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高樹のぶ子のSIAブログ

2007年08月11日 / 最近の出来事

八月の死者たち

 前のブログに書いた祖母の命日が今日でした。
祖父も父も、八月に亡くなっていますので、八月は終戦記念日とともに、死者の記憶をたどる月でもあります。


 昨日は、お盆の法要を、福岡のお寺で行いました。郷里を離れているので、菩提寺と同じ宗派のお寺で、毎年お経をあげてもらうのです。


 お経というのは、不思議な言葉ですね・・・
日本語もあります。漢文の読み下し文のように、たとえば「生(しょう)をあきらめ死をあきらむるはブッケ一大事の因縁なり~~」などは、意味が通じます。生死をあきらかにするのは、仏法のなすべきことなり、という意味でしょうか・・間違ってるかもしれませんが・・m(>。<)m
しかし「カンジーザイボーサツギョウジンハンニャハラミタ~」というのは、勉強しなくては意味が通じません。
それでも混合文を朗詠されて、お香が焚かれて、木魚がならされると、何となく異世界が現れていいものです。


 ラテン語の「メメント・モリ」死を忘れるな、という言葉を思い出します。
遅かれ早かれ、死にます、誰もが。
でもだからといって、「どうせ人間は死ぬのだから」と、人生を放棄するには、結構人間は長生きします。
どこかで「自分は成すべきことを成した」と思い、満足して遊べるようになればいいのですが。
死ぬまで「夢」つまりは「思うに任せぬこと」を追い続けるしかない。


 先日、阿久悠さんが無くなり、彼が残した名歌がテレビで流れましたが、「なるほど」と胸を打たれる歌詞もたくさんあり、たとえば「上手く行く恋なんて、恋じやない」なんて、その通りなんです。
「上手く行く人生なんて、人生じゃない」
思うに任せぬことこそ、恋の要諦なり、人生の味わいなり・・


 などと言っても、やはり辛いですよね。出来れば、上手く行かせたい。

 ひとつ叶えば、次の欲望が出現します。
ですから必ず、何か「果たせぬもの」を抱えて死ぬしかない。


 年老いた財界の大物が、車の中から道路工事をしている労働者の若者を見て
「あの若さが得られるなら、自分の全財産を捨ててもいい」と言ったとか。
でもそれは嘘ですよね。半分なら捨ててもいいけれど、全部は捨てられない。
人間は、あれもこれもそれも、持ちたいのです。
だからときに「死」を思い、その瞬間だけ、欲望から離れることが出来る・・


 そうか、死者のあの世へのお土産は「果たせなかった欲望」なんだ・・
父も祖父母も、お土産たくさん持って、旅立ちました。


                                             高樹のぶ子

コメント ( 11 ) | Trackback ( 0 )

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コメント
 
 
 
八月の法要 (ビー玉)
2007-08-11 02:27:00
高樹先生、お久しぶりです。まだPCの調子が悪くて、
トークブログは全く聞けない状態です。
(昨日のトークブログ、9月から福岡で暮らす予定の高校生をもつ親としては、非常に興味がある内容なのに聞けない!泣)

セキュリティも完全ではないためコメントも差し控えていましたが、今日のブログには、心が動き、我慢できず・・・。
危険を顧みずコメントさせて頂きます。

私の母方の祖父も八月に戦死しました。戦病死でした。
終戦の日には、まだ戦死の知らせは届いておらず、
祖母と四人の兄弟は、毎日父親の帰りを待っていたそうです。
終戦の年、第二子だった母は7歳でした。

やがて、八月末に「父南方で死す」との電報が・・・。
当時二歳だった末の叔父も兄弟全員が泣くのを見て
父の死を悟り、わぁわぁ泣いたと母から聞きました。

この話、母は、しばらく黙して喋らず・・・。
私の次男が二歳になった時に、初めて話してくれた話です。
二歳になった我が孫の姿を見て、
終戦時二歳だった叔父のことを思い出したのかもしれません。
決して戦争の思い出を語って泣くことのなかった母が、
その時は涙ぐんでいました。
私も次男を抱きかかえながら、一緒に泣いてしまいました。

この世では、会うことのできなかった祖父の法要は、我が家でも、毎年、この暑い八月に行われます。
再婚もせず、女手ひとつで四人の子供を育てあげた祖母も、
80歳の生涯を閉じ、今は祖父と同じお墓に・・・。

子供の頃から八月に唱えられるお経は聞いていましたが、
今までは全く興味がありませんでした。
ところが、最近、仏教に関わる仕事をする事になりまして。

日々、お経の意味を読み解く業と格闘しています。
何べん教えてもらっても、わからん!
でも、奥が深くて面白いし、生きていく上で勉強になります。
「生をあきらめ死をあきらむる」の「あきらめ」は、
明らかにするではなく、諦めるという意味だったような気が。
(間違っていたら、ごめんなさい。)
「果たせない欲望」と通ずる意味合いだと思います。

「上手くいく人生なんて人生じゃない」という言葉も、
八月の炎暑に疲れきった私の体に活を入れてくれました。
ありがとうございます。

八月の法要のために帰省してきた弟の子供たちが、
「おばちゃん、田舎で八月のお墓参りをすませて東京に帰ると、蝉の鳴き声が変わっているんだよ」と言っていました。
確かにそうかもしれませんー。


 
 
 
ビー玉さんに御願い (のぶ子より)
2007-08-11 10:07:37
ビー玉さん、最近、仏教に関わる仕事を なさっているそうですね。ぜひ「生(しょう)をあきらめ死をあきらむるは・・」の意味を、どなたかお仕事の関係者に尋ねてみていただけないでしょうか。「諦める」と「明らかにする」はだいぶ違いますし、私も知りたいのです。ビー玉さん、夏休みでお子さんたちとお忙しいでしょうし、いそぎません。またこのブログを見ておられる方で、仏教のご専門の方がいらしたら、教えてください。
 
 
 
了解しました (ビー玉)
2007-08-11 14:48:14
高樹先生、御声がけありがうございます。
び、びっくりしました~(^^)
と、とっても嬉しかったです。

仏典の言葉の意味の件、了解しました。
すぐに職場の同僚にメールで確認してみます。

私の同僚には僧籍を持つ人が多く(私は持っておりません)、
お盆の時期は、皆、多忙なのではないかと思われますので、
すぐに返事が来るかどうかわかりませんがー。

必ず御返信致します。今少しお待ち下さい。

さっきまで、長男と二人で、ゆうべ放送された「はだしのゲン」をビデオに撮ったものを見ておりました。
涙があふれて、しょうがなくて・・・。
原爆投下を戦争を終わらせる手段と肯定してはならないと、改めて親子で話し合いました。
 
 
 
ヒロシマナガサキ (miriam)
2007-08-11 16:52:56
ビー玉さんのおっしゃった「はだしのゲン」は随分以前に見て、
やはりかなり重たい気持ちになりました。

つい最近新聞で知った「夕凪の街 桜の国」という映画ですが、
本を読んでみようと思って検索したら原作はマンガの本でした。
思い切ってマンガにトライしてみたのですが・・これが難しいのです。
完全に理解するのに何度も読み直したり、
ネットで解説を読んだりして初めてストーリーが繋がりました。
広島原爆の、なんとも言いようのない悲しいお話です。

ネットを通して広島のお友達が沢山できまして、
身内に被爆した人がいたり、日常的に原爆のことが話されているということを聞いて、
やはり教育で(見せて、聞かせて)伝えていくことが大切なのだな~って思いました。

今朝テレビで、この映画に合わせて、
「ヒロシマナガサキ」というドキュメント映画のことを知りましたが、
アメリカの子供たちは「戦争を終わらせるためには原爆も仕方なし!原爆を落としたお陰で戦争が終わったのだ!」という教育を受けているのを知り、とてもショックでした。

良くも悪くも教育というのは恐ろしいものです。

印象深かったのは・・
そんなアメリカのケーブルテレビで「ヒロシマナガサキ」の映画が放映されたあと、
アメリカの人でもボロボロ涙をこぼして自分たちのやってきたことを悔いているシーンです。

ついつい私もどこからあれだけの涙が出て来たのか・・と思うような涙がこぼれてしまいましてね。
そんな風に感情移入しながら原爆の恐ろしさを感じて、
人間は、人間の作った原爆を絶対使ってはいけないのだ!ということを強く心に植えつけなければいけないと思います。

 
 
 
私も見ました・・・ (ビー玉)
2007-08-11 17:34:33
「ヒロシマナガサキ」という映画を取材したTV番組・・・。
その番組を通して、アメリカでは
「原爆投下は戦争を終わらせるための手段だった」と
原爆を肯定的に教えているという驚くべき真実を知りました。
でも、アメリカ人も、この映画を観た後、泣いていたという話は
 
 
 
途中で途切れてしまいましたぁ~ (ビー玉)
2007-08-11 18:09:12
(前のコメントの続き)知りませんでした。

逆に私たち日本人も、アジアの国の人たちが、
日本が戦争中に行ったことを、どう捉えているのかを知る必要があるのかも?とふと思いました。

いずれにしても、国家間のどんな利害関係があったにせよ、
人が人を殺戮しあう戦争を、もう二度と起してはならない
と思います。

さて、高樹先生が御尋ねになった件ですが、
先ほど、同僚から返信がきました。
「生をあきらめ死をあきらむる~」の「あきらむ」の漢字は、
やはり「諦」の字で「明」ではありませんが、
意味あいは、高樹先生がブログに書いておられたような内容で
ほぼ間違いないようです。
ごめんなさい。私の記憶違いでした~。

「諦」という字には、「真実」という意味もあるそうです。
つまり、「生をあきらめ死をあきらむる」とは、
「生と死の真実をあきらかに見る」という意味なんだとか。
次に続く「ブッケー大事の因縁なり~」とは、
「生と死を明らかに見るのは仏教の根本である」という意。

仏教では「生死一如」といって、
生と死はひとつのものと考えるのだそうです。

序でに、般若心経の有名な一節
「観自在菩薩 行深般若波羅密多」の意味ですが、
「観自在菩薩」は観音様のこと、「行」とは修行の意、
「般若波羅密」は、仏教の最高の知恵を表した言葉です。

仏教では、仏とは、人を導く知恵と慈悲を備えたものと捉えています。慈悲を得るにあたり修行して自分の力で知恵や慈悲を得るのが自力本願、すべての人が厳しい修行に耐えられるわけではないから、ただ念仏を唱えるだけで極楽浄土にいけるのだという考え方が他力本願。法然の浄土宗や、それを更に発展させた本願寺を中心とする親鸞が改組の浄土真宗は、他力本願です。なぜか浄土真宗では、般若心経は唱えないのだとか。

「生をあきらめ、死をあきらむるは~」という問題の一節は、
どの宗派でも唱えられるお経だそうです。

どんな宗教を信じていようとも、
世界中の人々が人間の生と死について、
よく考えれば戦争は起こらないのではないかと思いました。


 
 
 
ありがとうございました (のぶ子)
2007-08-11 20:12:03
ビー玉さん ありがとうございました。

このサイトはSIAの情報発信基地の役割が大きいので、通常のブログとしては物足りない部分もあるかと思いますが、どうぞご理解ください。テーマごとの「訂正」「補足」「御願い」などは、コメント蘭に書かせていただこうと思っています。今後ともどうぞよろしくおねがいします。
 
 
 
お盆 (小皿)
2007-08-11 22:36:35
終戦の日がお盆と重なるのは、何かえにしを感じます。
普段不信心な僕でも、この季節はご先祖さんのことなど思ったりします。
今年のお盆は休み無く仕事に終われますが、14日だけは休みなので、母とお墓でも参ろうかと思っていることを友人に話すと、お盆で家に帰っているからお墓に行っても無駄だと言われました。お盆前にお墓参りに行ってお迎えに行ってあげるんだと教えられました。
なるほど。
11月に神社に行くようなもんだとも教えられました。
またまた、なるほど…。
不信心だと恥ずかしいこともあるのだと納得しました。

「あきらめる」について、大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の冒頭の文章を思い出しました。
そう思ってなお漢和辞典で調べてみると、「諦」には確かに明らかにするという意味の方が本来使われていた意味であるらしいですね。

「生をあきらめ、死をあきらむる」か。
深い言葉だなぁ。
 
 
 
修証義  (ネット検索くん)
2007-08-11 23:44:41
修証義 第一章 総序

「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり、生死の中に佛あれば生死なし、但、生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時、初めて生死を離るる分あり、唯、一大事因縁と究盡すべし、、、


☆修証義(しゅしょうぎ)とは、曹洞宗の開祖、道元の著作である『正法眼蔵』九十五巻から、特に在家への布教を念頭におき、重要な点を抜粋し、全五章三十一節にまとめたもの。
 
 
 
御礼の御礼 (ビー玉)
2007-08-12 00:08:51
高樹先生、わざわざ御礼ありがとうございました。

もの足りないなどとは思っておりませんので御心配なく。
只、トラックバックやコメントの書き方に関するマナーに関しては、少し規制が必要な時期にきているのでは?と感じます。

先程、文芸春秋に書かれたエッセイ「特攻隊教官の父が感じた『恥』」を拝読したところです。
人それぞれに、いろいろな戦後があり、今生きている私たちの生につらなっているのだなぁと思いました。

「はだかのゲン」の後編をTVで見つつ、また涙しながら、
芥川賞受賞作を走り読みしていたら、現代という時代の薄っぺらさが心の奥に迫ってきて切なくなりました。

私たちは、もっと人間の芯に迫る、それこそ「生きていることの意味や死する意味を明らかにする」業をなしたり、書き残したりしなければならないような気がします。
(知られざるアジアの国に焦点を当てることは、その業の一環になると信じています)。

石原慎太郎さんの芥川賞選評が、妙に心に迫りました。
高樹先生の選評は、いつもやさしい眼にあふれていますね。

 
 
 
六根清浄 (JIRO)
2007-08-12 00:23:09
六根清浄


仏教には「六根清浄」とゆう言葉があります。霊山を登るときなんかに
「懺悔~♪懺悔~♪六根清浄~♪」なんて歌いながら罪障を落としたり
しているみたいですね。そういえば数年前に富士山に登ったときも、山小屋
で買った杖に「六根清浄」と書かれた札がぶら下っていました。

では「六根清浄」とはどんなことなのかぁ。と思い、調べてから今日に
至るまでかれこれ七年ほど実践と勉強を繰り返し、その都度「不退転の決意」
なる杭を人生とゆう道中に打ち込みながら進んでいます。

杭を打たないと何度でも何度でも繰り返し堂々巡りをしてしまい、仕舞いには
道に迷って転んで怪我をして回復するまでは道を進めなくなってしまうような
気がします。

まあ、膝小僧を擦り剥く怪我ぐらいのほうが無傷より痛みが感じられるので
いいかもしれませんよね。だから膝に傷がある人は痛みが分かるから情が厚く
慈悲深いのですね。ねっ、高樹先生!?(笑)

さてさて「六根清浄」とゆうことですが、まさに六つの根っこについた泥を
きれいに洗い流す!ということですね。
「六つの根っこについた泥!?」って一体なんやねん。。。
ってことになったのですが、それすなわち「五感」+「第六感」=「六根」と
ゆうことらいいです。「第六感」とは霊感!山勘?第六感!のそれですかね。

それで問題なのはこの六つの根っこにこびり付いた「泥」です。
この「泥」とは一体? たぶんこの「泥」とは過去の因縁、または罪障では
ないかと考えられます。だからこの「根っこに付いた泥」は人によって
種類や汚れ具合が違うのではないでしょうか。

仏教では「過去、現在、未来」といった考え方をします。

たとえば「過去」に生きていたときに女癖が悪く、次々に女性を泣かせ苦しめて
いた男性はその過去の罪によって「現在」にて女性に苦しめられる。というような
ことが因果応報ってやつですね。

しかし、そんな罪深い人を救ってくれるのも仏教です。

だから過去の罪は仕方が無い、だけど何とかしなければ報いの波が次々やってきて
潰される・・・
とゆうことで「現在」をどのように生きて行くか。とゆうチャンスを与えられる
とゆうことが、この世に生を受けるとゆうことではないかと思います。
その生き次第で「未来」の状況が変わってくる。
そこで「六根清浄」とゆうように「過去」についた「泥(罪)」を洗っていく
ことが「現在」の人生を生きる基本的な生き方ではないかと思います。

そして、遂に全ての泥を洗い流したときに成仏して仏になるのではないかと思います。
だから、泥水の中から華を咲かせる蓮華の花が仏教の象徴なのではないでしょうか。

が、しかし、「世の中そんなに甘くない!」とゆうことで、過去に色情に執着して
いて、その欲望を抱えたまま死んでいった人は、現在においては「過去の泥」
もこびり付いているので、更に色情への執着が増して欲望の炎が強火になってし
まいますね。

僕自身も非常に「色情」が強くとても苦しめられたし、今も尚、苦しんでいます。
でも、この苦しみもまったく無くなってしまうと寂しいな。と思ったりもしますね。
まるで自分の影のような存在ですね。

世の中にはお坊さんの格好をした「株式会社○○寺商事、社長」みたいな方が
沢山いるように思います。そんな人は決って分かったような理屈を並べて説法
をしたりしますが、僕が思うにはそんな簡単に心が清くなるとも思えませんし、
思ったところで成れないと思います。本気で自分についた「泥」を落とそう
するなら、ときに「鬼の口に飛び込む勇気と覚悟が必要である!」と考えますし
、実際にそうでした。

「頭で理解する生き方」ではなく「腹で理解する生き方」でなければ「泥」は
落とせないのであります。

自分の影と付き合っていきながらにして「泥」を落としていくにはどのように
すればよいのだろうか。なんて考えた挙句に出たこたえは「品格を持って生きる」
とゆうことでした。逆に下品で道徳を無視したような行いは、更に泥だらけに
なってしまうと思います。

品格を持つとゆうことは、綺麗な言動を心掛けるとゆうことであると思いますし、
同じ色情に苦しむのでも、まったく違った快感を味わうことになると感じます。
すなわち「のた打ち回る苦しみ」が「甘い苦しみ」に変わっていくことによって
泥も付きにくくなり、落ちていくのではないでしょうか。

数年前、ひたすらに禁欲生活をしているなか、婦人画報の表紙を飾っていた
高樹先生を始めて拝見したときに「素敵だ」とゆう生まれてこの方発したこと
のない言葉を発しました。するとその瞬間、何代にも渡って塗り重ねられた「泥」
に罅が入った感覚を感じたことを思い出します。

そして、今はそのとき入った罅を少しづつ品格を保つことで落としていってます。

なので高樹先生は僕の「六根清浄」に大きな影響を与えてくれた方であり、
そんな高樹先生に直接考えを伝えられる「SAIブログ」のはとても感謝しておりま~す♪

ありがとうございます☆

懺悔~♪懺悔~♪ 六根清浄~♪

 
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