ワニなつノート

ふつう学級と援助ホーム(Ⅱ)



ふつう学級と援助ホーム(Ⅱ)


《自分に何が起きたのかを納得しながら生きること》



普通学級か養護学校かの問いに、隠されてきたものがある。
「選択」、「自己決定」とすり替えられてきたものがある。


「自分に何が起きたのかを納得しながら生きることができるようになる」ための力をおくりたい。

そう考えたとき、長い間、隠されてきたものが見えてくる。

ふつう学級であれ、どこであれ、その子の「主体感覚」を大事にできるか。
その子自身の「自己調整能力」の学びを尊重できるか。


長く生きてきたおかげで、そしてつながり続けてきたおかげで、ようやく私にも、やっちやゆうき、なっち、こうちゃん、ゆうきくんが試行錯誤しながら学んできた「自己調整力」を学んできた道が見える―――。

どの子も、「自分に何が起きたのかを納得しながら生きることができるようになる。」ために、自分自身の生き方を通してきた。


学校では、「落ち着きがない」「協調性がない」「自己中心的」「わがまま」「多動」等と評価する行動は、「自己調整能力」の学びだった。

やはり「問題行動」は、「適応行動」であり、「自己調整能力」の学びそのものだったのだ。


だから、目に見える「障害」や「できなさ」に目を奪われて、「本筋」を忘れてはいけない。

本筋とは、「自分に何が起きたのかを納得しながら生きることができるようになる」ための力をつけること。それが、ふつう学級であれ、どこであれ、たどり着く答えは、同じだ。



自分に何が起きたのかを納得しながら生きること。

何をいつ学び始めるか。

たとえば、「漢字」や「地図」、「雲」や「詩」に興味を持ち、学びたいと思い始める時季がある。

学びたいという動機が、何歳で訪れるか。

学びたいという興味が、何歳で訪れるか。

学びたいという時季は、みんな6歳で「決められた順番で」スタートしなければいけない訳じゃない。


でも、学びへの興味は違っても、同年代の子どもたちと、同じ未来を生きて行くことは間違いない。

同じ未来を共有し、同じ社会に生きる仲間なのだから、子どものときから共に生きることはかけがえのないものだ。


たとえ、学びへの意欲、興味が、「他の子たち」より「遅れ」ていても、
成長が、発達が、「他の子たちより」遅れていても、
だからといって「同じ未来の仲間」の共有感覚まで、奪ってはいけない。


それは、後で学びなおすことが最も難しいことだから。

学びはいくつからでも始められるが、子ども時代は一度しかない。


「学び」の意思や興味以前に、この時代、この星に生まれてきたのは、「選択」でも「自己決定」でもない。

だから、子ども時代を共に居合うことの有りか無しかを、子どもに「選択」させてはいけない。

それは「選択」ではない。

子どもたちの生きる未来も、社会も、星も、同じなのだから。


「自分に何が起きたのかを納得しながら生きることができるようになる」ために、同世代の子どもたちと、同じ時間をかけて、同じ未来を作り上げていくことが、お互いに必要なのだ。
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