猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 39 古浄瑠璃 かばの御ぞうし⑥ 終

2015年09月25日 19時02分55秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
蒲の御曹司 ⑥ 終

 さて、梶原平蔵景時はというと、嫡子の源太景季(かげすえ)を近づけて、
「おい、景季よ。聞くところによると、範頼の子供達が、大島に落ち延びたとのことだ。敵の子供であるから、密かに討ち捨てるのだ。」
と、密談をしていました。
 とこがここに、土肥の二郎実平(どひのじろうさねひら)は、梶原親子が密談しているとも知らずに、憂き世を歎いて、大きい声で独り言を言いました。
「ああ、人間の果報というものは、分からない物だ。なんという憂き世であろうか。あの梶原と言う奴は、栄える者を嫉み(そねみ)、没落する者を笑い、ご兄弟の御仲の事さえ、讒奏して、蒲殿や義経様を失脚させ討ち果たし、自分だけが栄華を手にして驕り高ぶっておるわい。神や仏も無い憂き世だなあ。」
梶原は物越しにこれを聞いて、大いに腹を立てて、
「何だと、憎っくき、土肥の物言いや。」
と、太刀に手を掛け、斬り殺そうとしましたが、漸く心を取り戻し、
「いや、待て。ここで奴と死んで何になる。ひとつ御所に讒奏をして、ひどい目に遭わせてやるぞ。」
と、澄まして御前へと出仕するのでした。まったく、梶原の心中を憎まない者はありません。土肥は、こうした梶原の様子を見ていて、嫌な予感がしました。土肥は、
「どうやら、奴め、次は、このわしを塡める為に、讒奏をする気だな。よし、俺も御所に出仕して、先に申し開きをしておくか。」
とも、思いましたが、その前に、和田や秩父等へ話しをしておいた方がいいだろうと思い直して、和田や秩父の所を訪れました。和田や秩父は、話しを聞くと、
「おお、まったく。あの梶原を、このまま放置しておくならば、後々、我等が身の上の災いとなるのは必定。これは、土肥殿一人の訴訟では無い。皆々の連名で、申し上げようではないか。」
ということになったのでした。こうして連名で、御前に出仕した面々は、北条殿、秩父殿、和田殿、土肥殿、馬場、小山、土屋、川越、三浦介、上総介、その外六十六カ国の武将達でした。この様子をご覧になって頼朝公は、
「いったい、この訴訟事は、何事だ。」
と、驚かれました。人々は、平伏して、同音に、
「申し上げます。御前におります梶原親子の者共は、自分に都合の悪いことを、御前のお耳に入れようとする者がありますと、君に対して讒言をして、その者を陥れてきました。一年前の平家追討の折、御舎弟の義経様の事を猪武者と罵りました。その仕返しを恐れて、義経様に野心があるように讒言をし、追討することになりました。又、梶原の嫉みによって、蒲殿も失ったのです。今迄は、君の御意に畏れて、進言する者もありませんでしたが、我々もいつそのような讒奏をされるか分かりません。そこで、このように皆一堂に申し上げるのです。どうかお願いです。梶原親子の者共を由比が浜で捻首にさせて下さい。もし、これをご承引いただけない時は、奴らに捕らえられぬ内に、お暇をいただき、出家をして憂き世の憂さを晴らそうと思います。」
と、必死の進言をしたのでした。頼朝公は、
「分かった、そのようにせよ。」
と、お答えになりました。これを聞いた梶原は、肌背馬(はだせうま)に跨がって、脱兎の如くに逃げ出しました。
 梶原は行方知れずに逃げて行きましたが、余りに慌てていたので、道々、宇都宮の弥三郎が、弓の稽古をしている所を横切ってしまったのでした。弥三郎は、怒って、
「例え、梶原であろうとも、侍の的矢を射る目の前を、礼儀会釈も無しに、乗り打ちするとは何事か。ええ、閻浮の塵になるならなれ。逃してなるものか。」
と言うと、弓を満々と引き絞りました。はったと射れば、梶原は、背中首(せなくび)に矢を受けてバッタリと馬から落ちて、息絶えました。その後から、人々が駆けつけて来ましたが、この有様を見て、
「天晴れ、よくぞ射たり。」
と喜んで、首を掻き落としたのでした。
 さて、その後、蒲殿の子供達は助けられて、頼朝公の御前に上がることが許されました。頼朝公は、
「咎も無い範頼を亡くしてしまったことは、何よりも口惜しい事である。兄弟の者達に、三河の本領を安堵する。」
と仰せになるのでした。こうして、兄弟は、蒲殿の跡を継いで、三河の国を治めたのでした。目出度し、目出度し。

おわり

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