高樹のぶ子のSIAブログ
水原紫苑さんへの手紙
紫苑さん、ブログへのコメントを有難うございます。
先日の京都は、とても楽しかったです。今も紫苑さんの紫の着物姿が、目に浮かんで・・
このブログは、かなりの薀蓄の宝庫?で、読者も知識豊富な方が多いようです。
紫苑さんがコメントくださって、さらに華やかになりました。
吉田山荘では、本当に三日月が美しかったですね。
高階先生、芳賀先生、そして紫の君紫苑さんに、平安文学のエキスパート山本淳子さんと、役者がそろいまして、、少々の下世話な話題も、知的に昇化して、秋の一夕としては最上のものでした。
源氏については、勝手流を許してくださって、感謝しています。
小説家というのは自分にとっての遠近、濃淡を大事にするばかりで、客観的には無知蒙昧です。
あのおり、山本さんから「高樹さん、一番好きな源氏の場面はどこですか?」と訊かれて、ええと・・と考えてしまいました。こんな場面が確かにあったと思うものの、いつも自分が、妄想のなかで暮らしているものですから、ほんとうにそんな場面があtったかどうか、自身がなくなって・・
でも今なら、答えられます。
柏木からもらった恋文を、女三宮がドジをして光源氏に見つかってしまいますよね・・
その恋文を持ち帰った源氏が、そっと読み返す(という場面があったように思いますが)そのときの、源氏の表情をジックリと見て見たい・・
私はサドではありませんが、でも、「ほらごらん、光さん、若い妻を娶ると、こういうことがあるんですよね!」
なんてね、ちょっと言いたくなってしまいます。
光源氏が「参った・・」という場面が好きなんですね。ま、あまりないですが・・
今週はある文学賞で東京に行きますが、翌日の昼間、日経新聞の新春用の対談です。
そうですか、紫苑さんと同じ日に掲載されるんですか・・楽しみです。
でも、いまは積みあがった文学賞の候補本と格闘してます。
まだ、源氏の世界に入れなくて、どうなることやら・・・です。
対談相手の小島ゆかりさんに、援けてもらうつもりです。
余談ですが、渡辺淳一さんが、紫苑さんのことを「すごい美人」だと言ってるとききました。
私も同感ですが、美人だけでなく、可愛い方だと思います。
勝手に写真をアップしてごめんなさい。
ときどき、このブログを覗いてくださいね。覗いてくださるだけでいいです。
またお目にかかれますように。
高樹のぶ子
コメント ( 18 ) | Trackback ( 0 )
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パッピーは、学校のお勉強は、ぜんぜんだめだけど、童話とか読むのは好きなの。
これからも、よろしくおねがいします。
おふたりとも、お勉強しすぎて、目を悪くしないようにしてください!
それでは、また。
パッピーより
水原紫苑
初めまして!
このブログが縁で[世阿弥の墓]も読みました。
誠に失礼なお話しですが・・
パラシュート ひらきし刹那 わが顔を
ステンドグラス 荒天に見ゆ
このパラシュートは飛行機から本物を見上げて詠まれた歌ですか?
それとも、パッピーさんはスカートと言うし、僕はワンタッチの白い傘かとも思ったりで、事象はどれでしょう?
特に僕はどれでも好いのですが、スカートはないでしょう?
珍しくそのパッピーさんが、ブログに登場してますのでよろしくお願いします!(笑)
蕗さん?とかどうしてるのかな~?
折角、紫苑さんが登場してるのに・・・。
ベランダのコミカンはどうしています?
[わが顔の]でした・・(-.-;)
パラシュート ひらきし刹那 わが顔の
ステンドグラス 荒天に見ゆ
覚えてたツモりでしたが・・(-.-;)
堺屋太一氏も登場し、番組全体の意味合いは、「聖徳太子が日本文化の基礎を作った」といった論調のものです。
「日出る所の天子…日没するところの天子…」は、仏教、神道等複数の神々を敬う文化風土、17条憲法、冠位12階制を基礎に「聖徳太子が隋に対し対等外交を申し入れた」画期的なものと評価し、それが現在まで連綿と続く日本文化の基礎であるというものでした。
平安の時代、紫式部の時代は、太子の時代から350‐360年後、まさに、「聖徳太子の超改革の基礎の上に日本文化が花開き、絢爛と輝いた時代」といえるのかもしれません。
この聖徳太子の番組については、いつかまた私のブログでも取り上げたいと考えております。
日本文化から離れて申し訳ありませんが、フランス文化に関する記事をトラックバックさせて頂きました。
By T.S. on 26th Nov., 2007
TSさんの書き込みにある「聖徳太子の超改革」を見て、その後、続けて「点と線」の後編を見ていた最中の出来事でした。
今朝は、水原さんのコメントを受けた高樹先生のブログの更新と更なる水原さんの返信がっ!
元旦の日経新聞、楽しみにしています・・・。
あぁ~、本当に、朝から驚いたぁ~。
私の故郷では、驚くことを「おべた」と言います。
その方言が生まれた起源は不明です。「おどろいた」が略されたものなのか、古語の表現がそのまま残っているのか???
その他にも、平安時代に使われていた言葉が、そのまま方言として使われていたりします(例えば「よも」という助詞等)。
私の祖母も短歌をたしなんでいたのですが、人生の場面場面や風景の瞬間瞬間を切り取って、言葉を選び省略して表現することに苦心していました。最期の床にも、広告の裏紙を小さく切り取った白い紙と鉛筆が置いてあり、いつでも浮かんだアイデアを書きとめておけるようにしていたのをよく覚えています。
変わっていく時代と変わっていく言葉・・・それでも変わらない人間の心情と、平安の世から(方言のなかで)残り続ける言葉・・・。二人の言葉を操る美人の御顔を拝見しながら、そんなことを考えた朝でした(^^)
問題の短歌については、ビー玉さんのヒントによって、小生には大体わかったような気がしますので、この場は、小生の解釈で、満足してください。まず念のために、問題の短歌を再掲して見ます。
パラシュートひらきし刹那
わが顔のステンドグラス荒天にみゆ
最大の問題は、「わが顔のステンドグラス」の解釈です。「自分の顔をかたどったステンドグラス」か、「ステンドグラスに写った自分の顔」なのか、ですが、小生は後者と解釈します。そうすると、小生の解釈では、ステンドグラスは、五七五七七というわが国の伝統的な詩形(音数律)ということになります。それに顔を写すというのは、その枠の中に自己を投入するということです。つまり作者が生涯をかけている仕事です。それが、荒天の中にに見えるということは、それが雷雨に晒されているということで、非常に不安定で危険に晒されている印象を受けます。つまり自分の生涯をかけた仕事である短歌創作は、不安定で危険に満ちたものだよ、という意味になります。
ところで上句の「パラシュートひらきし刹那」とは何か。この場合作者が実際にパラシュートをつけて高所から飛び降りたのかどうかは問題にしなくてよいと思います。水原さんの趣味がスカイダイビングでない限り、そういうことはありえないわけですから。しかしスカイダイバーないし兵士が、飛行機から空中へ飛びだす瞬間の映像なら、この小生でさえ無数回見たことがありますから、作者もその映像を見たと仮定しても、まず間違いないとおもわれます。ではそれが下句とどうつながるのか。不安感、危機感、スリルあるは、それをかいくぐった安心感、達成感です。飛行機から飛び出した瞬間、パラシュートが開くか否かにその人の生命がゆだねられています。もし開かなければ、地上へまっ逆様に落下して一巻の終わりです。その危険をかいくぐって、パラシュートが開いた瞬間と、自分が五七五七七という枠への自己投入に成功した瞬間は似たようなものだ、と作者は言いたいのだと思います。
こういう詩の技法を一般に暗喩(隠喩)といいます。この場合は、意味的な暗喩ということになります。
短歌は、五七五七七という枠のために、どちらかというとこういう暗喩が成立しやすいのです。この枠内におさまると、そこに強い磁場が成立して、一見関係のないものが、強力な関連の中におかれます。
たとえば、これを散文的に二行で書きあらわしてみましょうか。
パラシュートが開いた瞬間です。
荒天の中にわたしの顔が写ったステンドグラス(ステンドグ ラスでかたどったわたしの顔)が見えます。
全然面白くないし、また何が言いたいのかさっぱりわかりません。しかしこれと同じ趣旨の行を二十行連ねればまた、また別の様相を帯びてきそうな予感もします。するとこれは全く種類のちがった作品となります。
以上の小生の鑑賞は、「わが顔のステンドグラス」を「ステンドグラスでかたどられた自分の顔」と解釈しても、成立しますね。
あるいは、芸術に限られるものでもなく、例えば、ガリレオの地動説も同じように時代風潮の中で、「否定」されることもありえます。。。
源氏物語に関しても、紫式部の手を離れた瞬間から、現在に至るまで、その時々の時代感性も含め、色々な解釈を生んできているはずです。
また、時代の感性に限ることなく、個人個人が歩んできた環境はそれぞれ異なり、そのように歩んできた環境の相違等によっても、「感覚的な捉え方」は異なってきます。
同じ個人であっても、年齢の積み重ねにより、時の流れによって、解釈が異なる可能性もあります。
つまり、解釈は一元的なものではなく、十人十色というくらいに変化に富むものだと感じます。
「作家は、一定の意図を持って創作」致しますが、生まれた瞬間から、その子(作品)の歩む道は作家によって規制されるものではなく、また、規制できるものでもなく、世の中の多くの目により「評価」されていく、あるいは、作家の意図に反して「評価されない」ということもあるのだと思います。
例えば、ミレーだったか、「同時代人の評価」を受けることなく、時代が変遷して初めて輝く作品もあるように。。。
By T.S. on 26th Nov., 2007
携帯でウッカリ画像を観るのを忘れてました。
紫苑さんの和らぎのお顔が、とてもお美しいです。
夢想的な高樹のぶ子さんのお顔もとってもお美しいです。
( ^^)Y☆Y(^^ )
今どきの文語体の歌人はどんな歌なのかな?と、紫苑さんの歌集数冊を、目通したら[素晴らしきかな]でした。
なきがらの 海を抱えて 内陸を
はるかにゆきし 塩の女われは
う、うますぎる・・(^_-)-☆
感性を磨かれる生活もなされてるのでしょう。
高樹さんがお好みの源氏の場面のシーンは、恐らく男には厳しい情況ですが、それはそれで諦めもつくことです。
道真も妾や遊女通いが大好きな人でしたし・・・。
ラブレターか、懐かしいですね。
「この小説で、何が伝えたかったのですか?」
受験問題で、この一文の意味を選択肢のなかから選ぶ、というのも、困惑。自分の文章なのに、これかな・・いやこっちだな・・全部かも・・と。
パラシュートとステンドグラスと荒天と自分の顔・・
全部を重ねて、漠たるイメージを頂戴する、という方法もあります。
支離滅裂に広がるイメージを、「愉しんで」みては?
諸説、ここに書き込んでみてください。
きっと紫苑さんは、ニコニコしながら、そのコメントを喜んでくださるとおもいますよ。それこそ、最高の作者へのサービスです。
当たりもはずれも無いんです。
作者も答えを持ってないんです。持っていたつもりでも、どんどん変わっていく、だから作者も読者も楽しめる。
飛べる短歌ですね!これ!
文を省略した為の誤解です。
パラシュートは僕も何度か、習志野や厚木や横須賀等で、降りてるのを見た事が有ります。
紫苑さんは基地の多い神奈川県の出身ですから、遠景のパラシュートが降下してる美しさをご覧になってる筈です。
[刹那]には遠景のパラシュートでしょう。
僕は紫苑さんがお若い方だから、パッと開く白い傘から見たことの有るパラシュートを連想されたのかな、と思いました。
実は僕がワンタッチの白い傘を開く時、日頃パラシュートを連想していたからです。(笑)
文章に対する感性は高樹さん・ピースさんのおっしゃる通りですが、今回はハッピーを通り越した、小三のパッピーちゃん×僕との、勝負という[余興]ですから、僕は後には引けません!(爆)
ピースさん!?
貴方だって、荒天の中スカートを抑えて走る、パッピーにしてやられたのを思い出して下さい!?(爆)
この歌は遠近、心象、現実、夢と読み手の感性により、懐の広い歌ですね。
こう言うのを飛べる歌というのでしょうね。
ひょっとして、何れ紫苑さんが携帯で気まぐれに、コメントされるかもしれませんし・・。(^_^)
高樹さん達が京都に行ってた時だから、パッピーちゃんも携帯かな?(笑)
失礼致しました。
パラシュート ひらきし刹那 わが顔の
ステンドグラス 荒天に見ゆ
小三のパッピーちゃんの感性。
学校帰り、急に強い風がふいてきて、
スカートが上に広がっちゃったの。
それで、向こうに男の子たちがいたので、はずかしくて、
パッピーの頭の中、天と地がひっくりかえっちゃった!
そんでもって、スカートおさえてはしりだしたら、
雨がふりだしたむこうの空の下に、きれいなステンドグラスのおうちが見えたの。
僕の通釈。
気が高揚したらその後、闇に墜ちてしまいそうで、つい何時もパラシュート替わりに、私は何かで気を紛らわす習性があります。
嵐で心なしかステンドグラスが、横なぐりの雨で、いつもより綺麗に透けて見えました。
ステンドグラスは濡れるといっそう綺麗ですね?
紫苑様、パッピーは強敵なので、余興で感想の手加減を宜しくお願いいたします。(笑)
セクスには
死の匂いがある
新婚の夜のけだるさのなか
わたしは思わず呟いた
どちらが先に逝くのかしら
わたしとあなたと
そんなことは考えないでおこう
医師らしくもなかったあなたの答
なるべく考えないで二十五年
銀婚の日もすぎて 遂に来てしまった
その時が
生木を裂くように
茨木のり子さんの「最後の詩集」より
この詩は朗読を聞いた記憶が有ります。
もちろん、生の匂いも有ります。
あらゆる生物は[死を予感]するから、子孫を残す営みをします。
科学の生物学的にも証明されてます。
枇杷も根っこを虐めたら、花を付け実を着けます。
人も存在の危機を感じたら・・・同じです。
[死の予感]は生です。
アッという間に時が過ぎて行きます。
早くご主人を亡くされました、茨木のり子さんはご自分の時は、各々の方に遺書も書いて、準備万端でしたね。
今年の2月頃にネットで公的遺書を読ませて戴きました。
長い好い遺書でした。
思い出してくださってありがとうございます (^_-)-☆
水原紫苑さんに敬意。
なきがらの 海を抱えて 内陸を
はるかにゆきし 塩の女われは
この歌も海辺の育ちなので、イメージを膨らまして楽しく詠めます。
山や盆地の街に行くと、海辺が恋しくなります。
僕は男性ですからパラシュート同様、自己投入するには苦しいところです。
やはり女流作品と言うのは、僕には女のラブレターを、盗み読んでるような気になります。(苦笑)
A・ランボーの
[また、見つかった! 何が? 永遠が、 海と溶け合う太陽が! ・・ 積もる恐れも苦しみも・・・]
の男流界が体質的に爽快になります。(爆笑)
やはり女流って怨念から脱して欲しいです。(苦)
道真公の怨霊って平安時代には、本当に恐れられていたのですが、男の怨霊は江戸以降余り聞きませんね?
能や狂言の世界では出没してる気がしますが、乱世の時代の作者だからでしょうか?
道真公が太宰府で詠んだ歌は、全て嘆き明かしたものばかりでしょうか?
道真の頃は遊女茶屋は、公家達のサロンになっていたらしく、他の公家の日記に道真の遊業の記載が頻繁に残ってるそうです。
彼は気の利いた男で、かなり遊女にもモテたそうですよ。
さぞ、都に帰りたかったでしょうね?
蕗さん、お元気そうですね。
石蕗は咲いてますが・・・(^_-)-☆
パラシュートひらきし刹那
わが顔のステンドグラス荒天にみゆ
イメージが最初に浮かんだのは、荒天の空に浮かぶ雲の厚いところ薄いところに差す光と影の映像でした。
それはモノクロかもしれないけれど、決して一通りではない光の交差で、まさしくステンドクラスのようです。
パラシュートから連想する落ちるというイメージからすれば、今まさに顔に流れ落ちようとする涙でしょうか。
それが落ちるのを堪えようと、落ちる間際にふと顔を上げた時、荒天の雲に覆われた空が目に入ってきた…そんな情景が浮かんできました