高樹のぶ子のSIAブログ
千葉法務大臣と死刑執行
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/c1/5a810ab285bc0899c543e231fc97cdd0.jpg)
死刑廃止論者である千葉法務大臣が、執行許可を出して、昨日二人の死刑囚に
執行が行われました。
これに対して、様々な意見、または政局がらみの憶測などがメデイアに出ましたが、
それぞれの立場から意見表明が行われていますね。
私は死刑制度を廃止するべきだと考えています。
けれど千葉法務大臣のなされたことに抗議する気持ちにはなりません。
執行に立ち会うという、法務大臣として初めてのこともされたし、刑場を
公開するという扉も開かれました。
死刑制度を見直す委員会のようなものも作られるようです。
死刑制度が在る以上、執行を行うのが当然だと思います。
なぜなら、禁固刑(拘束)や懲役刑(労働義務)だと、10年のうちの1年を
つとめれば、罪の十分の一を償ったと言えますが、死刑が確定した場合、
執行されないかぎり、1%も償いはなされていないわけです。
被害者は「法が下した罰が全く行われていない」という状況が続きます。
死刑が執行されて「良かった」という被害者家族に、私は違和感を覚えるし、
自分が同じ立場になったとき、「良かった」とは言わないだろうと
(その立場になってみなければ判らないけれど)思っていますが、
今の時点では、執行は、被害者(家族)が立ち直るためにも、必要だということは
理解できます。
人間の「死」を「良かった(ほっとするの意)」と言わせるのは、とても
過酷なことですね。
それも死刑判決が存在するからであって、死刑制度が廃止されれば、別の克服の
仕方があるのかも知れません。
法は公の立場での加罰ですから、公が罰を与えてくれなければ私刑が横行する
心配もあります。けれど日本の国民感情は、私刑には馴染まない気がします。
死刑が廃止されたからと言って、リンチ事件が増えるとは思えない。
これを機会に、死刑廃止に向かって、意見交換が行われるように、期待しています。
偶然、福岡弁護士会会長の、声明文が入手出来ましたので、以下に貼り付けます。
メデイアを含め、多くの人に伝える目的の声明だと考え、許可を得ずに
貼り付けますが、死刑制度に対して、専門家(弁護士の立場)の意見を参考にして、
改めて考えて頂ければと思います。
朝顔二輪を添えて。
高樹のぶ子
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
死刑執行に関する会長声明
1 本日,東京拘置所において2名の死刑確定者に対して死刑が執行された。
2 我が国では,過去において,4つの死刑確定事件(いわゆる免田事件,
財田川事件,松山事件,島田事件)について再審無罪が確定している。
また,昨年6月にも,無期懲役刑が確定した受刑者に対する再審開始決定が
なされ(足利事件),これを契機に精度の低いDNA鑑定に依拠した裁判の
問題点が指摘されるという事態も生じている。これらの過去の実例が示すとおり,
死刑判決を含む重大事件においても誤判が存在することは客観的な事実である。
3 しかも,我が国の死刑確定者は,国際人権(自由権)規約,国連決議に
違反した状態におかれているというべきであり,特に,過酷な面会・
通信の制限は,死刑確定者の再審請求,恩赦出願などの権利行使にとって
大きな妨げとなっている。
この間,2007年(平成19年),刑事収容施設及び被収容者等の処遇に
関する法律が施行されたが,未だに死刑確定者と再審弁護人との接見に
施設職員の立ち会いが付されるなど,死刑確定者の権利行使が十分に
保障されているとは言い難く,このような状況の下で死刑が執行される
ことには大きな問題があるといわなければならない。
4 国際的にも,1989年(平成元年)に国連総会で死刑廃止条約が
採択されて以来,死刑廃止が国際的な潮流となっている。
1990年当時,死刑存置国は96か国で死刑廃止国は80か国だったのが,
昨年(2009年)現在では,死刑存置国は58か国で死刑廃止国及び
死刑停止国は139か国となっている。さらに,2008年12月18日
には,国連総会において,すべての死刑存置国に対して死刑執行の停止を
求める決議案が採択された。
また,2007年(平成19年)5月18日に示された,国連の拷問禁止
委員会による日本政府報告書に対する最終見解・勧告においては,
我が国の死刑制度の問題が端的に示された。
すなわち,死刑確定者の拘禁状態はもとより,その法的保障措置の不十分さ
について,弁護人との秘密交通に関して課せられた
制限をはじめとして深刻な懸念が示された上で,死刑の執行を速やかに
停止すること,死刑を減刑するための措置を考慮すべきこと,恩赦を含む
手続的改革を行うべきこと,すべての死刑事件において上訴が必要的と
されるべきこと,死刑の実施が遅延した場合には減刑をなし得ることを
確実に法律で規定すべきこと,すべての死刑確定者が条約に規定された
保護を与えられるようにすべきことが勧告されたのである。
しかも,2008年10月には,国際人権(自由権)規約委員会により,
我が国の人権状況に関する審査が行われ,我が国の死刑制度の問題点を
指摘するともに制度の抜本的見直しを求める勧告がなされた。
5 このような中で,我が国の死刑制度の抱える問題点について何ら改革が
講じられることなく,今回の死刑執行が行われたことは極めて遺憾であり,
当会としてはここに政府に対し強く抗議の意思を表明するとともに,今後,
死刑制度の存廃を含む抜本的な検討がなされ,それに基づいた施策が
実施されるまで,一切の死刑執行を停止することを強く要請するものである。
2010年(平成22年)7月28日
福岡県弁護士会
会長 市丸 信敏
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大学の先生をされているからですか?作家先生と呼ばれるからですか?先生先生と呼ばれて何か勘違いをしておられませんか?
こちらに書き込む方のほぼ全てが高樹のぶ子という作家の支持者なのですから、日々のブログのご意見に賛同のコメントが多いのは当たり前です。
ご自身の意見があるサイドに偏ったものであることが多いことを自覚していただきたいものです。
そんなものでは償えないでしょう
我が子の命と、それを奪ったものの命が、一緒なわけがないじゃあないですか
死刑なんて、そんな簡単なことで、チャラになんてできません
私は鬼と化しても、相手を地獄のどん底まで追い詰めて苦しめたいと本気で願うと思います
が、果たして、そうした後で、呪縛から解放されるのでしょうか
虚しさ、空しさ、空虚。。。 それが重く圧し掛かり、自害するしか道は残らなくなるのだろうと、漠然と思います
重いテーマを感情論だけで片付けてしまって申し訳ないです。
今、愛する子供達が、私の手元にいないので、余計そんな気がするのだろうと思います。
それでも、日はまた昇る。。。
今まで被告の死刑を願って戦ってきたご家族の経緯や感情を真剣に読んだことがあるのですか?触れたことがあるのですか?
相手の死を求めるのは自分の家族の死とそれが同等だからではありません。一緒な訳がないでしょうが。相手が死んだって自分の家族は帰ってきません。それでも相手に死を求める理由。いちいち細かく説明しなければ、想像もできないのでしょうか?
それに無期懲役は全てが確実に無期ではありません。再犯の可能性はゼロなのですか?
どんなに残酷な殺人を犯しても死刑にならないとなれば、残酷な殺人が増える可能性もあるのでは?
被告の人権を叫ぶ前に被害者とその家族の人権をもっと考えるべきです。だからこそ、有名作家の個人ブログで、それなりに影響力のある発言が何故こうも安易になされるのかと私は言いたい。
「死刑は必要だ」と考える人が沢山おられるから、存在しているのです。それでも廃止しよう、というのが世界の(先進国の)流れでもあります。
何十年か昔ですが、ある高名な当時すでに年配の弁護士さんとお会いしたときのことです。司法修習生のとき、死刑執行に立ち会ったそうです(現在は、修習生の数が増えて無理でしょうが)そのときのことを、詳しく話してもらいました。
執行に立ち会ったあと、死刑廃止に気持が傾いたそうです。
執行官の精神(生理的に)も痛みます。
死刑制度が犯罪の抑止になるかどうか、疑問でもあります。
このブログや、私(高樹のぶ子)への反発や嫌悪ではなく、意見を聞かせてください。
メデイアの人も読んで下さっていますので、多くの人に考えを伝える機会と考えられてはいかがでしょうか。
勿論です。『あえて名前は言いたくない』さん、死刑は簡単なことではないこと、存じているつもりです。新聞などのメディアに限定されてしまいますが、被告の死刑を願って戦ってきたご家族のニュース、胸つまる思いで読んでおります。その戦いの日々、想像を絶するものと思っております。
福岡弁護士会会長の声明によりますと、死刑確定事件であっても、再審無罪が4件も確定している事実を指摘。死刑確定との重大な判決であっても、誤審が存在する中、何ら改善策もなされずに、死刑執行が実施されたことを問題視している様子。しかも、死刑確定となると、その死刑確定者の処遇に問題があると指摘されています。
人権。被害者そしてそのご家族の人権は勿論のこと、被告そしてそのご家族の人権も、今一度、考え直す良い機会、と捉えたいと存じます。
それ以降、男性の観察をせずにはいられませんし、女性でも誰か私の後ろに立たれるのもトラウマです。
犯人が捕まったとしても、精神鑑定がどうとか、責任能力がなかったとか…加害者をズルズルかばっているとしか思えない。
精神病で本当に苦しんでいる人もいるのに、加害者がのうのうと生き伸びているのは、矛盾だらけです!犯罪者が裁きを受けるのは当然だと思います!
犯罪者に私たちの税金が使われてることが許せないので。
どんどん死刑を執行してほしい。
明らかに僕は死刑存続派で、一度も疑問に思ったことは有りません。
中国の麻薬犯の死刑の執行も、
特に英国列強の阿片戦争の経緯からも、
米国のマフィアによるドラッグ汚染の実態からも、
中国当局の的確なスタンスだと容認してます。
一方、長崎市長暗殺犯人の求刑はどうなってるのでしょうか?
一人の命の重みには格差はないと思います。
ところで基本的に弁護士とは対価を貰い、
被疑者の刑をできるだけ軽くするのが立場の仕事です。
そんな方々の死刑廃止の声明文は眉唾としか思えません。
誤審だって検察だけでなく、無能な担当弁護士にも責任が半分近く有ります。
陪審員制度の元ではそのうちに一人の殺人でも、
死刑になり兼ねないとの危機感からの声明でしょうか?
恐らく一般国民の多くは、死刑存続を可とし、
刑が軽る過ぎると日頃から思っています。
高樹さんが日本人は意志や気が弱く簡単に泣き寝入り、
私刑は起きないと勘違いされているのは、
どう考えてもそれは強者の立場のスタンスでしょう?
最近の民意が反映する陪審員制度の判決でも、
量刑が幾らか重くなっています。
僕は残忍なニュースを聞く度に、例えば強盗殺人で二人殺してれば死刑で、
一人の殺しだと10~20年程度懲役刑はいつも疑問に思って聴いてます。
もちろん執行する刑務官達の心構えも大変でしょうが、
PCソフトを使い全てある段階から、
受刑者が入室すれば機械が執行と、幾らか軽減できる設定が有るでしょう。
私刑が横行するのはどうでしょうか?
僕だったら相手に非が有り逃げれば、きっと三倍返しにして復讐します。
若い頃にヒガミから裏で誹謗中傷された事が有り、
その人達は何故か早くこの世を去りました。
近年九州文化圏では残忍な事件ばかりが、
起きてる印象が有りますが、独特の風土でしょうね?
その先進各国の死刑廃止され懲役50年とか100年の刑の人達が、
恩赦と引き替えにイスラム教国との戦争の前線に、
ベトナムの時のように、投入されたりしてないかも確認したいです。
先進各国の死刑廃止制度のその実態と、
その受刑者達の状況と追跡調査の資料を見たいものです。
弁護士会の方々が、近年の自殺者の多さを危惧し、
その救済方法と声明文を聞きたいものですが、
残念ながらそれは聴いていません。
同じ人間が、環境や、別の親に育てられ、愛情ゆたかに育てられたなら、殺人などしなかったと思います。
逆の言い方をすれば、この私だって、殺人を犯すような人間に育った可能性はある。
わずかな、本当にわずかな救済です。
もし自分の本当に大事な人を殺されたとしても、犯人の死刑を望むか・・自信はないですが、たぶん望まない。犯人の死刑を望む自分が、イヤなだけかも知れない。犯人を殺しても、最愛の人は戻って来ないのですから、むしろ、自分が生きているのが辛くなって、自殺に向かうような気がします。
これは強者の立場なんかではないです。
寛容さの問題でもない。
失った人への愛情の強さ・・でも無いような気がする。
説明が難しいですが・・むしろ「合理性」なのかも知れない。
「殺人犯を殺しても、何も戻らない」という明確な合理性。
テルアビブ空港で銃を乱射した岡本公三。24人を殺害して70数人に重軽傷を負わせた。けれどイスラエルでは死刑制度がない。これはやはり、納得できなかった。彼を殺さない「論理」が死刑廃止には必要ですね。今の私には、その論理が無いです。
おそらく、宗教にしかその「論理」は無いのでしょう。
ちなみに彼は、イスラエルの公安当局で、明らかに拷問にあったと見られる不自由な身体で、今も生きているのではないでしょうか。10回ぐらいの「死刑」に合ったのではないかと想像できます。
一体、何の権限をもってして、人間に対して死を与えるのか
死をもたらした人間を、同じように死でもって裁くことは、それこそ、人間としてどうなのか。
自分の家族が被害者となった場合、或いは、逆に、加害者となった場合、などと考えてしまうと、どうしても感情的になるので、この際、大きくつき離して考えてみました。
高樹さんのおっしゃる『救済』とは違った意味で考えています。崖さんのおっしゃった、恩赦とひきかえにベトナム戦争の前線にたたせた、とのお話、ぞっとしました。そして、映画『ニキータ』を思い出しました。また、死刑ではなく、拷問、との世界にもぞっとしております。
廃止論を張れるほど法制度を理解していないので、あくまでも、私のステージからの、感情を交えた意見ですが。
愛する人の命を理不尽に奪ったと断定できる人には、八つ裂きにしてやりたいほどの怨讐を抱くでしょう。でも、生を断たれ逝ったその人は、残された私が怨憎にとどまることを、決して望みません。「限りある命だから、その輝かしい生の時間は、憎悪から超越して、諦めないで人の真と善と美を求めてね。その為に人は生かされ、連綿と歴史を紡いできたんでしょう?」という、そんな死者の声にこたえた命の時間を過ごそうと、心を尽くしたいと思います。痛苦に耐えながら。
人が人の死を望む。その状況や心情は身に迫り、理解もします。それでも、人が人の生を奪う仕組みを、人は作っちゃいけない。なぜなら、人は不完全で、必ず誤るものだから。
「お花畑の偽善者さん」と、そんな声が聞こえます。いえ、これは、先進国でありながら死刑制度存続論の強いアメリカの、灼熱の砂漠にて思ったことです。延々と続く不毛の大地、しかし、わずかな水の恵みを得るところには緑!その生命のなんと愛おしいこと。大地の断層は、壮厳な地球の歴史を物語っていました。そこに奇跡のように芽生えた生命体が、ひいては精神を有するまでとなり、よりよい仕組み(社会)を試行錯誤し続けてきて今、最先端に私たちがいる。生命万歳!人間万歳!
犯罪のない豊かな社会は、死刑制度に頼らなければ不可能なのだろうか。否、わたしは、人間の知恵を信じたい。時間はかかるだろうけど。
かつて、国民の生命財産を守るための国家が、国民に死を強制しました。死刑制度容認は、国家が体裁を整えて、国民の生命権を簡単にはく奪できる仕組みに通じるようで、危うさも覚えます。
人は不完全で、必ず誤る存在だからこそ、誤らずに生きていけるよう、教育や社会制度を整えるのが、国家と国民の課題だと思います。
遺族にとって、犯人を殺したい程憎いのは当たり前でしょう
せめて、死刑になってもらわねば、遺族の気持ちは晴れません
それは単なる過失致死で思惑のある犯罪の矯正には、
膨大な人力と費用が掛かり過ぎて難しいと思います。
ところで人は愛情豊かに育てば殺人なんかしない、
だから愛情豊かに育てよう・・・、
の論理は誤解か錯覚でしょう?
例えとして不適切かも知れませんが、
自殺した三浦和義容疑者の育った環境は、
事実は複雑な事情があったのかも知れませんが、
両親と接したことのある知人に依ると、
こんな両親に育てられたのに子供時代から、
放火殺人をするとは信じられないと言ってました。
そうですね、愛情にはいろんな面が有りますから、
青森の永山死刑囚のような貧しい育ち方だけでなく、
愛情豊かに育ったからこそ用意周到な、
悍ましい犯罪を起こすことは有り得ます。
寧ろこちらのほうが死刑囚や重罪犯には多いのかも。
この場合は情念の大きさのなせる業でしょう。
貧しいと命に関わるエネルギーは確かに弱い。
皆さん言うように殺人が死刑相当の値いしないとなると、
国家や組織はそれに乗じて寧ろ国民や社員の命を、
軽視し国益や利益を優先した、戦略や事業展開をしないだろうか?
戦争は合法的殺人ですが、
国際法で戦士の捕虜の生命は守られてます。
将来は日常を戦場として認識しろとでも?
これは論理が飛躍し過ぎでしょうか?
とは、人間の感情として、難しいですね。
死刑存続の論の大きな部分に「被害者自身が復讐しないではすまされない」気持があります。それは当然でしょうね。
であれば、死刑執行に(被害者家族が望めば)立ち会うことが許されるべきですね。自分の手で八つ裂きにしたい犯人を、国が絞首してくれるのを、見届ける・・死刑の主旨からして
意味のあることです。
現実に、アメリカの死刑存続州(かなりの州が廃止)では、立ち会いが原則になっていると聞いています。
日本では、それも許されていません。
ようやく刑場が公開されるまで来たということです。
ここに書かれるコメント、とても有意義だと感じています。
死刑廃止派の考えの根源はキリスト教の教えにあるようですね。「理想」はもちろん理解できます。綺麗な話は、私にはただただ非現実的に聞こえますが。死刑廃止を論ずるのであれば、死刑廃止が確実に犯罪の抑制になること証明していただきたいです。
山口県光市母子殺害事件はご存知ですね?私は被害者母子の夫である本村洋さんの発言と軌跡にとても共感しています。
加害者の育ちが決して幸福なものでなかったことは分かっています。しかし加害者は未成年であることを当初から盾にしていました。
「どんなに残虐に人を殺しても己の命は守られる。何をやっても己は死なない。」この考えがどれほど危険なものか。私は恐れます。
本村洋さんの発言をそのまま転載できないものかと検索をかけてこちらに行き着きました。
http://critic2.exblog.jp/3251270
非常に明瞭で、私自身がもっともだと感じた本村洋さんの考え方。こちらのブログから抜粋させていただきます。
「死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。」
復讐したい気持ちはまず最初に起こるでしょう。普通の人間なら。そして次の段階で何が被害者の弔いになるかを考えるでしょう。そして被害者が死んでしまった意義をどこかに見出すなら。死刑を望むことは、ただの復讐ではありません。
1.犯罪者に反省を促し、更生の機会を与える
2.被害者の復讐感情を慰撫する
3.同種犯罪の再発を抑止する
刑罰は犯罪者本人、被害者、社会のそれぞれに対して意味があるはず。
1.についての問題は、
本当に反省の機会となっているか?
更生の余地がないとすれば、どうするか?
日本の刑務所は本当に更生の場として機能しているか?(再犯率が高いのが事実)
2.については、
死刑を求める被害者たちがさまざまな声を挙げている。
裁判員制度によって、たとえば性犯罪が重罰化しているなどの変化が起きている。
3.については、
死刑をなくしたら殺人が増えるのでは…との懸念があるのは事実。ひとり殺しても、無期懲役なら20年で出てこれることが殺人に至った動機の一つと明かす人も少なくない。
余談だが、刑罰経済も見逃せないかも。
多大なコストをかけて一生の面倒をみることが、1~3の観点を充足することになるのか、死刑を撤廃するためには真剣に考えなければならないのでは。
私自身は、まだ死刑の要否に結論を出しきれていません。自分も参加しつつ、各方面の議論がもっと要ると思っています。
真摯なコメントを、ありがとうございます。
以下に、ウエブに載った記事を掲載します。
合わせて、ご参考になれば・・
http://gendai.net/articles/view/syakai/125496
刑罰は、予防の観点から制定されているという。一般の人が犯罪を起こさないようにと、犯罪を起こした者への再犯予防。
死刑は死刑に値する罪を犯した者が抹殺されるのだから、更生をめざし、犯罪を起こした者への再犯予防という観点からは特別の刑罰のような気がする。
中国では、麻薬密輸で外国人も死刑になるから、理性的に判断すれば、麻薬に手を染めない。十分予防になりうる。
でもこれは量刑的には重過ぎて普通の国では有り得ない死刑だ。
死刑は殺人犯が対象になろう。だが、死刑によって殺人が減るのか。
一般の犯罪と違って、殺人は理性とは程遠いところで起こるような気がする。もちろん周到な計画殺人はあるかもしれないが、理不尽な通り魔とか、闇サイトで知り合った者が罪もない女性を殺害した事件など、あまりに利己的、刹那的、直情的である。
若い頃の自分はすぐにカッとなった。物を投げつけたり、壊したり。近くに刃物でもあれば人を咄嗟に殺めたかもしれない。それほど自分の感情をコントロールができない時期があった。いまは歳をとって沈静化しているが、自分のなかに動物的な狂気が潜んでいる。
死刑になりたいといって小児を殺害した池田小学校の事件もあった。むしろ、死刑は大量殺人を助長するのではないか。
先の闇サイトの殺人では、結婚を控えた母子家庭の娘さんが被害者だった。残された母親の無念は察するに余りある。極刑を求める母の声は至当だ。だが3人の犯人が死刑になるか微妙だ。一人の死では極刑に問えない。死刑制度には、そんな矛盾もある。
殺人犯を死刑に処しても、被害者および残された家族の無念は晴れない。失ったものはもとにはもどらない。
そもそも死刑制度がなく、極刑が無期懲役であったと仮定したらどうだろう。殺人を犯したら一生、社会との関係が断たれ、贖罪の日々を過ごす。人生を否定されたことと同じであり、生きる意味を自問するだけ。死刑よりも残酷なような気もする。
税金の無駄遣いという指摘は拝聴に値するが。。。
冤罪というのは死刑廃止の理由としては消極的すぎるが、足利事件の陰にあった飯塚事件では、冤罪を疑われる者が死刑を執行されている。無期懲役なら救済の余地はある。
先生は民主党のシンパだから抗議する気になれないのは仕方ないが、千葉法相の変節には共感を覚えない。国民から支持を失ったのに法相に留まっているのには違和感がある。死刑執行は起死回生の陋策ではないか。そう思うともの凄く空しい。死刑廃止論者ならそれを貫け。そもそも死刑廃止論者が法相を務めるのはいかがなものかと思う。
ゆえに人が人を裁く事に違和感を抱いておりました。
しかし、山口県光市母子殺害事件で私の考え方は大きく変節させられました。
司法と戦う木村さんの方が正義に見えたのです。
この時初めて弁護士の在り方についても疑問を抱きました。
人を殺めた者は死と向き合う事でしかその魂の浄化は出来ないのではないのでしょうか。
「償う」という意味とは別の「救う」といった面もあるように思います。
いったい、罪とは何か?・・・・・・・・・・・・・・・・
実際に刑務所体験をして、それを著した男がいましたね。大分前に彼の本を読みました。半分か4割か、どうも犯人でもないのに、逮捕され、「お前が殺ったんだろう、本当のことを言え」と、殴る蹴るを繰り返し、不眠・・が続けば、「殺った」と言ったほうが一時的に楽になる。・・
死刑執行に立会い、死を見届ける役をやらされたという人に、面と向かって幾晩も話しを聞いたことがあります。
ダーン! 死刑囚の体が落ちる。しかし、男は死なずに生きていた。現行法がどうなっているか。
男が死ぬまで行為を繰り返した。
その晩、彼の杯に男の姿が映った。次の日も、また・・
『宣告』加賀乙彦著
―死を宣告された人間はいかに生きるか―
この長編作品は何を言いたかったのか!
死刑存廃論:繰り返しくりかえし・・論じられればいい・・
いったい、罪とは何なのか・・
世の中の情報は、操作されていることもある・・
彼女は国民の委託を受けてない落選議員でしたよね?
それに死刑廃止論者も公表して措きながら、
また国民の委託も受けてなく立場で、
執行命令を出すとは神経が普通ではないと思います。
何故参院選で落選した時に、法務大臣を固辞しなかったのか、
彼女の政治生命はもう終わりでしょう。
千葉法務大臣の優柔不断な行為は、高樹さんのようには容認はできません。
今朝のニュースでも昨日の党内会議でも、大敗北の責任を取ろうとしないし、
国民の委託を受けてない千葉法務大臣に、
死刑執行命令を出させた菅内閣にはファッショの臭いがします。
早々に菅内閣及び千葉法務大臣の責任について論議して欲しいです。
未だ民主党を支持していくつもりでますが、投票日には既に菅直人内閣は支持していません。
ましてや議員の職を失った、千葉法務大臣に依る死刑執行とは、
今後とも彼女自身の心を必ず蝕んでいくだろう。
選挙後の優柔不断な対応を見ると、
元来千葉某女史や菅直人は異常人物だったとしか思えません。
それも千葉法務大臣については、国民の意志が出たばかりで許せません。
民主党議員や党員は夏休みを返上で、
党内論議をして菅直人内閣を退陣させ、
早々に次期内閣の立ち上げを実行して欲しいです。
ですから、議員に落選したけれども、国民が大臣を辞めろ等と言う権利はありません
菅さんが罷免しない限り、千葉さんが辞めなくても何の不思議も感じません
国民が自由に発言する権利は有ります。
アンさんはそれも解らないのですか?
確か彼女は落選し辞意を菅直人に伝えたが、
菅直人は慰留を求めたと記憶してます。
千葉某は重責の職だから固辞すべきでしょう?
ましてや死刑廃止論者であるにも関わらず、民主党の総体の信用を無くすだけです。
恐らく、民主党執行部は大敗北により、常軌を逸しているのだろう。
きっと小沢一郎に印籠を渡した上で、
大敗北したのでびくびくしているのだろう。
こんな時にこそ個人や組織も、その真価を世間に問われるのが世の常でしょう?
千葉さんが固辞したが、留意されて続投している と言う経緯
であるならば、なおさら菅さんを責めるべきでないでしょうか
千葉さんを責めるのは、お門違いでは?
固辞した?
固辞とは辞めることですよ。
留意され続投しているのは、単なる辞意を表明しただけです。
あくまでも死刑執行に関わる、責任は全て法務大臣に有ります。
僕が公的機関の死刑執行人だとしたら、
千葉某さんの立場の法務大臣命令には、
例え立ち会って戴いてもストレスを感じると思います。
執行人としては民意が出たばかりですから、尚更だった筈でしょう?
はじめまして、ハンドルネーム赤石剃刀と申します。
マイマイ新子の劇場版を見たことがきっかけで高樹さまのことを知りました。
こちらのブログを拝見させて頂いて、コメントを見たところ思い当たることがあったので、少しだけ書こうと思います。私には法律を勉強していた時期もありまして、いろいろな学者の方にお話しを聴きに行ったこともあります。
死刑廃止論を唱えている方にもいろいろなタイプの方がいらして、学識の高さは立派でも死刑廃止論の根拠に乏しい方やまたその逆に死刑存置論を唱えている方がしっかりとした見識をもっているかといえばそうとも言えないことがありました。
私は法律を学んだ上で、死刑廃止論に賛成しています。
理由は、犯罪者の人権保障ではなく、冤罪の危険性を防ぐことの一点につきます。
死刑を執行してしまっては、えん罪とわかった場合に裁判のやり直しを行うことができないためです。
法律に関する学説をめぐっては今日もなお多くの学者が意見を戦わせていますが、未だに結論は出ていません。
しかし、私は死刑は廃止し、終身刑を導入することが正しい事ではないかと思うのです。
尊敬する作家先生のブログであまり長々と自分のイデオロギーを書くことは失礼なことになりそうなのでこれで終わります。
赤石剃刀
死刑廃止に向かうには、終身の懲役刑が必要になるのではないでしょうか。それでなくては、納得がいかないのが大多数でしょう。
私の周りにも、赤石さんに近い考えの人がかなりいます。
禁固刑ではなく、終生懲役刑で働いてもらい、そのすべてを被害者に弁済する。それが死ぬまで続く。死刑廃止であっても、懲役150年なんて国もあります。それに近いカタチです。
昨日でしたか、無期懲役だったのが再審になったですね(布川事件)
死刑が執行されていたら、取り返しがつかないですね。
極刑(死刑)と無期懲役の落差がありすぎる・・
それも含めて、議論されることを願っています。
ちなみに千葉法務大臣は、弁護士ですから、大臣を退かれたら
死刑廃止論者(弁護士的立場)に戻られるのが自然ですね。
ではなぜ執行命令を出したか。
法を司る法務省のトップと、弁護士の狭間での、苦渋の決断であったのでしょうが、一部では、法務省の役人から強く迫られたという噂もあります。真偽はわかりません。
法が下した裁定を、法務省のトップが実行しない(逃げている)・・現実にはそういう状況でしたから。
守るために作られいると思っています。
重罪の免罪は様々な個性の被疑者がいて、
精神状態から曖昧な自供癖が有ったりと、
さぞや取り調べや弁護士も大変なことでしょう。
またその検察当局の横暴な取り調べや、
担当弁護士のエネルギーのムラや無さも有り、
免罪は必ず起きるとは思います。
だからと言って法曹界は免罪を畏れてはなりません。
どんな仕事も人の命に関わる、危険性は常に有ります。
例えばとび職だと体を張っての危険な仕事、
構造設計業務の方は強度設計を誤れば崩壊し、
これも死と向き合う責任を感じながら仕事をしてます。
だからと言って各自好きな仕事を、しない訳にはいきません。
重罪の免罪は決して有っては成らないことですから、
確定後にも何度も定期にチェックする特別審査会を設けて、
対処するしかないと思います。
ところで調べていたら千葉法務大臣が入っていた、
死刑廃止を求める会??の会長は、亀井静香さんでしたが、
広域暴力団関係者は何をやっても、
死刑にならないとなると大喜びですね?
終身刑で働かせると言っても、産業構造が代わって久しく、
特例を除き彼ら受刑者の環境の作業で、
お金になる仕事ができるとも思えません。
悼ましい犯罪や夥しい自殺者が、
多少でも少なくなることを祈ります。
(先般は無期懲役と終身刑をあまり整理せず書いてしまってすみません)
しかし、このブログでも強硬な死刑存置論があるように、国際的な潮流にしたがうかたちで死刑を廃止するのは容易ではなさそうです。
廃止した国でも復活論があるような記述も見たことがあります。死刑復活を論議させざるを得ないような凶悪卑劣な事件があれば、そういうことになるのでしょう。
しかし、国家権力に死刑執行する力を保持させるのは、どうも馴染めない。
小林多喜二とか北一輝とか戦前に処刑された思想家がいる。今後、そんな暗黒時代に逆戻りするようなことはないとは思うが、死刑を廃止しておけば、万が一そんな大政翼賛的な社会が現出しても政府に反する言論でしょっぴかれて死刑とかにはならないのでは?
いやそんな国になれば、有無を言わさず死刑は復活されるか。。。
ちょっと飛躍しすぎか。。。不勉強ですみません。
ブログはいつも盛り上がりますね。
人間の痛いところを突いた部分だけに・・・
デリケートな部分ではあります。
私は、
個人的には死刑を否定しない人間でした。
罪を犯した人は罰を受ける・・・これは、当然のことと思われます。
人の罪悪の捌きをその人の死によって整理すると考えると・・・
それは、かなりな違和感を感じますが、
これからの抑止力になると考えるならば・・・
死刑はあって当然のことと思います。
他人の命を奪うということは、
自分の命を奪われると同じくらいの重みがあるとの認識が必要なのです。
赤石削力さんのご意見も頷けます。
警察方面の学力不足なのからかな???冤罪を招く危険性はかなり高いですからね。
この時代・・
専門分野の人たちの、
専門力が微妙に低下しているのを感じている毎日です。
政治的にも・・・
医療的にも・・・
すべての面に於いて。。
スペシャリスト
今の日本では死後なのでしょうか???
『司法』の中での裁判所の機能は、裁判により法律的な問題に対して法律的な解決策を示すところ。従い、死刑の判決は司法の権限で出し、法律的に完全に有効なるも、執行する権限は持っていない。ここまでは、行政の関与は一切ない。
一方、死刑の執行は、『行政』の機能。ただ、刑罰の執行の原則として、検察官が指揮を執り執行する。が、死刑だけは例外となり、法務大臣の執行命令が必要となっている。
。。。あたり前のことでしたか。。。失礼しました。。。
三権分立の中の「司法」というのは、実質、裁判所のことです。
ですから司法の最高の立場は最高裁判所所長です。
他方、検察庁は行政です。
行政は裁判所の命令を実行するところです。
法的な実務を行う法務省も当然行政です。
死刑だけでなく、刑務所運営も罰金取立ても、行政の仕事です。
では弁護士はどうか。
三権分立で言うところの「司法」ではなく、もちろん「行政」
でもなく、独立した組織です。
弁護士を「司法関係」(法律関係の意味)という言い方がなされることとは別に、
三権分立における所属ではそうなります。
この記事に併記した今回の声明も、独立した組織として出されたものです。
しかし、「賛成」と「反対」の両方の意見にうなずけて、はっきりと「廃止するべき」か、「存続させるべき」か決めることが出来ませんでした。
「命」や「罪」などの問題については、それだけ深いものだからこそ、こうして沢山の意見が割れてしまうのでしょう。
おそらく、誰もが納得できる倫理感は存在しえないでしょう。
こうした問題は、真摯に両方の意見に向き合って考え、「被害者側」と「加害者側」の立場を考えられることが、なによりも大切なことではないかと思います。
高樹のぶ子さんは「死刑制度」に反対だと思っているみたいですが、読者さんは「高樹さんが反対だから廃止するべきだ」と自分で考えることを怠らないで、一度本気で考えてほしいです。
そして、出した結論が高樹さんと反対になっても、自分の意見を述べる時は、反対意見を尊重しつつ自分の意見を言及してほしい。
相手を批判する時は、どうしても攻撃的で乱暴な言葉になりがちです。
戦争中の状況で言ったら、攻撃している(=暴言、拒絶する)間は相手国を敵視し、相手を理解しようとする気になかなかなれないので、一緒に理解を深め合う理想的な姿勢が作れないと思います。
捲ります。
ここにはある殺人鬼が、死刑になるまで向き合った
一人の女性が描かれています。
二人の出会いは偶然。殺人鬼の男が心を通わせるのは本当に
地味な彼女だけ。
死刑執行直前、彼は手紙で彼女に愛を求めます。
悩みぬいた末、それを贈る彼女。
その根底に有るのは、マザー・テレサが「死を待つ人の家」で
差し延べた手と同じもの。
創作とはいえ男が最期に得た手のあったことに、私は救われ
ました。
「死」は形だけ。いかに人はそこへ至るのか。
その過程で、理不尽に人のそれを奪うことには罰が求められて
当然。ムツカシイことはさておき、感情論者の私は、人の命を
奪ったなら同じもので償うのが当然と思うのですが…。
こうした小説に、また別の答えも見出すのです。
いかに一人ひとりが己の死に至りついたか。その検証。
人はもとも愚かなもの。それを描いて問うのは「ペンの力」
だけ。
「人を殺して何故いけないの?」と尋ねる子のいる現代。
世の中、教育みな荒廃しきっている。
少しも答えにはなっていませんが、高城先生の問いかけに、
今こそ求められている「創作の力」を思った次第です。
大変なコメントになって仕舞いそうです。(笑)
高樹さんはご主人が弁護士でしたね。
さぞかし地方での弁護活動は大変でしょう。苦笑
東京はなんだかんだ資本が集まってますから、
弁護士も生業が成り立ってるようです。
僕は人と他の生物の動物や植物は、
同列だとの生命の価値感を持っています。
他人や特に欧米人から見れば、かなり物騒な生命感かも知れません。(笑)
生死感については未だはっきりしていませんが、
脳医学の養老猛さんは還暦を過ぎたような人は、
もう新アイディアや新開発が生まれる訳でもないし、
生死なんてもうどうだって好い世代でしょ?、
若い人達の事を考えて言ってるんですよ、とラジオで語っていましたね。
確かに科学の世界ではそうかも知れませんね?
でもこの歳でも無知ゆえの発見も含め、新しい発見が有ったり、
結構楽しく暮らしてますから、いつ死んでも好いとの心構えはしてません。
取り敢えず若い世代の被疑者に対しての、
免罪だけは法曹界は起こさないで下さい。
最高裁判事も国民審査に付されるが、各々がどのようなジャッジをしたか、よほどの関心がないとわからない。安易な比較は避けたいが、一般紙を購読するだけで、彼らの言説が把握できる米国にて、第四の権力といわれるメディアが、日本でもよりよく機能することを願ってる。
(SIAブログが始まる直前まで、日本に住んでいました)
死刑にあたる重罪人を裁く(司法)ことと、死刑を執行する(行政)ことの関係をクッカバラさんと先生が明確にしていただきました。
木蓮さんの第四の権力も参考になりました。
浅薄な考えで書いてしまったのですが、私が思っていたのは、デノミ失敗で処刑された北朝鮮とか、麻薬密売が死刑となる中国とか、戦前の特高があった日本とか、国家に対する反逆を死刑にする立法(北朝鮮にきちんとした法律があるかは知りませんが)まで含んだ国家権力を想定していました。
日本がそんな時代に逆戻りすることは有り得ないとは思いましたが、死刑制度を廃止(法律の条文の中に「~は死刑に処する」という言葉がなく「~は終身刑とする」)しておけば、万一大逆罪が制定されるようなことがあっても、死刑になることはなかろうと。
殺人被害者への心情といった面から死刑制度を論ずる文脈のなかで、突拍子のないことを書いてしまったので申し訳ありません。
でも経済政策を失敗すれば死刑とかだったら、もの凄く真剣に知恵を絞るでしょうね。やがては経済学者はいなくなるかもしれないけれど。