断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

アメリカの国家貨幣論(MMT)について①政府と中央銀行を連結することの意味

2013-09-22 11:26:05 | 欧米の国家貨幣論の潮流
アメリカでも、結構、国家貨幣論が流行っているようである。
代表的なものはModern Monetary Theory (MMT)や
Free Money 論であろう。
また、国家貨幣論というのとは違うかもしれないが、
MMTから派生したものにMonetary Reality といわれる潮流もある。
こちらは、良くわからないが、もしかしたら
ヨーロッパやカナダのCircuit Theory / Circulation Approach
(CT)といわれる人たちの考え方に、近いのかもしれない。

さて、今回は
アメリカのMMT(Modern Monetary Theory)について、覚書。
ただし、論点は多岐にわたるので、本日はそのホンのさわりの部分だけ。
今回は、政府と中央銀行を連結することの意義について触れ、
次回(を書く気になったら)は、物価安定手段とての
Job Guarantee Program 及び長短金利について、
その後、為替問題や国際資本金融取引について書きたいと思う。
その合間に、もっとも重要な論点の一つである
貨幣と景気循環の歴史(貨幣の歴史的起源)について
どのように説明しているのかも
挟みたい。
おいら自身のコメントは、最後にまとめて書きたい。
まあ、おいら自身もともとむらっけが多いうえ、
仕事の関係もあるので、本当にこの通り進むかどうか
わからないが、気長に頑張ってみよう。

MMTを主唱しているのは、たとえばL. Randall Wray なんて人がいる。
MMTでは、イギリス人の経済学者
ウィン・ゴドリーWinney Goodley に倣って
(と、いったって、Winne Goodley 自信は、ここでいう国家貨幣論者だったというわけでは
なさそうだが)、
1国の経済を
「民間部門」「海外部門」「国家部門」に分ける。
「国家部門」とは、つまり、「中央・地方政府+中央銀行」
である。他方、「民間部門」とは
「民間企業+家計+民間金融機関」である。
「海外部門」とは、外国との実物・金融取引をさす。

さて、国家部門とは、結局のところ
政府部門と中央銀行とを会計的に連結したような
概念になるわけだが、
実は、これはそれほど簡単な話ではない。

当たり前の話だが、
2つの経済主体を連結する場合、
お互いに保有している債権債務は相殺消去されるが
外部に対する負債が総額で変化するわけではない。
つまり、中央銀行が引き受けている国債と
政府が保有している政府預金は消えてなくなるが、
外部が保有している国債およびベースマネーは
そのまま負債として残る。
つまり、それだけでは事態は何も変わらない。
日本の国家貨幣論者の中には、なんだか、
政府と中央銀行を連結すると、国債の問題が
解消する、と考える向きがいるらしい。なんでも、
国債が(ここでいう)国家部門の負債から消えてなくなるのだから、
中央銀行が、国債を全部吸収すれば、
国債は存在しないことになってしまう、というのである。
勿論、会計的には、これほど馬鹿げた話はない。
なるほど、国債はなくなるかもしれないが、その分
ベースマネーが国家部門の負債として残るのだから、
問題は何の解決にもならない。
要するに、日本の一部の国家貨幣論者が問題の解決を見るところに、
MMTは、問題の出発点を見る。
実際、政府部門と中央銀行を概念的に連結する、というのは、
一言でいうほど簡単ではない。結局のところ、
目指しているのは、現代貨幣の実務よりまず前に、
現代貨幣論のパラダイム・チェンジなのである。
(最近では、「パラダイム・シフト」という言葉のほうを
よく用いるようで、実際、トマス・クーんなんかの議論を
思い出してみるなら、確かに「パラダイム・チェンジ」や
「パラダイム転換」なんて言うよりは、「パラダイム・シフト」のほうが
適切な気がするが、使い慣れた言葉なので、
パラダイム・チェンジとしておく。)


これによって何が変わるか、というと、
まず、租税の位置づけである。
伝統的に、租税は、民間部門で生産された所得を
政府に移転するプロセスとして考えられてきている。
これは何も、経済学者ばかりがそう考えているわけではない。
租税法のテキストを見れば、「租税制度論」として必ず
一章が割かれており、そしてそこには、
その根拠や本質、機能については様々な意見があるとしても、
租税というものが、
法律に基づいて、政府が民間から、経済的資源を徴用するプロセスのことを指していることが
明記されている。
だが、もしも、政府と中央銀行が連結され、
貨幣が、「国家」の負債として位置づけられるとなると
租税の位置づけは、全く異なったものになる。

一般に企業は、負債を発行して経済的資源を
獲得することができる。この場合、経済的資源の獲得は
元の経済的資源の保有者に対して負債を発行した時点で
実行されたものとみなされ、
そして、この負債を回収するプロセスは、
あくまでも、負債の償却あるいは清算・決済として
認識される。同じことが、「国家部門」に対してもあてはめられるであろう。
つまり、「国家部門」が「民間部門」から経済的資源を徴用するのは
租税によってではなく、
負債(ベースマネーあるいは国債)を発行しそれと交換に
経済的資源を入手した段階ということになる。
そして、租税は、こうして発行された負債を償却する行為として
位置づけられる。
勿論、「国家部門」は生まれながらにして
「徴税権」を持っているのであり、そして、
この徴税権は、申告が行われるたびに
「未収税金」として、すなわち「国家部門」の債権として
確定することになるが、
しかし観念的に言えば、政府は「徴税権」という国民に対する永続的「資産」を
持っているのであり、未収税金とは、ある一定期間の
徴税額を確定する行為にすぎない。他方で、国民は、
観念的には、政府に対して、金額こそ定まっていないが、
「納税の義務」という永続的負債を負っているのであって、
申告は、この観念的義務の金額を確定するプロセスにすぎない。
納税とは、国民が集めた政府の負債を
自らの納税の義務と相殺するプロセスであり、実際にここにおいて
「納税」という経済的資源の貢納が行われるわけではない。
政府は、
国民に対して、こうした永続的資産を保有していることによって
自分の発行する負債である貨幣を、
国民の「納税の義務」という負債と相殺償却する。
そして、国民からの経済的資源の徴用は、この
負債を発行することによって行われるのであり、
資産(徴税権)を行使することで行われるわけではない、
と、いうわけだ。(もちろん、「徴税権」を永続的な資産とみなしたところで、
合理的な金額が確定するわけではない以上、それは、
国家部門の「バランスシート/ポジションステイトメント」に
「資産」として計上できるわけではない。
あくまでも、概念的な話である。)
そして実は、少なくともアメリカ合衆国(実は日本やカナダも同じだけど)の
徴税および政府予算の執行、貨幣の発行プロセスについて言うと
MMTの考え方の方が、
租税制度論や経済学で通常とられている考え方より
はるかにうまくあてはまる、という。

政府は、予算を執行する際、
まず、税金によって国民から租税を集めた後、
その徴収額を支出に充て、不足する分は
国債を発行し、国債発行によって集めた貨幣を支払うことで
国民から経済的資源を徴用しているわけではない。
まずは、財務省短期証券が発行され、それが民間および
中央銀行(主として後者)によって買い取られることで、
政府預金に入金され、
そして、その政府預金をもとに、
財政支出が行われる。
財政支出が行われる際には、
中央銀行に民間銀行が開設している準備預金口座(日本でいえば
日銀当座預金)に、政府預金が振り替えられ、
それがマネタリーベースを形成することになる。
そして後日徴税が行われると、
そうして集められた貨幣が政府預金から引き落とされ、
財務省短期証券が償還される。
これが政府による実際の予算執行のプロセスであり、
つまり、経済的資源現物の徴用は
納税に先立ち、政府が、中央銀行が発行した政府預金によって
経済的資源を購入する時点で行われてしまっているのであって、
納税によって行われるわけではない。
納税は、それによって財務省証券を相殺償還するための
プロセスにすぎない。

さて、こうなってくると、
次には、では、政府予算(と、いうか、国家部門の予算)の上限を画するものは
なんであるか、ということが問題になってくる。
租税法の立場で言えば、まさにそれこそが
租税を法律で定義することの意義である。
経済学的にも同様であろう。
政府や、家計や企業同様、一定の予算制約を持っている。
この予算制約は、経済的資源の価格が変わらない限り、
貨幣徴税額で定義される。
短期的には、この予算制約は、「金融」を通じて
緩めることができるだろう。つまり、現在の不足は
金利を支払うという約束のもので、
将来の所得(徴税額)から穴埋めできる。
MMTでは、こうした考え方は全面否定される。

政府と中央銀行を連結した「国家部門」には
そのような意味での「予算制約」は存在しない。
確かに、国家部門が国債や貨幣といった負債を発行し
それを将来の租税によって償却するということを行う以上、
租税の枠内でしか負債を償却することはできない。
しかし、そもそも、国家の負債である貨幣と国債は
いつの日にか完全に償還されなければならない性格のものなのだろうか。

あらゆる経済主体は、負債を発行することで
経済的資源を購入することができる。もちろん、文字通り、
すべての人が、というわけではない。将来の
収入が安定していなければ、負債の引き受け手は限られてくることとなり、
最後はゼロになってしまうだろう。
ところで、この将来の安定とは何を意味するのかというと、
単純に所得というよりは、信用の階層の、より上位にある経済主体が発行する負債の
入手可能性のことである。
つまり、おおざっぱに言って、
法律的あるいは経済的な根拠により、債務には、その発行者の属するカテゴリーごとに
階層秩序が形成される。
最下層には、個人の発行するローンや企業の発行する買掛金、手形が属するだろう。
その上位には、ノンバンク(預金口座を開設できない金融機関)による
債務、さらにその上位には、預金口座(とりわけ、checkable account、日本でいう
当座預金口座)を開設できる金融機関の預金、
そしてその上位に、国家貨幣、すなわち、
政府の発行する鋳貨と、中央銀行の発行する紙幣・準備預金口座の預金が
位置づけられる。
各経済主体の債務は、期日あるいは任意の日付に、
より上位にある経済主体が発行する債務によって
償還される(か、その負債の保有者自身が発行した負債と相殺される)ことによって
流通する。
仮に「国家部門」が発行する負債の残高がゼロになってしまえば
このヒエラルキーはもはや維持できなくなってしまう。
つまり、経済を成り立たせるためには、
「国家部門」の債務残高がゼロになってしまってはいけないのであって、
これを最低限の水準には維持しなければならない。
ちなみに、この水準を維持するのが
Job Guarantee Program と、呼ばれるものである。
なんで、job Guarantee すなわち、就業保証がベースマネーの残高維持・適切化(つまり
インフレ抑制)に
係わってくるのかが、大変アクロバティックな論理構成となっており、
もっとも、興味を引く部分であり、同時に
Free Money 論者などからの批判にさらされている部分でもある。
大変面白い議論でもあるのだが、今回は割愛せざるを得ない。

さて、その場合、国債とはどのような位置づけになるのかが問題である。
上記のとおり、今や国債(民間保有分のみ)は、貨幣(ベースマネー)と同じく、
「国家部門」の負債になってしまった。
これは、発行経済主体を同じくする負債の一つである。
上記のとおり、あらゆる負債は、(発行主体が保有する負債保有主体の負債との
相殺を除けば)より上位にある経済主体が発行した負債(通常は銀行預金)によって
決済される。しかし、
国債はベースマネーの発行主体である「国家部門」が発行したものである。
と、なると、これは、何によっても決済の仕様がなくなってしまう。
租税による相殺は確かに可能だが、それはもっぱら
国債がベースマネーに変換された後に行われることになる。
だとすれば、これは、結局のところ、
民間銀行が発行する要求払い預金(普通預金、当座預金)と
貯蓄性預金(定期預金)との関係と同じである。
つまり、
民間銀行は、必要に応じて、準備預金と国債とを選べる。
準備預金には、――付利制度が採用されるようになる前までは――
預金がつかない。日本同様、合衆国でも超過準備預金については
一定の付利制度がとられるようになった。これについては
あとで、長短金利政策について論じるときまで取っておくこととして、
ここではとりあえず、準備預金には金利がつかないものとしておこう。
(つけたところで、本質に変わりはない。)
民間銀行は、取引の必要に応じていつでも
国債を準備預金に代えることができる。これは、
国債を他の金融機関に売却することによる場合もあれば、
中欧銀行に売却することでも可能である。
実は、この点、のちに説明することになるが、
主流派経済学の教科書にあるようなオペレーション
すなわち、中央銀行が、ベースマネーを決定し、
マネーストックを決定するなどと言うオペレーションは
過去に行われたことはなかった、という。
中央銀行は、インターバンクレートの変動を一定の幅に納めるように
通貨量を調整するオペレーションをしてきたのであって、
その逆ではない。ベースマネーが決まり、貨幣需要の変化に応じて
金利が自由に変動したことなど、一度もない、
という。日本では、この4月に黒田氏が日銀総裁になってから、
インターバンクレートを目標変数から除いて、
ベースマネーを目標変数にしたが、これも戦後(ただし、終戦直後の混乱期を除くが)
初めての試みであろう。
中央銀行のオペレーションが金利を基準にしており
マネーストックを目標にしてはいない、という点自体は、
すでに、ニコラス・カルドアや
バジル・ムーアといったホリゼンタリストやアコモデーショナリストによって
昔から指摘されている点で、必ずしも新味はないが、
しかし、「国家部門」の文脈でこの事実を読み直すと、
全く新しいパラダイムが開けてくる。
民間銀行は、保有国債残高を前提として
ベースマネーをその範囲内でいくらでも調達できるのであって
結局のことろ、国債とは、金融機関にとって、
金利のつかない資産である準備預金が過剰になった時、
一時的に金利収入を稼ぎ出すためのファシリティーということになる。
勿論、金利は、これまた「国家部門」の負債である
準備預金によって支払われる。
つまり、国債とはそもそも償還するの何のということではなく、
民間金融機関にとっての
ベースマネーと互換的・代替的な資産にすぎない、というわけだ。
ベースマネーとの違いは、単に金利がつくか否かということであり、
そして、その金利はまた国家部門の負債として発行されるのである。
そして、国債あるいは政府負債とは
いつの日にか償還されつくされるべきものでない、となると、
もはや、租税が政府の予算制約を画する、という命題は
全く意味を失う。国家部門は負債発行によって
いくらでも予算の枠を広げることができるのであり、
それを限られた日限んで限られた範囲(たとえ、ゼロとは言わないまでも)に
償還しきることなど、不必要なのである。

そうなると、政府の予算制約がどこにあるのか、といえば、
唯一、ある瞬間遊休している経済的資源の量、ということになる。
国家部門は、ベースマネーを発行することで
いくらでも、国内で値段がついているものを購入できるのだから
(この、「値段がついているもの」というのが
また、重要な意味があるのだが、これは、「貨幣の歴史的起源」について
論じるときに、再論する)遊休している経済的資源、
とりわけ、労働力商品がある限り、
いくらでも、貨幣を発行してこれを利用しなければならない。
他方で、それ以上の経済的資源を国家部門が利用しようとして
貨幣を発行すれば、
それは民間部門での経済的資源不足による
インフレを引き起こすことになるだろう。
これはつまり、政府がその予算制約を超えて
経済的資源を利用したことによって発生するインフレである。
この場合には、インフレが発生しうるが、これはあくまでも
政府が経済的資源を過度に利用しようとしたために発生するものである。
政府が過剰資源を利用するため貨幣を発行する分には
貨幣の残高が一時的に増えても
それ自体がインフレにつながる恐れはない。
なぜなら、金融機関は、
国内に遊休資源がある状態の時点で貨幣が
政府から発行されても、
それを国債(定期預金)にするだけで、
民間部門が投資を増やすようになるまでは、
貨幣は政府と銀行の間を行ったり来たりするばかりで
(その途中で、失業者へ給付が行われ
その貨幣が消費財部門に渡され、
それが消費財部門から金融機関への借入金の返済へと
流れるだけである限り)
貨幣の流通残高は増加しないからである。
(インフレについては、また、日を改めて。)
だがこれは、租税制度をおろそかにして構わない、
という意味ではない。
最初にも論じたとおり、
租税制度は、「国家部門」が発行する負債を流通させる
根拠である。貨幣は、ただの記号にすぎない。
これが流通するためには、それが負債でなければならず、
それが負債であるためには、
最後には、何らかの形で償還されることが
保証されていなければならない。
要するに、貨幣や国債といった国家部門の負債の発行残高に
上限はない、とはいっても、
それは量的な話に過ぎず、
負債としての性格を失わせてはならない、つまり、
ゼロや残高を限る必要はないのだけれど、
いずれ償還されることだけは、
確実に行わなければならないのである。
納税義務との相殺による償還が
この負債を貨幣として機能させるのであり、
それがなければ、
ハイパーインフレーションあるいは高インフレーションを
避けることができない。

さてさて、文字数の制限もあることだし、
おいらもそろそろ書き疲れてきた。
(人の意見を要約する、というのは、
簡単ではない)
この続きは、また、日を改めて。

なお、資料の出所については
アマゾンあたりで
L. Randall Wray
"Modeern Monetary Thoery"
"Understanding Modern Money"
を参照してもらえばいいが、
L. Randall Wray
のブログを見てもらえれば、
大体内容はつかめる。
実際、"Modern Monetary Thoery"は
その大部分がブログの
転載にすぎない、という話もあるし。
ジャンル:
経済
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2 コメント

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面白い (tamurin)
2015-12-17 09:27:57
非常に興味深いお話ですね。
私はベースマネーは中央銀行にとって負債ではないと考えています(履行すべき義務が無いため)が、徴税によって消滅させるものと考えれば納得がいきます。
ありがとうございます (wankonyankoricky)
2015-12-21 21:00:23
コメントありがとうございます。
ベースマネーを中央銀行(あるいは「国家」)にとって負債とみなすことについてはいろいろな意見があります。MMTはベースマネーは国家の負債であり、それゆえ価値を持つという立場です。そのほかに、Positive Money という考え方の人々もいます。彼らは100%準備貨幣の立場ですので、ベースマネーとマネーの区別をなくすべきだ、と考えているのですが、その上で、貨幣(この場合、ベースマネーと同じ)は貨幣なのであって、国家部門あるいは中央銀行の負債であるべきではない、と主張しています。調べてみると、いろいろな意見があって面白いですよ。

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