ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

不夜城新宿~その1(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町

 眠らない街、新宿をご紹介いたします。
靖国通り沿いの歌舞伎町一番街のネオン。私が子供の頃は、TVで歌舞伎町の悪の巣窟をルポする番組をやっていましたが、今現在歌舞伎町は、家出中学生が街娼をさせられていたり、ドリンク一杯で目から飛び出るようなな値段を吹っかけられたりするような事はないらしいです。でも親子そろって歩ける健全な街になったかというと、そんな事はなく、歌舞伎町の不健全さは東洋一、眠らぬ不夜城として、この街は人々の悪徳と欲望を吸い込んだり吐き出したりしています。

 最近は、演歌や東宝ミュージカルの興行を行っていた新宿コマ劇場や、広場を囲むように立っていた映画館も消え、文化的にも少々勢いを欠いた歌舞伎町です。この土地が歌舞伎座が無いのに歌舞伎町という名前になったのは戦後の復興に当たって、地域の有力者が歌舞伎の専用劇場のある銀座のように文化的な街にしようと提唱した都市構想から由来しています。しかし、その計画は実現せず、当時大衆娯楽を担っていたレビュー劇団(コマダンサーズ)の専用シアターとして作られた新宿コマ劇場や、映画館の建物がコの字型に取り囲む噴水広場などが出来ましたが、その周辺は、パチンコ屋、風俗店、非合法の青線地帯、連れ込み旅館が幾重にも取り囲む大歓楽街です。
     

 ホテル街に近い昭和の香り漂うキャバレー。
 

 明朗会計~円ポッキリ、という宣伝文句が流行った時代の産物。入り口には様々な団体や同業者お断り!の張り紙が・・・。色電球を無数に取り付けたネオンの入り口が貴重。
   

 古めかしいジュース屋さん。窓の柵の色彩にご注目。
  

 レトロなネオン看板のバッティングセンター。消えかけた看板は長島選手がモデル?
  

 歩き疲れたら、日本庭園を思わせるラブホテル「山○」へ。
 

 石臼を飛び石として利用した茶の湯の庭さながらの装飾。
  

 花園神社の裏手側は、「ゴールデン街」。戦後の焼け跡に出来た非合法の青線地帯でしたが、当時のバラック建築の如何わしさはそのままに人々の憩いの飲み屋街として今も繁盛しています。
  

   

 かつては都電もゴールデン街の傍を走っていました。ストリップ小屋まで隣接する昭和のカオス。
   

 通りの中やお店は撮影許可が必要で、時折ドラマのロケなどでも使われているようです。一切開発されていない、数少ない魔窟の跡としていつまでも残っていて欲しいと思います。


 ゴールデン街の東に位置する「花園神社」は新宿の総鎮守です。参拝客が絶えず、秋の酉の市には大きな熊手が売られ大変な賑わいです。なんでも話によると、水商売のお店は、こちらを購入しないと痛い目に会うとか会わないとかという話を聞いたことがあるのですがさて、真偽のほどはいかばかり?この花園神社、社殿は新しいのですが、お稲荷さんに江戸時代から続く庶民の信仰のスタイルを見て取れます。
  

 性器を模ったご神体が鳥居の頭上に収められています。お稲荷様は豊穣の神様であると同時に、狐が穴を出入りする事から性交を意味します。祠の後ろにも性器を模った石(陰陽石)があります。文明開化と同時に明治政府によって廃止されたのが、性器そのものを御神体として崇める信仰スタイルで、首都圏だと川崎に残るのみですが、花園神社にもこうしてひっそりと迫害を逃れて残っているのです。
  

 花園という名前は、この場所に武家屋敷があり、花が咲き乱れていたから・・・と言いますが、花園という地名がある場所には必ずと言って良いほど、花街が存在します。新宿の花街の起源は宿場にいた女郎達です。新宿は古くは広大な内藤家の武家屋敷(現在の新宿御苑)があった事から内藤新宿と呼ばれ、江戸四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿)のうちの一つでした。有事の際に将軍が江戸城から甲州へと逃げるために作られた軍事道路の甲州街道と、江戸城築城の為に奥多摩の石灰を大量に必要としたため作られた青梅街道の起点が、新宿追分で交わる交通の要所で、荷を積んだ馬車が行き交い、馬糞がそこかしこに落ちていた荒っぽい宿場町でした。江戸時代、宿場町にはだいたい宿場女郎が一軒に一人は居て、旅人のお給仕と共に性的なサービスも行っていました。そんな彼女達は幕府公認の吉原の遊女達と分けるために、飯盛り女郎と呼ばれてしました。もともと非公認なので、宿屋が複数の女郎を抱えたり、女郎が吉原の花魁のように派手に着飾ったり・・・その都度、取り締まりが行われたようです。安く遊べる宿場女郎の繁栄は、吉原の存亡の危機・・・天下の吉原と宿場とのいたちごっこが繰り広げられていたのです。
 もともと江戸の町が整備され始めた時に、西の宿場町は、新宿ではなく、下高井戸にありました。ところが、新宿の地に宿場町を作ろうという嘆願が出されるのですが、便宜上というよりは、宿場女郎を包括する宿場町の運営を目論む業者が出した物でした。女郎ありきの宿場構想だったのです。
 その宿場町は、江戸城寄りの四谷大木戸から、今現在の新宿3丁目まで一キロ程、東西に伸びていましたが、宿場町が姿を消すと、今度は遊郭としての機能だけ残り、終戦後は新宿二丁目にある赤線地帯へ整備され、売春禁止法案が発令されるまではカフェー(特殊飲食店)の居並ぶ花街となりました。まだ10数年前まで、赤線跡の二丁目の仲通りには、お稲荷さんがあったり、的を矢で射る的場があったり、花街の名残を示す古風な建物が沢山残っていました。現在も花園通りという通りには柳並木などもありますが、現在はゲイバーがひしめくいささか地味な歓楽街です。(~その2へ続く

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