日常性の喪失(その2)
[a] 「日常性」の喪失
[b] 「ふつうの暮らし」を失うこと。
この二つを、改めて考えておきたい。
◇
まず「日常性」とは何か。
日常性は、誰にも、どこにでもある。
人が毎日の生活を繰り返している場所や人の関係のあるところ。
多くの人にとっては、自分の家でのくらしが日常生活といえる。
でも、遠洋漁業で1航海が1年2年という人にとっては、海の上が日常だ。
また入院が長期になれば、病院にも日常はうまれる。
養護施設や障害児施設で暮らしている子どもにも、もちろん日常はある。
家がなくても、両親がいなくても、子どもの日常はつづく。
だけど例えば、養護施設の日常で暮らす子どもが、ふと疑問に思うことがある。
「いつか、わたしも『ふつうの暮らし』ができるかな?」
そこでイメージされる「ふつうの暮らし」とは何だろう?
お父さんとお母さんと兄妹、家族と一緒に「家」で暮らすこと。
家族が、「家」から学校や仕事にでかけること。
これは、わたしもすぐに思いつく。
私が8歳のときに感じた「日常性の喪失」は、これだ。
両親や妹といっしょに家で暮らし、地域の小学校の普通学級に通うこと。
それが、私の「ふつうの暮らし」だった。
だから、私にとって、普通学級から分けられることは「日常性の喪失」であり、「ふつうの暮らし」を失うことだった。
☆
ここで、一つの考えが浮かぶ。
もしも私が、初めから特殊学級や養護学校の寄宿舎にいたら、私は普通学級の「日常」を知らなかったことになる。
その場合、「日常性の喪失」はない、のだろうか。
「ふつうの暮らし」を失うという実感はないだろうか。
それなら、それで、その「特殊な場所」を、日常と感じていけばいいのだろうか。
「特殊な場所」や「個別で勉強すること」を、「ふつうの暮らし」と学んでいけばいいのだろうか。
特殊教育や特別支援教育は、文部科学省も教育委員会も、様々な専門家や学校の先生も、障害児の幸福のために一生懸命やっていること、と多くの人が思っている。
でも、それは、本当かな。
同世代の子どもといっしょに学び、遊び、暮らし、そこで膨大な量の観察学習をすること。
同世代の仲間たちの間で、日常で起こる膨大な量の「出来事」を体験すること。
その都度、膨大な量の感情の交感を味わいながら暮らす日常。
そうした子どもたちの日常を豊かにする役割は、能力や障害の話とは関係なく、親や教師、大人が、子どもにとって、その日常がかけがえのない大切なものと感じているかどうかにかかっている。
その体験を超えて、「分けて教育」する意味が、ここでも私は分からない。
子どもが、子ども時代に体験するだけで、手に入れることのできる「その子の感覚」「その子の日常」を奪っておいて、12年後に学校を出た途端、この社会の「日常」に「参加」することは難しい。
障害のある子にとっても、障害のない子にとっても、お互いの日常を、お互いに知らないで、「共に」やっていくのは、難しい。
…話がどんどんそれていくので、(つづく)。
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