ワニなつノート

ふつう学級で暮らすということ




「できないこと」が、「できるようになる」かどうか。
それは、誰にも分からないことです。
「これくらい、がんばれば、きっとできるはず」と周りが思っても、
本当はどうか誰も分かりません。

まして、本人ががんばりたいことが何か
、必死で努力できることはどんなことか。
それも、すべて本人が決め、選び取ることだから、
本人以外はわかりません。

いま、できないことや、がんばりたくないことでも、
いつか何かの折に、挑戦したいと思うことや
がんばってみようと思うこともあります。

あのとき、もっとがんばればよかったと、
後悔することもあるでしょう。

それは誰の人生にも当然起きることです。
人生とはそういうものであり、
人生の途中にはいろんなことがあるのだから、
何が起きても「順調」と思える仲間が側にいてくれると安心できます。

どんなにできないことがあっても、失敗しても、
そのことを非難されることなく、
本人が「自分で」「やりたい」と思いがんばることも、
「休みたい」「ちょっと逃げたい」と感じて休むことも、
本人が試行錯誤しながら通る道は、すべて順調なのです。

もともと、「障害がある」ということは、
障害のない人たちだけで都合よく作り上げられた今の社会では
「苦労する」ということを意味しているにすぎません。

ところが、学校の先生や、専門家と呼ばれる人たちは、
その「障害」を生きたことがないので、
かんじんの障害を持って生きる「ふつうの苦労の仕方」を
教えることができないのです。

学校の先生たちに教えられるのは、
「定型発達」の中での経験と決まりごとに過ぎません。

その上、「苦労の仕方」以上に難しい
「障害の克服」を教育しようというのは、
とてもおこがましいことだと私には思えます。

定型発達の人に都合よく作られた社会の中で、
障害をもつふつうの子どもが、一番に理解しなければならないのは、
ありのままの自分がここにいてもいいという安心と自信なのです。

それを言葉で伝えるのではなく、
いつもいっしょにいることで伝えなければなりません。

それは「言葉のハンディ」があるからではなく、
相手が「子ども」だからです。

ただ、ここで出会い、子どの同士のことばを交わし、
同じ空間を共有すること。
それ自体が、かけがえのない一度きりの子ども時代を、
自分の中に、そしてみんなの中に、作り出す共同作業の場なのです。

楽しいことや、うれしいことだけじゃなく、
トラブルやもめごと、せめぎあいがそこにはあります。

みんなで一緒に困ること、
いっしょに苦労することも、
「大切な共通体験」になります。

「あなたはひとりじゃない」
そのことを、「言葉」ではなく、
「意味」として感じる世界がそこにはあるからです。

その共通体験を通して、
子どもは社会からの「受けとめられ体験」を手に入れるのだと思います。
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