ワニなつノート

その子のふつうが育つ



「その子のふつう」が育つこと  
その子らしく育つこと 
その子らしさが育つこと




昨日は「ワニのなつやすみ」の印刷と発送作業だった。

とも君が思いがけず高校に合格し、予定にない号外的な発行をすることにした。
この驚きは十分に号外発行に値する(>_<)


発送作業には、高校生のなっちとゆーきも来てくれた。
そういえば、なっちもゆーきも全日制高校に当たり前に通っている。
私たちにとっては当たり前の日常だから驚かないでいるけれど、ほんとうはすごいことなのだと思う。

どれくらいすごいことか。

このブログを始めて11年目になる。
だから、古いブログには、小学生のころのなっちやゆーきの「武勇伝」がいくつか書かれている。

なかでも有名なのは、ゆーきの「おむすびころりん」だろう。

※ 読んだことのない人はこちら→
http://sun.ap.teacup.com/waninatu/158.html
http://sun.ap.teacup.com/waninatu/159.html


小学校入学式での武勇伝から、いまの姿を想像することは難しい。

小学校5年生までは介助員がついていたが、あまりにひどい「監視員」だったため、ていねいにお断りした。教育委員会もそのひどさを認め、「監視員」を外した。

それまでも、ふつう学級で、ふつうに成長している姿は感じていた。
ところが、監視員が外れてからの成長は、より「ふつう」になった。

まず、話し言葉が変わった。
「僕」が「オレ」に代わり、それまでは誰に対しても敬語(丁寧語)だったのが、ふつうに男の子言葉で話せるようになった。

そして中学生になる時には、「高校生になるにはどうしたらいいですか?」と母親に聞いた。

誰がこの変化と成長を予測できただろう。

センモンカじゃないのは明らかだ。
センモンカは特別支援教育を勧めたのだから。

教室の隣の席に、大人が一人つくだけで、子どもの言葉は変わる。

まして通級で教室を離れたら、どれほどの距離と壁がそこに生まれるか、専門家は見ようとしない。


偉そうに書いている私も、これほどの変化はまったく予想できなかった。
もう少し違うタイプの「いま」を思い描いていた。
たぶん、私の予想が一番外れた子かもしれない。

それに比べると、なっちは順調に、私の思い描くなっちの成長を歩んでいる。
高校生になっても、なっちの武勇伝は続いた。

といっても、来週には高校を卒業すると思うと、改めて驚く。



いま、私が思っているのは、「ふつう学級での9年間、12年間」とは、何より「その子のふつう」が育つということだ。

「その子のふつう」の「ふつうの成長」が、「みんなのふつう」のなかにあるということ。

うまく言えないな。

いわゆる「障害」といわれる「特徴」があることは、恥ずかしいことやいけないことじゃないのはもちろんだが、遅れがあること、こだわりがあること、変化が苦手なこと、そうした姿を「子ども時代の名残のように」残しながらも、同年代の子どもたちの成長と同じように、その子の9年分、12年分の成長の形がある。

それは、「その子のふつうが育つ」としか言えない。

もちろん、みんなと同じ「ふつう」も育つのだが、わたしに見えるのは、「その子のふつうが育った姿」だ。

その子自身の子ども時代がみんなのなかで喜んでいる景色がある。

そのなかで、その子自身のふつうの姿。ありのままの姿が、「成人」しつつある。花開きつつある。

そうおもう。


ヒデやこうちゃんはとっくに三十を過ぎたおっさんになった。

そのおっさんたちの姿にも、私には「その子のふつう」がみえるし、「ふつうのおっさん」がみえる。

この感じは、「ことば」になっているだろうか?


昨日、なっちは私の隣で、住所の帯封を手伝ってくれた。

「どうするの?」「わからない」「あ、そうか」と、私のじゃまをしながら、手伝ってくれた。

ゆーきは、なっちのことを、「なっち先輩」と呼ぶ。

「彼女はできたの?」と聞くと、「まだです」と答えてくれた。

「まだです」。いい答えだ。通級では教えてくれない言葉だ。



ふつう学級とは、その子の、ふつうが育つところ。

特別支援教育は、分けるところもダメだけど、それと同時に、その子の「ふつうの成長」を「特別」にすることで、じゃましているのだと思う。

「特別」な先生が、「特別」に教えることで、「特別」は育つのかもしれないけれど、ただ「ふつう」が育つ時間と機会と仲間がいない。それが残念なところだ。


ふつう学級とは、その子の、ふつうの時間が、あるところ。

その子の、ふつうの子ども時代が、あるところ。

その子の、ふつうの成長の栄養が、あるところ。

その子のふつうが育つとは、周りの人との手続き記憶が豊かになるということ。

その子のふつうは、ふつうに表現され、ふつうに子どもたちと交流することで、豊かになる。

ふつう学級とは、ただそれだけのこと。


障害のある子どもたちは、障害を大事に持ったまま、障害のある身体と体と、いっしょに育ちあい認め合ったお互いの姿のまま、成長し、大人になって、自分自身の人生を生きている。


今日の午後、梅の花の咲きはじめた公園の近くで、こうちゃんを見かけた。

一人で公園に来たのかと思ったが、しばらくして集団で歩いてくる人たちがみえた。

ああ、作業所の人たちといっしょに散歩に来たのか、と思った。

そして、はじめに感じた、「ひとりで散歩にきた空気」を思い出し、それが「ふつう学級」での「ふつうの成長」の空気なんだなと、ひとりで納得していた。
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