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慶長出羽合戦8

2024-05-04 02:08:14 |  戦国群雄伝

義光の説明は多少(?)誇張がはいっているが、おおむね間違いではない。



さらに史料を読んでみよう。
「また、26日にも敵陣との中間で戦闘があり、勝利を得ました。これは小規模な戦闘で、面々のものどものみを討ち取りました。そうしましたところ、上杉方が不利な状況になった様子を見て、上杉方に心ならずもしたがっていた川西の百姓(住民)がこちらの味方にもどり、庄内の人数が(後方である)川西方面(畑谷・梁沢)の守備をしていたのですが、百姓が敵を200人、300人と討ち取り、28日、29日、30日までは夜も休むことなく、首級をもってきました。そのため(上方の情勢とは関係なく)上杉勢は10月1日には撤退を開始しましたので、追撃をおこない、大勝利を得ました。馬上のものは400騎余りを討ち取り、それ以下のものは数も分からないほどです。また、谷地というところに庄内3郡の代官である下吉忠というものが1500ほどの人数で籠城していました。この城を攻撃したところ、下は『どうか庄内を最上義光さまのものとなさってください』と言って降参してきましたので、わたくしの配下としました。庄内は座して手に入ることでしょう。このたび討ち取った上杉方の人数は都合3000余りになります」
 
【史料】10月8日付秋田実季宛最上義光書状(横手343) 
又廿六日於中途合戦仕候処ニ、是又得勝利候、少之合戦ニも面々者共許討取候事候、左候へ者、敵陣迷惑なる様躰を見届候而、川西之者共又こなたへかハり返し、庄内之人数を川西へ籠置候処ニ、右之百性等方之二百人、三百人ツヽ討取候而参候事候、廿八日、九日、晦日迄者夜も 少之間も無隙、川西より験共を持参候事候、左候へは敵陣十月朔日ニ敗北仕候間、押懸候而手痛合戦をいたし、馬上許を四百騎余討取候、夫兵共之事者不知其数を候、又谷地と申候所へ庄内之物主ニて候しもと申候者籠居候、是をもうち捨罷逃候間、即ニ谷地ニ追被籠候へ者、彼人数千五百ほとニ而候を、これ又手痛被責候而及降参候、其題目者何とそ仕候而、庄内を取候而くれ候ハんと申候へ共、彼者共不及申ニ候、庄内之義は坐入手裏候間、是又題目ニ無之由申候へ共、色々泣侘候間、先以ふかく不相責、何をも引出、当方ニ然と伺候なさせ候、会津之者共討候事都合三千余ニ候、
 
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慶長出羽合戦7

2024-05-04 01:14:06 |  戦国群雄伝

直江兼続ひきいる上杉勢は10月1日の戦闘で敗北。さらにいったんは服属していた川西(畑谷・梁沢周辺)で農民反乱がおこったため、荒砥まで人数を退かせた。



おなじ時期、庄内方面では10月1日に堀・村上勢が尾浦への攻撃を開始していた。兼続はこの方面への対応もしなければならなくなったのであるが、どうしたのだろうか。


さらに史料を読んでみよう。10月8日、関ヶ原における東軍勝利の情報を得た最上義光は、自身の与力である秋田実季に作戦の指示をあたえた。その書状のなかで、義光は長谷堂合戦の経緯を以下のように説明した。

「道が通れなかったため、六郷を経由して書状を受け取りました。有り難うございます。おっしゃるとおり、上杉勢が攻め込んできて、領内のあちこちが荒らされた状態です。なぜならば、境目を守る諸城は(豊臣政権の命令によって)近年破却しておりましたところへ、とつぜん攻め込まれましたので、諸城はみな攻め落とされてしまったのです。川西(畑谷・梁沢周辺)のものたちは、その主人は山形につめておりましたが、下々の百姓(住民)だけがいるところへ攻め込まれたため、皆々は心ならずも敵陣に加わっておりました。上杉勢は9月12日に畑谷へ進出し、13日に攻め落としたため、そのいきおいで川西全域は上杉勢に制圧されてしまいました。15日には長谷堂へ攻め込んできましたが、長谷堂からも、山形からも迎え撃ち、長谷堂前面での戦いで上杉方のおもだったものを数十騎討ち取りました。そのようにして、味方はいきおいを取り戻しました。16日には長谷堂を包囲されてしまいましたが、こちらも陣をすすめましたところ、上杉勢はすこしひるんだ様子となりました。19日には上杉勢が中山方面から500騎ほどの人数で上山へ攻め込んできましたが、そのときは上山にはこちらから一人も人数を送っていなかったにもかかわらず、上山のものたちだけで、敵300騎を討ち取るはたらきをしました。また、そのような状況であったところへ、伊達政宗からの援軍が到着し、こちらのものたちは下々にいたるまで、いよいよいきおいを得ることとなりました」

【史料】10月8日付秋田実季宛最上義光書状(横手343) より抜粋
通路不自由之処、六郷へ被相伝、預御懇書候、忝義ニ候、如仰之会津より被相動方々取乱候躰ニ候、其故者境目之城々、近年破却之間、俄ニ被相動候故、諸城皆々被責落候つる、然処ニ川西之者共其主々ハ此方ニ相詰候故、下々之百性共之居申候所へ被乗懸候故、不心ニ皆々敵陣へ罷出候つる、然処九月十一日ニはたや表へ罷出、十三日ニはたや被責落候故、其勢を以川西皆々落申候事ニ候、然処ニ十五日ニはせ堂へ乗懸候処ニ、はせ堂よりも罷出、又山形よりも乗合候間、中途一戦をいたし候処ニ会津之宗と之者共数十騎討取候、左候へは軍之色も能罷成候、雖然、十六日ニ者長谷堂へ進陣仕候、左候へ共此方よりも押詰取陣候間、会津之者共も少ひるミたる躰ニ候つる、又十九日ニ中山より上山へ動を申候処ニ、其砌は上山へハ人数一人も不籠置候処、地之者許ニ而、五百騎ニて動候所へ押懸、敵三百余騎討取候、又左様ニ候処ニ、政宗より人数を被立越候間、此方弥下々之者共迄も得力を候事候、
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