和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『流言蜚語』の境目

2024-05-10 | 安房
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)をひらくと、
流言蜚語に関する具体例が語られているのでした。
そこには、こんな箇所がありました。

「流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上って
 口から口に伝わるものだが、関東大震災での
 朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。

 このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、
 大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果
 としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で
 朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。

 大地震が発生直後、各町村では、消防組、在郷軍人会、青年団等が
 火災防止、盗難防止をはじめ罹災民の救援事業につとめた。

 被害を受けぬ地域では、炊出しをおこない応急の救護所を設けて
 避難してくる人々を温かく迎え入れた。
 その中心となって働いたのが各町村の団体であったが、
 朝鮮人に関する流言がひろまった頃から、その性格は一変した。」(p178)


ここに引用したところの、最後の4行が印象深い。
『 ・・・流言がひろまった頃から、その性格は一変した。 』とあります。

あらためて、『安房震災誌』にもどると、関東大震災当日に
安房郡長は、山間部へと急使を立てそれが夜になって伝わるのでした。

「平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
 総動員を行ひ、2日未明、郡役所所在地に向け応援したことに始まり、
 遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・」(p283)

このあとに、思わぬ事態がおこります。

「9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
 聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。・・・・・

 又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。
 安房郡は館山湾をひかへてゐるので、震災直後東京の
 鮮人騒ぎが、汽船の往来によって伝はって来た。
 果然人心穏やかならぬ情勢である。・・・・

 丁度滞在中であった大審院検事落合芳蔵氏も
 鮮人問題に少からず心を痛め、東京から館山湾に入港した
 某水雷艇を訪ひ、船長に鮮人問題の事を聞いて見ると、
 同艦長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであった。

 そしてそれを郡長に物語った。物語ったばかりではない、
 人心安定の為めに自分の名を以て艇長の談を発表しても
 差支なしとのことであった。

 之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意味を記載して、
 北條、館山、那古、船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。

 而かも落合氏の言ふ如く大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであった。
 此の掲示は初めは大に効果があったのであるが、
 東京の騒擾が実際大きかったので、
 後ちに東京から来る船舶が、東京騒擾の事実を伝へるので
 最早疑を容るるの余地がなかった。

 そこで、一且掲げた掲示を撤去しやうかとの議もあった。
 然し、郡長は艦長の談として事実である。
 それを掲示したとて偽りではない。
 而かも、之れが為めに幾分なりとも、
 人心安定の効果がある以上、之れを取去るは宜しからずと主張して、
 遂に其の儘にしておいた。

 兎角するうちに郡衙を去ること遠き旧長狭地方に
 鮮人防衛の夜警を始めた土地があった。

 為めに青年団が震災応援の業に事欠かんとする虞れがあった。
 加之ならず、人心に大なる不安を与へることを看取した。

 其處で田内北條署長と共に、
『 此際鮮人を恐るるは房州人の恥辱である。
  鮮人襲来など決してあるべき筈でない 』
 といった意味の掲示を要所要所に出した。

 加之ならず、
『 若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、
  宜しく十分の保護を加へらるべきである 』
 とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。

 要するに、斯うした苦心は
 刹那の情勢が雲散すると共に、
 形跡を留めざることであるが、
 一朝騒擾を惹起したらんには、
 地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。

 郡長が細心の用意は実に此處にあったのである。

 蓋し安房に忌まはしき『鮮人事件』の一つも起らなかったのは、
 此の用意のあった為めであらう。  」(p222~223)


ここに
『 要するに、斯うした苦心は
  刹那の情勢が雲散すると共に、
  形跡を留めざることであるが・・・ 』

という言葉がありました。思い浮かんだのは、
岸田衿子の詩の2行でした。最後にそこを引用。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

            ( 岸田衿子の詩「古い絵」より )
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