想定エネルギーは茨城・福島原発の夜間電力でした。
海水を汲み上げ、運河機能で標高150M位を客船はゆったり昇ります。
その海と海路が広場や人の導線となり、おもちゃ箱をひっくり返した様に、全ての各施設を散りばめました。(ゴルフ場含む)
これはディズニーランド文化の対抗版でした。
参考にはどうなのかな・・・。
つまり、太陽のようなエネルギーが有れば、力技で分散型も成り立つのです。
僕は分散型の計画も夢が有り認めてます。
分裂型ではないです。
これ、仕事としても十分成り立ちました。
昔々、ディズニーランドの[カリブの海賊]を勉強の為に、確認申請図だけ担当したのです・・・。
今見ているPCは、WIN2000だと思いますが。
一番上のほうで文字オーバー?
サーバー側というより、PCの問題かもしれませんが。
XP、VISTAだと問題ないかもしれませんが、全国のWIN2000以前のバージョンの方に伺って見ないとなんともいえません。
以前はMACで同様の現象が続いていましたが、本日はそのPCでは他のトラブルで開けない状態でしたので。
おはようございます。
マックS10&10のOSでは、九月二日?に初めて当サイアブログのファサード上に在る並んだ各ブログを触るとそれが消えました。
幽霊の様にです。
しかし、消えた場所をクリックすると、この本人よるブログの内容は表示され問題は有りません。
又、上段が消えても、かなり下の方に同じものが並んでますから、それをクリックして此処に到達もできます。
この状態は今も同じです。
でも、初めてマックから、このブログに来る人は、少なからず驚くかもしれませんね?
マック愛好者はパソコン普及の過程から、インテリや視覚に強い人や、音楽関係者や比較的純朴な人が多いかと思われます・・。
点検のついでにお聞きして下さい。
満たしていないPCで見ている方にとっては、右側の題字のある広い部分(書き込みを含む)がそっくり、
ずっと下方にダウンして現れているのではと思われます。
Mac においても。
ここでは、使用していないので問題ありませんが、フラッシュを使用すると、最新でないバージョンのPCでは、
ページの一部分しか反映されなかったりとか、ネットスケープでは反映されなかったり、ということが生じると思われます。
せっかくのサイトなので、多くの方が見られるたほうが、という思いです。
当方、MacのOSは最新Tigerでは有りませんが、その前のバージョンのスーパー1Oで起動してます。
問題は最初の画面(岩のデッキに犬が何匹かいる)のカドR四角の各コーナータイトルが、ポインターが触れると消えることだけです。
何故か、消えた場所をクリックすると、反応し目的は果たせますが奇妙です。(笑)
他は右側の欄も全て正常です。
前述の様に僕は困るわけでは有りません。
ブログの玄関の印象が不安定に思えるだけす。
確かに、OS、ブラウザー、設定によって予期せぬ画面の崩れ等が発生することもあるようです。できれば画面の映しを取ってメールで送っていただけるとありがたいのです。。。
ご迷惑おかけしまして申し訳ありません。