断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

『鬼滅の刃』が人気になる時代

2021-11-28 10:25:20 | 思うこと
『鬼滅の刃』を読んでみた。もともとあまり漫画を読むほうではないのだが、どうも最近パワーが出ないのではやりの漫画でも読んで時間をつぶそうか、、、と思った次第。まあ、今の世の中どんなものが流行ってんのか知っておかないと、、、、みたいな意識も全くなかったわけじゃないかもしれないが。

読後の感想というのは、まあなんというのか、かなり意外な気がした。全体のテーマは輪廻転生である。このテーマは、まあ有名なところで手塚治虫の『火の鳥』があるとはいえ、おいらの知る限りではそれほどメジャーになるようなものではなかったはずだ。輪廻転生だよ。。。。
物語は、人は生まれ、育ち、そして死んでゆく、その合間に何事かを次の世代に引き継いでもらうことによって永遠の命を紡いでいこうと考える人間たちと、自分自身が不死の存在となることによってしか永遠の命を得ることはできない、と信じる者の対立・抗争を軸に描かれてゆく。で、その不死の肉体を求めて鬼となったのが、最初の鬼にしてラスボスである「鬼舞辻無残」なる人物だ。ところがこのラスボス、他の少年漫画に出てくるラスボスたちとは一線も二線も画する、なんとも妙な存在なのである。彼の唯一の目的は不死の肉体を手に入れること、それだけである。不死になって何をしたい、とかそんなものはありはしない。次から次へと鬼を生み出し人間を襲わせるのだが、その唯一の目的は自分が不死の肉体を手に入れるために青い彼岸花を探し出すことと日光に当たっても死なない鬼が現れるのを期待しているというだけのことである。世界征服も世界中の富を一手に集めようというのでもない。彼によって鬼にされた者たちには、それなりに目標がある。コクシボウやアカザは、もはや守るべきものをすべて失ったというのに、ただ強くなりたいという妄念ばかりに突き動かされ、殺戮を繰り返してゆく。鬼になる前から何にも興味を感じなかったというドウマですら、女を食うという快楽に執着している。ところがこのラスボスにはそうしたものが何一つないのである。「千年も生きていれば何を食ってもうまいとは思わぬ」という独白があるが、まあそうなのだろう。仮に第三帝国建設を目指すヒトラーの快進撃を見ることがあったとしても、無残にとっては、「そんなもの造ったところで自分が死んでしまえばおしまいじゃないか」の一言で終わりだろう。ただ死にたくない、というだけのことで、それ以外一切の欲がないのである。ゲーテ『ファウスト』風の二分法で行けば、この悪党がどれほど大きな犯罪を犯そうと、それは常に「小さな物語」にとどまる。決して「大きな物語」へ発展することはない。こんなラスボス、他にいるか?白戸三平の『カムイ外伝』、主人公のカムイもまた、ただ己が生き延びんがためだけに、他には何の目的もなく、追っ手を殺して生き延びてゆく。しかしカムイは自ら望んで上忍に勝負を仕掛けているわけではない。追ってくるから撃退するだけである。無残もまた鬼滅隊の隊員たちを、追ってくるから殺すわけだが、しかしそれが嫌なら人を襲わず、鬼を増やすことなく生きる道も選ぶことができた。珠代たちが現にそうである。ところが無残はそれができない。太陽に当たると死んでしまう、というのが許せないわけだ。さりとて日光の下に出てどうしようというわけでもない。ただ日光に当たっても死なない体が欲しいだけである。こうなってしまうと座頭の姿を借りた仏様(?)が百鬼丸に言ったのと同じ疑問が湧いて出る。「お前さん、妖怪を倒すたんびに手が生え足が生え、やがて一人前の人間になる日が来る。それでそのあとどうする?何を目標に生きる?おめえは目標を失ってがっくり来るだけだ。幸せになんかなりゃしねえ。」だとしたら、晴れて無残が日光の下に出ても死なない体を手に入れたとしたら、目標を失った無残はどうなる?もはやそれ以上鬼を増やす必要もなくなり、人を喰らう必要もなくなる。案外そうなれば無残は気力を失った無害な鬼となり、暴れまわる鬼が順次鬼滅隊に殺されてしまえば、それで世の中は平和になるんでないかい?

 で、その鬼滅隊である。1000年の長きにわたり、鬼をせん滅するために武芸を磨く非公認組織である。まあ少年向けの正義の組織と悪の組織との戦いを描く物語では往々にしてそうだが、悪の組織より正義の組織の方がその成り立ちに無理がありがちである。江戸川乱歩の少年探偵団ぐらいならまだいいし、科学特捜隊やウルトラ警備隊もまあわからないわけではない。しかしゴレンジャーとかになるともう何が何だかわからない。大体この手の架空の物語にあまり細かいことを言ってもしょうがないのだが、しかし何ともわけのわからない組織である。カネがどっから出ているかとか、どうやって隊員をリクルートしているのかとか、そんなことはどうだっていい(隊員リクルートについては物語でしばしば触れられるが、あんなやり方でこれほど特殊で大規模で人員が次から次へと死ぬ秘密組織を維持できるわけないだろう)。この組織の中では様々な「呼吸」と呼ばれる一種の「型」(物語中出てくる「壱の型」「弐の型」ってことじゃなく、パターン化された技の体系みたいな感じ)を持つ剣士たちが、その「呼吸」を伝承することで成り立っている。この「伝承」こそがこの物語のカギで、人は代々こうした伝承を受け継ぎ、そしてそれを発展させることで「永遠に」命をつなぐことができる――といってもこの組織、鬼舞辻無残を殺すことだけが目的で存立している組織なので、無残を殺してしまえばもう続かない。無残のように目的なくただ永遠の命を求めているわけではないが、しかしその無残が生き続けることによってのみ、存続しているというのだから、何ともおかしな組織である。無残の死により解散することが決まっても、それは誰にとってもつらいことなく、誰も悲しむことなく、誰も「目標を失いがっくり来る」ことがない。それはこの組織が存在悪であることを皆が知っているからだろうけれど、しかし結局のところ「永遠」などではないのである。だから物語は、この組織が解散した後、結局はもっと広い個々人の「輪廻転生」こそが受け継ぎ受け継がれてゆくものだ、という何とも言えない結論で幕を閉じる。無残によって鬼にされた人間は、決して転生することなく、地獄に落ちる。そうでなく、人のために尽くし、人のために死んでゆく人たちは、再び新しい生命となってこの世に生まれ変わる。鬼滅隊の隊員たちは例外なく平成(令和?)の時代まで新しい生命として転生し続ける。しかし無残や無残によって鬼にされた人たちが再び転生することはない。しかしながら「鬼になる」とはどういうことなのだろう。人のために尽くすということは、つまりは善行を積むことだが、しかし「善」とは何なのだろうか。
 何が「善」で何が「悪」か。これが世の中にある凡百の少年向け戦闘物語とこの物語が全く異なっているところである。基本的に「正義を守る」とはつまりは世の中の秩序を守ることである。時にはアトムの「世界最強のロボット」やらウルトラセブンの「ノンマルトの使者」やら、こうした正義に疑問を投げかけるものもあるし、中には『カムイ伝』のように最初から「勧善懲悪」を相対化することをテーマとする作品もないではない。が、多くの正義の戦隊ものには漠然としたものであれ「正義」の、共通した内容がある。それは人々(そこに含まれる対象や範囲はいろいろだ)の命や生活を守ることである。ワンピースではドフラミンゴが「俺のいるここが善悪の中心だ」というような宣言が出てくるが、これとてこうした「正義」の言葉の意味をずらすことに焦点が当てられており、それ以前に海軍のあるいは海賊たちそれぞれの「正義」がなければ成り立たない発言である。こうした共通した漠然とした「正義を守る」概念が、この物語では崩壊してしまっている。ストーリーから言えば、産屋敷の家系はただ自分の家系から鬼の子孫を出してしまったことを悔い、鬼をせん滅することだけを目的としているに過ぎない。それは確かに世の中に害悪をもたらす存在をせん滅するという意味で正義ではあるが、しかし世の中一般に正義をもたらそうということとは程遠い。あくまでも鬼を殺すこと自体が、それだけが正義なのである。そうなればこそ、初めてネズコと炭次郎が本部を訪れたときの柱たちがあれほど「殺す殺す」と連呼したことが理解できるというものだ。産屋敷の家系は鬼に呪われ、当主は長く生きることができない。代々早死にする当主を、子供たちは幼いときから見て、そして子供のうちに家を継ぎ、産屋敷家の家に生まれたものとして義務を伝承しようとする。世の中の正義が問題なのではなく、あくまでも産屋敷家の家系に代々伝わる鬼との抗争に打ち勝つこと、これが正義なのである。なんとも内輪の正義である。
 無残は鬼を叱責しながら「私は常に正しい」と言い切るが、しかしそれは単に自分が鬼を好きなように生死与奪できるというだけのことであり、「正しい」「誤っている」という言葉の内容は空疎である。無残は、多くのこの社会の「犠牲者」たちを鬼へと変えてゆく。12キヅキとなるような鬼の多くは(といったって作中成り行きまで語られる鬼の数はそれほど多いわけじゃないが)世の中の矛盾によって人の世を呪い、人を殺すことによってしか自分の存在を保てなくなってしまった人たちである。花街で鬼にされた少年は、生まれついて人々から忌み嫌われ、そしてそれゆえに一層忌み嫌われる仕事に就き、そして唯一の生きがいだった妹を生きたまま焼き殺され鬼になる。彼は100年以上、妹と共に鬼として生き、そしてその間数多くの人間を殺し続け、その罪ゆえに地獄に落ち再生することはない。彼は世の中の最底辺の存在として生まれ、この世の矛盾をいわば一手に引き受けなければならない立場に置かれそれゆえに鬼になるようなつらい目にあわされるわけだけれど、彼を救うものは誰もいない。水戸黄門が現れ彼を救い同時に世直しをするわけでもなければ、彼自身が萬屋金之助よろしく破れ傘刀舟のように悪人をバッタバッタと切り殺して世の中を正していけるわけでもない。せめて中村主水が恨みを晴らして成仏させてくれるのか、というと、それすらない。彼の前に現れたのは、鬼舞辻無残(というかその手下のドウマ)である。鬼になるしかなかった。鬼舞辻無残に会わなければ会わなくても、生きた人のまま鬼になったことだろう。この物語では、こうしたこの少年の悲劇は、ただ一人の鬼が生まれた経緯としてのみ語られ、こうして鬼になることによってしか救いを得られない人々を再生産するシステムの矛盾については何一つ疑問視しない。対立軸は、花街を支配するもの、そこを利用して楽しむものと、その花街で酷使され殺されてゆくものの間にはない。鬼になったものと人間の間だけである。主人も遣り手婆も客も花魁も女郎もひとまとめの「人間」として鬼滅隊によって鬼から守られる。しかし鬼以上に恐ろしいかもしれない人間社会内部の対立に、鬼滅隊は足を踏みいれることはない。そしてこの社会の抑圧の中で、ただ結果として生まれてしまった鬼は、罪を犯した故、鬼滅隊によって地獄に落とされ永遠に転生することはできないのである。弱く、搾取されるがゆえに鬼となり、そして鬼となったがゆえに鬼滅隊に殺され、そして鬼であったゆえに地獄に落とされる。ザッツオール。鬼滅隊にとって鬼を生み出すのは無残だけである。無残さえ殺せば、鬼はいなくなるはずだ――まこと狭い「鬼」の定義である。この漫画は主人公に「鬼だって元は人間だったんだ。鬼は哀しい生き物だ」と言わせはするがしかし鬼と人間の対立軸を揺るがすことは決してない。少年を「鬼」という哀しい存在にしたのは鬼舞辻無残だ!憎むべきは鬼舞辻無残だ!花街ではない――話は決して「大きな物語」へ進むことなく、常に無残という一悪党の「小さな物語」のまま完結しようとする。
 大体において少年向け漫画で「大きな物語」を書こうとするとろくなことにならない。岩井昭の『寄生獣』なんてのはその典型だが、小さな物語のうちは登場人物たちの微妙な心理が描かれそれなりに面白いのに、大きな物語に入ると途端に紋切り型の、なんかマスコミでよく見かける言葉がただもっともらしく並べられるだけのうすっぺらい話へと変わってしまう、そんな前例はいくらでもある。だから大きな物語に進むことなく小さな物語で納めようとするなら、それはそれで悪いとは思わない。それはうまくやれば、様々な問題を読者に語り掛けることになるだろう。手塚治虫で育ったおいらのような世代にしてみれば、漫画で大切なのは解決を示すことではなく、問題を示し、問いかけることだ。ただ淡々と不幸な生い立ちの下で鬼にされた少年の話にでもしておけば、解決はなくても、数多くのことを問いかけることが出来たろう。ところがそれを輪廻転生(という解決)と結びつけてしまうと途端におかしなことになってしまう。いったい悪いのは誰なのか。この少年なのか、この少年を排除しようとしたこの花街ではないのか、妹に生きたまま火をつけた客の侍はどうなったのか、この少年が鬼になるのを拒否したとしたらどうだったのか。こうした問いかけは、輪廻転生の前には全く無意味である。この兄妹は無残の手により鬼とされ多くの人の命を奪った。それ故に地獄へ行く。しかし世の中には自らの手を汚すことなく女やこうした少年たちを酷使し利益を得ているものもたくさんいる。そうした人々は、例えばこの漫画に登場する遣り手婆や遊郭の主人たちは――皆、ひとしく鬼の被害者として描かれているが――どうなんだろう。少年が丸焦げにされた妹の亡骸を抱えながら「俺たちから取り立てるな。俺たちはまだ何も受け取っていない」と叫ぶのは、要するにもうこれ以上搾取するな、ということだろう。どこかに搾取している奴がいるわけだろ?それはこの世に何の欲も持たない鬼舞辻無残ではありえない。どうすんの、それ?大きな物語に向かうしかなかったはずなのだが、大きな物語にしないならそこで終わりにすればよかったのに、輪廻転生である。悪いのは鬼になってしまった彼らだ。辛くてもただ黙って生き続けるべきだった。しかしその少年が黙って生き続け、そのまま唯諾々と言われるままに死んでいったとして、いったいどのような人間に生まれ変わるのだろう。再び同じような人生を繰り返すのだろうか。

学生の頃、同じゼミに親の代から某宗教学会員だという男がいた。彼とは水俣病の話をしたことがある。善行を積めば生まれ変わったとき幸せな人生が待っているのだそうである。では何か、水俣病で苦しんでいる人たちっては、前世でそれほどの悪行を重ねてきた、ということなのか?と、意地悪なことを言ってみたが、彼の答えは「然り」であった。おいらも意地悪だったと思わないわけではないが、ニ度と口を利きたくない、と思ったね。

おいらは思うのだが、こうした物語があること自体は問題ではない。多分これまでも、おいらが知らないだけでいくらでもあったのだろう。ただこれが映画になるほどの人気を博す、となると、これまでなかったことのような気がする。『火の鳥』も、確かに輪廻転生の物語ではあったが、それは生身の人間同士の物語から繰り出されるドラマだった。ナメクジ人間など、しばしばわけのわからない生き物が出てくるが、それは人間社会のカリカチャーとしてだった。この物語は違う。一見すると正義と悪の戦い、勧善懲悪物語のように見えるのだが、実際には善も悪もありゃしない。目的も目標もありはしない。
 手塚治虫は、鉄腕アトムのテレビアニメ作成が間に合わなくなった時のことをこう嘆いた。「テレビは漫画雑誌のようにはいかない。ストーリーを考えている時間なんかない。その結果、アトムはただ勧善懲悪を盾に、力任せに悪役ロボットをやっつけるだけの怪物になってしまった。もう僕の子供じゃない。」子供向けの漫画で薄っぺらい勧善懲悪ほどしらけるものはないが、しかしこの漫画はどうだろう。手塚治虫を嘆かせた最低限の薄っぺらい勧善懲悪さえない、それでいて正義と悪が戦い、そして正義は命を落としても転生し、悪は地獄に落ちるといった物語である。善悪の基準は、無残によって鬼にされたかされなかったか、ただそれだけ。
 おいらにはこの物語がそんな人気があるということが受け入れられない。何か世の中の思想傾向が大きく変わった、それを象徴的に表す現象なんではないのか、そんな気がして不安、もっというと、怖いのである。大阪維新(日本維新)の会が人気を博しているのと(物語の内容的には別の政党のような気もするが)通底する思想的な流れを感じてしまうのだ。

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1 コメント

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Unknown (匿名)
2023-08-11 17:52:25
鬼滅の刃という漫画は悲惨な境遇に生まれ搾取されていた人間が罪を犯し地獄に落ちてしまう、というのを肯定的には書いてないと思いますし読んでる方もそれを肯定的に捉えてるのは多数派ではないと思います
罪を犯した人間に例え悲惨な境遇であったとしても許されない、というのは確か不条理な側面がありますが現実にもある訳です、輪廻転生はその比喩に過ぎないのではないでしょうか?
確かに大きな物語に接続せずに小さな物語のまま完結しているという部分もありますが、現実に社会経済に原因を持つ問題が起こっても、それが大きな物語に接続しないまま終わってしまうことがあるのを作者自身が経験していたゆえの表現の可能性もあるのではないでしょうか?
私はこの漫画は世の中の不条理さに対して、欺瞞的隠蔽をせずに表現したかった作品なのではないかと思います
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