和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大槌稲荷神社。

2011-07-14 | 地域
潮八月号に畑村洋太郎氏の対談が掲載されておりました。
なんでも、最後にこうあります。
「本対談は、畑村氏が福島第一原発【事故調査・検証委員会】委員長就任前に行われたものです」。
こと地震津波に関しては、貴重な言葉が拾えるのでした。
ということで、畑村氏の言葉を丁寧に引用してみたいと思います。

「じつは15年ほど前から津波についての調査研究を三陸海岸の地域でやっていましたから、その被災地がどうなっているか非常に気になっていました。」

「15年前の調査のときに、鈴木亨(とおる)さんという大槌町の消防団の人と知り合っていました。ご承知のとおり、今回の津波で大槌町は甚大な被害を受けた。その鈴木さんと連絡がついたので、現地に行って話をうかがうことができました。
まずわかったことは、地震と同時に停電したために、緊急放送のスピーカーもサイレンも使えなくなったということでした。それで、消防団の人が物置から取り出してきた古い半鐘(はんしょう)を火の見櫓の上で叩いて、住民に津波が来ることを知らせた。新聞でも報道されていましたが、その半鐘を叩いた越田冨士夫さんという方は亡くなっています。実際に行ってみたら、消防団の屯所も火の見櫓も、跡形もなくなっていました。」

「話を聞くと、『車から出て逃げろ』と叫んでも出ようとしなかった人がたくさんいた。どうしても車の中にいると安心だという心理が働いてしまうのでしょう。もっと驚いたのは、消防団の人たちが『津波が来るから逃げろ』と言っても逃げない人がいたことです。・・・一概にどの町で何人が犠牲になったといっても、どういう場面で人がどういう判断をし、どんな行動を取ったのかということまで把握していかないと、本当の意味で防災とか減災には役立たないと思います。」

「・・・今回の津波は、想定を越えた津波によって備えが役に立たなかったという単純な話ではなく、詳細に見ていくと、やはり防潮堤があったこと、子供への教育や連絡網があったことなどが被害を軽減した側面は大いにあるのです。とりわけ消防団のような社会の預託を受けた人々のアクティビティが果たした役割は大きかった。そういうものがなければ、もっと甚大な被害を生んでいただろうと想像します。何が機能して、何が機能しなかったのか。それらの理由は何か。そういうことをきちんと検証していかなければなりません。」

「大槌町の人々が避難していた大槌稲荷神社に行ってみましたが、みんなで協力して炊事場も風呂場もトイレも造っていた。皆で村祭りをやってしまうような共同体のパワーなのです。いわば、日頃から共同体として働く訓練ができている。自衛隊と同じです。ああいう災害時には、政府の動きも大事だけど、現場の共同体の力があるかないかが非常に大きな差になると思います。」

話はかわりますが、7月16日は私の地区では神輿の渡御(とぎょ)があるのでした。
今日は神社の庭なぎで朝から旗竿を立てて、夜は神輿の歌と踊りの練習があります。うん。飲みます(笑)。

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