ワニなつノート

相模原の子どもへの冷酷


相模原の子どもへの冷酷




千葉県の「子どもへの冷酷」を書きながら、もう一つの「冷酷」を思う。

8月10日、教育委員会で《2学期からふつう学級に行くからよろしくね》と話しながら、その前日の集会を思い出していた。

「千葉では30年余り、支援学級からの「転籍」も、養護学校からの「転校」も実現してきた。本人保護者の希望が通らなかったことは一度もないですよ」

ーーーそう話しながら、すずまさ君のことを思い出していた。


「30年前、差別解消法も学校教育法施行規則の改正もなく、医療的ケア児という言葉もなかったけど、本人保護者の希望がかなわなかったことはない。まして、今の時代に」

ーーーそう話しながら、すずまさ君のことを考えていた。


そこでは言わなかったけど、「今の時代」にも、小学校に通わせてもらえない子どもは、現実にいる。

        □


8月9日。横浜。
すずまさ君の「転校」を応援する集会があった。

講演は、私が20代のころ、おっかけをしていた北村小夜さん。
あのころ何十回と聞いた大好きな話を、95歳の小夜さんから聞く。20代のころと同じように、なぜか涙がこぼれる。

いまこの時代にも、小学校に行けない子どもが目の前にいる現実。ただ、地域の小学校に通いたいという子どもの願いに、耳を傾けない教育委員会がある。


      □


すず君は、初めから「拒否」されていた訳ではない。
入学を前提に、一年間、ふつう学級での「交流」を重ねた「実績」がある。

だから一年生の終りには、支援学校での「お別れ会」があった。
そう、2年生で転校するからこその、「お別れ会」だった。


なのに、教育委員会は一方的に約束を破った。


すず君が、「お別れ」した支援学校には通わず、地域の小学校に登校するのは当たり前のこと。


      □


でも、「籍」がないから、朝、同級生たちにあいさつして、校門を出る。
学校の隣の公園から、学校の中の子どもたちのにぎわいを眺める。

そして、他に誰も帰る姿のない通学路を、一人で帰る子どもがいる。


40年前の康治と同じ子どもに、60歳を過ぎて出会うとは思わなかった。

集会には律子さんの姿もあった。康治がいなくなって22年目の夏。「このままじゃ死ねない」という律子さんの言葉は、私の何億倍も切実だろう。
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