猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし①

2015年09月17日 18時49分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

慶安3年(1651年)の山本久兵衛板。太夫は、江戸伊勢嶋宮内である。
「宮内」は、寛永期の代表的太夫のひとりであると言われている。『閑際随筆』に,「間の山両町芝居之事 寛永十二年浄瑠璃芝居 太夫本/勧進本 伊勢嶋宮内」とあり,寛永十二年には伊勢間の山で勧進本をしていたことが知られる。又、吉田城主水野忠清に仕えた大野治右衛門定寛の日記「定寛日記」の寛永十八年に,「伊勢より参宮内太夫,上留リかたる」という記載があり、伊勢出身者であることが分かる。この宮内はその後、江戸に行き,そこから京都に上ったらしい。『東海道名所記』に「ちかきころに,江戸より,宮内といふもの上りて,左内とせり合,いろいろ,めずらしき操をいたしける。」とある。また『隔冥記』には寛永二十一年正月に、四条河原で宮内が興行している記録もあり,宮内の上洛によって、同時期の山城左内と共に、京都の浄瑠璃界を大いに盛り上げたということである。
蒲の御曹司とは、源頼朝の異母弟である源範頼である。頼朝から、義経と同様に、謀反の疑いを掛けられ誅殺された。

蒲の御曹司 ①

 後鳥羽の院の御代の事です。三河の国に、蒲の御曹司範頼(遠江国蒲御厨:静岡県浜松市)という武士がおりました。武勇の誉れが高く、並ぶ者もありません。子供は三人おりました。嫡男は、吉見の冠者為頼(ためより)、二男は、頼氏(よりうじ)、三男は義清(よしきよ)といい、大変優れた子供達でしたので、範頼や御台様のお喜びは、何にも例え様もありません。(※史実では、子は二人、範圓と源昭。為頼は範頼の孫。頼氏・義清は不明である)信頼は、郎等の当麻の太郎重義、つげの刑部恒世(不明)に守られて、心頼もしく暮らしていたのでした。
 さて一方、鎌倉では、逆櫓論争で恥をかいた梶原平蔵景時(かじわらへいぞうかげとき)が、義経への遺恨を晴らす為に、頼朝に讒奏をしたのでした。頼朝は、和田や秩父を近づけると、
「各々方、今度の義経の謀反は、疑う所が無い。急ぎ上洛して追討せよ。」
と命じましたが、秩父、和田は、
「これは又、勿体ないお言葉ではありますが、ご兄弟同士の事でありますから、私どもでは引き受けかねます。」
と、断るのでした。頼朝は、これを聞くと、
「では、範頼を上洛させよう。」
と、すぐに使いを立てました。知らせを聞いた範頼は、早速に鎌倉に上がりました。頼朝は、範頼に、
「如何に範頼。都を任せた義経であるが、院に取り入って、我が儘顔に振る舞い、それどころがこの頃は、我に敵対し、天下の主になろうとする動きがある。御前は、急ぎ上洛して、義経を追討せよ。」
と命じました。蒲殿はこれを聞くとお引き受けになり、鎌倉勢八万余騎を率いて、上洛することになったのでした。これを見ていた梶原は、
「蒲殿が、都へ行くとなると、俺が讒奏した事がばれてしまい、この首が危ないぞ。」
と思って、更に讒奏を重ねるのでした。梶原は、頼朝公の御前に出ると、小声になって、
「お殿様は、ご存知ありませんか。此の度の義経の御謀反ですが、蒲殿も内通しておりますぞ。今、上洛させれば、日本が動くことはあっても、追討はあり得ないでしょう。この儘では大事に至りますぞ。」
と、有りそうな嘘を囁くのでした。聞いた頼朝は、
「なに、そういう事であるなら、お前に任せるから、良きに計らえ。」
と、言うのでした。梶原は、急いで御前を立つと、多くの郎等を引き連れて、蒲殿を追いかけました。駆け通しに駆けたので、やがて、駿河の国の辺りで追い付きました。早速に蒲殿に対面すると、梶原は、又、出鱈目な事を並べるのでした。
「我が君様、お聞き下さい。頼朝公からのご命令です。此の度の討っ手には、和田、秩父を向かわせる事になりました。和田秩父では手に負えない時には、蒲殿を上洛させるという事ですので、一先ずは、鎌倉へお戻り下さい。大勢の軍兵は、和田秩父が引き継ぎますので、そのまま、ここに待たせて下さい。帰路は私がお供致します。」
と梶原が、頭を地に付け言上するので、範頼は、
「兎にも角にも、頼朝公のお心次第。」
と、大軍を残して、鎌倉へと駒を返しました。ところが、軍勢から遥かに遠ざかった所で、梶原は、突然、
「蒲殿、頼朝殿のご命令により、伊豆の国大島に、御流し申す。」
と言って、蒲殿を取り押さえてしまったのでした。無念にも無実の範頼は、梶原の計略に嵌められ、大島に島流しとされてしまったのです。大島では、牢守りの二郎太夫が、親身にお仕えしましたが、範頼の心中の無念さは、言い様もありません。

つづく