ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

消えた新宿の景勝地(新宿区)

2015年05月25日 | 芸者町・三業地跡
 江戸時代、新宿中央公園の西(西新宿四丁目)を通る十二社通りは、もともと大小の湧き水による池がある「十二社池」という景勝地でした。随所に滝があり、涼を求める人々が乗り込んだ屋形船を、十二社池の一つの弁天池に浮かべた周辺には、茶屋が並び、三味線の音が絶えず聞こえ、浮世を忘れさせる光景であったと思われます。
 池のあった場所は、十二社通りの周辺で、1934年に十二社通りが出来て池は縮小し、水質の悪化などが原因で、1968年完全に埋め立てられました。現在都庁を中心とした高層ビル街の西新宿一丁目に、かつてあった淀橋浄水場が廃止されたのが1960~1965年ですから、60年代が一つの時代の終焉であると思われます。
 
  

 現在、西新宿は再開発で、どこもかしこも高層ビルだらけですが、池を望んでいた東側には今在も熊野神社があり、西側の高台のあたりには今も三業地(芸者置屋、料理屋、待合)の名残が僅かにあって、唯一落ち着きを感じさせる場所となっています。
  
 
 また以前は、「十二社天然温泉」というマンションの地下にある昭和カラーな温泉施設がありましたが、2009年に閉館。創業された当時は、堂々たる4階建ての遊興施設で、漆塗りの中国式様式の内装、各階に100畳敷の大宴会場があったというから驚きです。しかしそんな竜宮城のような芸者館は一切消え失せました。

 温泉施設も現在は貸しロッカーに。池の畔にあったのか、イチョウの大木が残っています。
 

唯一近年まで営業していた料亭、「一松」の風情はどうでしょう。

   

 赤線風の沢山ドアのある建物。電信柱には三業の文字。木造モルタル造りの貸座敷は殆ど民家と見分けがつきません。

  

 コンクリートの坂道に佇む連れ込み旅館「一直」。以前は待合で、柵の部分の意匠など凝っています。

  
  



 コンクリートの狭い階段。花崗岩の石畳ではありませんが、それなりの時代を感じさせます。
 

 花街のお稲荷さんや、周辺の居酒屋。
   

 品川亭は三業地時代からの料理店。まだまだ使えそうな待合の跡もあります。
  

 大谷石と砂利の洗出しの塀がモダンな家屋。
 

 都内には、四谷荒木町や、溜池山王のようにかつて池であった場所が沢山あります。高台から、中央公園、都庁を望むこの光景から十二社池を連想する人がどれだけ居るでしょうか?

鶯の鳴く隠れ里(台東区・根岸)

2012年01月24日 | 芸者町・三業地跡
 今回はJR山手線の駅周辺『鶯谷』をご紹介いたします。もともと鶯谷という地名はなく、根岸の里(鶯谷駅北東側の根岸1~5丁目)と呼ばれていたこの界隈の由緒を調べると、駅の南側の高台には歴代将軍の墓所を構え、江戸時代には城北で唯一の武家屋敷街となり、明治には正岡子規をはじめとした文人墨客の住いや料亭があり、北に灌漑用水の音無川が流れる、風光明媚な場所だった・・・と書いてありました。 
 隣駅は高台から富士山を望める遊行の土地として賑わった日暮里ですから、鶯谷も由緒だけ聞けば、鶯の鳴き声が聞こえてきそうな風情ですが、現在は山の手線の各駅の中でもおそらくダントツの大場末です。関東大震災は免れたものの、広大な加賀の前田邸は戦争で焼け、駅前近辺で街娼がうろつく、連れ込み宿やラブホテルの街へと転じていきました。(山手線では連れ込み旅館やコリアンタウンのある大久保も以前は高級住宅街だった経歴があります。)根岸一丁目~二丁目の駅前周辺はホテルだらけ。巨大なホテル同士が立ち並び、日中でも夜のような通路に、昼間から外国人の娼婦が流しをやっています。
  

 外壁の擬似木が大胆なデザインの温泉旅館のようなホテル。
  

 山の手線から見える「元三島神社」は、一階に食堂や飲み屋が入り、かつて旅館だった入り口の跡のある妖しい通りを過ぎればお参りできます。
   
 
 バーが一階に入っている神社の佇まい。しかも鳥居の前で堂々と街娼がお商売しています。
   
 
 そして一騒動。外国人街娼が玉垣周辺にたむろしてると思ったら、新参者の街娼を囲んで、野太い声であたりはばからず大喧嘩。
「チョーとあんた!あたしらは¥○X△でショーバイしてるのよ!なのに、あんたイクラ!」
「¥□△@よ!」
「ンマーそんなネダンでヤリクサッテ!このバショにはこのバショのルールがあるのよ!」
「そんなのアタシのジユウでしょ!」
「ジユウが聞いてアキレルよ!さっさと出て行くかルールを守るかドッチかにしなさいよ!」
「ワカータワヨ!その値段でヤルワヨ!」

 若い新参者も素直に納得したようで、映画「肉体の門」を見ているような街娼同士の小競り合いのケリはついたようでしたが、彼女たちの存在そのものが違法なのでは?捕まらないのは、いろいろな法的な抜け道でもあるのでしょうか?
きっと街娼という生活様式を守り伝える無形文化財なのよ。

 昔ながらの連れ込み旅館の残る通りは、のんびり散歩できます。
 

 志ほ原という名前に時代を感じます。
 

 ホテル街の端っこのほうに、戦火で消失した正岡子規の屋敷を再現した『子規庵』や『書道博物館』の通りがあります。大名屋敷の敷地が後の文人達の住いとなったようです。
 

 北側には石神井公園の池を水源として吉原の前を通り隅田川に注ぐ音無川が流れていたようですが、現在は大部分が暗渠となって若干の風情を嗅ぎ取るのさえ難しい雰囲気です。この近所の民家はそこそこ立派な門構えだったりするので、屋敷町だった雰囲気はあります。また一軒の豆腐料理屋は黒塀で、かつてのこの界隈の歴史と風格を残していました。夜ともなればけばけばしいネオン街に豹変する町は、もともと大名屋敷で、日本庭園や能楽堂まであっただなんて誰が想像できるでしょうか?
  

 根岸4丁目にあったのは根岸三業地(料理屋・待合・置屋の三業)です。現在は芸者さんは居ませんが、『柳通り』という花街特有の柳が街路樹の通りがあって、小料理屋や老舗の染物屋がありました。通り沿いのスナックの名前に「花」「藤」などがあるのも花街の雰囲気です。
 

待合の建物は京都のお茶屋に相当しますが、狭い路地の奥に並ぶ待合の建物。座敷の欄干がまるで寺社か御殿のようです。殆どの待合は昔の外観のまま建て替えも無い事から、かろうじて最近まで何らかの形で営業していたであろう様子が伺えました。
 
 塀や屋根の形など非日常的な感じです。
 

 

  

 また待合から割烹料理屋に鞍替えしたお店もひっそり営業中でした。
 

 入谷と根岸の境にある金杉通りは、旧街道があった場所で、戦前の商店の光景を目にすることができます。蔵作り、出桁作り、看板建築なんでもありで、楽しませてくれます。
 

 
 
 金杉通りから一本奥の根岸3丁目にある鶯通りは旧遊郭だったあたりでしょうか。3丁目は寺町で朝顔市で賑わう入谷鬼子母神や、江戸名所として見物客を集めた西蔵院の「御行の松」(現在枯死)が近隣に在った事から、人通りに事欠かない土地にできた遊郭だったのかもしれません。左手の看板建築と寄り添っているユニークな煎餅屋が目を引きます。
 

 戦後は同じ台東区の吉原や玉ノ井ように、戦前の遊郭街を母体として引き継いだ赤線地帯にはならず、通常の町になったようですが、所沢、川越、船橋、八王子、と郊外に行けば見ることができる戦前の旧遊郭の雰囲気が都内で見られるのはおそらくここだけだと思います。小さな通りに斜めに設えた入り口の産婦人科があったりする様子にドキっとさせられます。
 

 古いネオン管の看板にかろうじて残る旅館の文字。 

犬屋敷と薬師芸者(中野区)

2011年07月26日 | 芸者町・三業地跡
 JR中野駅から降り立って、北口から出ると、中野区役所があり、その隣の中野区役所には犬の銅像があります。
  
ここは江戸時代、天下の悪法と言われる徳川綱吉の『生類哀れみの令』の犬屋敷のあった場所とか。その広さは30万坪、飼われていた犬の数は8万とも10万とも・・・綱吉が無くなったのを機に、犬屋敷は無くなり、あとに行楽の為に植えられた桃園が出来ますが、それも今は枯れてしまい、南口の公共施設やアパートなどに桃園という名前がついていてかつての名ごりを見ることができます。では人間よりもその命の価値が高いと言われていたお犬様達の迷える魂の名残はどこにあるかというと・・・。
 
 区役所の隣、中野駅前の中野サンプラザが犬の頭になっています。

 
ワン!
怖!
夏向きじゃない。
 
 怖いついでに北口の中野ブロードウエィ脇の仲見世商店街のワールド会館をまた撮影しました。
  

 廃墟でもないのにこの廃墟っぷり。 
  

 周辺の背徳感も健在。このデジタルの時代に新規でアナログ電波を入り口から出しまくっているお店も増えて益々魅力的な景観です。
   

 さらに北へ進むと早稲田通りがあり、新井薬師梅照院への参道となる薬師あいロード商店街の入り口があります。新井薬師は、空襲で全焼しましたが、戦後建てられた趣のある木造の本堂で、かつてはとても広い境内を持つお寺でした。二代目将軍の子の眼病を治したと言われる事から、眼病治癒の薬師様として広く親しまれ、そこで商店街の名前もあいロードというわけです。

 新井薬師アイロードとほぼ平行に伸び、薬師薬師の山門へと向かう「薬師柳通り」。こちらは新井薬師の参拝客の行楽地として薬師芸者が接待した三業地のメインストリートの跡です。

 戦前最盛期、芸者さんの数は500人。(80年代に最後の料亭がなくなったそうです。)芸者さんとお遊びをする待合(お茶屋)さんの建物がチラホラ柳通りを挟んで奥まった場所に建っていましたが、殆どの待合が廃業していて民家と区別がつかなくなっています。通常、三業地が廃れると広い座敷を持つ待合はラブホテルか料亭へと鞍替えをします。こちらの場合は民家へとシフトしたようですが、中には待合とは思えないような不思議な建物もあります。現在、裏通りにスナックなども多いことから遊郭および青線のお店があったのでは、と花街に詳しいブログなどに指摘がありました。いずれにせよ、いかにも参道の近くに発展した花街として純和風の作りの建物が多く、どの建物もとても大切に使われて新築同様です。

 扇子の意匠の扉が印象的な豪邸。
 
 
 今は踊りのお師匠さんのお宅となっているのでしょうか?アパートになってしまった建物の入り口に灯篭、井戸、すり鉢などがあってかつては純和風の建物であった事を伺わせます。
   

 立派な門と、粋な遊びのある郵便受け。
 

日本庭園が無い代わりに、塀に玉砂利を巡らしたお宅。緑色の外壁がとてもキッチュ。山の庵のような二階のあるお宅。
  

 メインストリートの奥のさらに奥、突然開ける小道や飲み屋の看板の不思議さと言ったら・・・。

 
 ひっそりとした通り、まさに里・・・。
  

 民家なのに、玄関に粋な小料理屋のような建具や丸窓のあるお宅が周辺に数々あります。
 

 産婦人科の裏側に、二階は日本家屋、一階は洋風の入り口にしてある建物がありました。一瞬洋風のカフェーの店舗(遊郭)かと思いましたが、だいたい昔の歯科医や美容院はカフェーっぽく見えるつくりをしています。
   

 表の柳通りにはとてもユニークな建物があります。スペイン瓦のひさしがとてもいい感じです。あいロードの商店街エリアには古いお茶の専門店がありました。
 

 柳通り沿いのモソモソした一角はかつての花も色も奪っていくような佇まい・・・。
 
 今にも崩れそうな長屋や店舗が集積して、今もテナント募集の張り紙。売れ筋を気取る年増の娼婦のようなずうずうしさ・・・。でも無くなるとこれまた寂しい。
  
 表通りから小道へ入った所、銭湯の周囲にも賑わいの跡や、粋な建具を新築の家に残したお宅がチラホラあります。
 

 銭湯は既に廃業しましたが、その名も花園湯。兵どもが夢の跡・・・。

柳橋から両国へ(両国・柳橋・墨田区)

2011年02月08日 | 芸者町・三業地跡
 ここの所、内部の腐敗が叫ばれている大相撲、もう呆れるばかりなのですが、はたして大相撲の国技としての資格を剥奪してしまえという議論に関してはどうかと思うのです。田舎出身者としては、相撲取りが浴衣で電車に乗っていたり、髷を結った幕下力士が自転車に乗ってプラプラしてるのを見ると都会ならではの光景だな~と思ってしまうわけです。同じく大激震真っ最中の歌舞伎界、絶滅寸前の花柳界、そしてこの相撲界・・・江戸の華を形作り、時代の移り変わりと共に時に即し、時にそのスタイルを頑なに変えずに、今も息づく時代の後継者達の運命は彼ら当事者だけのものではありません。彼らの衣食住を支えるスタッフさん、職人さん、興行主の人たち、そして劇場、競技場、御茶屋さんの周囲に立つ飲食店やそこに出入りするお客様達全てが共有する価値観、すなわち「伝統文化」というものが、たとえどんなに大きな問題を抱えていようとも、ある日突然途絶えてしまうような事があってはならないと思うのです。
   
 JRの浅草橋駅から降りて、隅田川と神田川が合流する地点の柳橋を眺めてから隅田川にかかる橋を眺めつつ柳橋へ行きました。雛人形の大手メーカーのある浅草橋のすぐ傍にある柳橋界隈は以前は都内でも屈指の高級芸者街(置屋、待合、料理屋の提携する三業地)でしたが、現在は芸者さんの置屋は姿を消し、お座敷を貸す待合も殆どが廃業し、人通りの少ないさびしい場所です。
 
 待合に料理を出していた料理屋は小料理屋や割烹料亭に転業しています。この柳橋には、芸者歌手として数々のヒットを飛ばした浅草芸者の市丸が、芸者を引退してから川沿いに家を構えた場所で、今はギャラリーになっているようです。あえて浅草の地でなく、高級芸者町の柳橋へ移った所に「心意気」があったのかもしれません。 
 
 また川岸では現在も営業している屋形船の乗り場があります。現在では船などめったに乗りませんが、江戸時代の江戸は川や堀が多く、水運が発達していたのに加えて、夏などは舟遊びに興じる市民で溢れかえっていたようです。有名な芸者の小唄「梅は咲いたか」の歌詞の中には♪柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第 舟から上がって土手八町 吉原へご案内~とありますが、柳橋や蔵前あたりから吉原へ船で向かう当時の交通経路が伺えます。
 
 白黒写真はかつての柳橋の光景。橋の袂に立派な少なくとも3階建て以上の木造建築が黒いシルエットで見て取れます。こちらは江戸時代から続く「亀清楼」で、現在は横綱評議会などが行われる老舗料亭のビルに姿を変えました。

  
 石塚稲荷の玉垣には左右に柳橋芸伎組合と柳橋料亭組合の文字が刻まれています。


 隅田川の橋を徒歩で渡り、両国で以前から気になっていた割烹吉葉に行きました。漆喰と瓦の概観がまるで劇場のような店舗です。故横綱吉葉山の宮城野部屋を改装したので、本物の土俵が今も店舗の中央にあります。築年数は半世紀も経っていないのですが、総檜造りという吹き抜け空間が素晴らしく、両国駅の隣にある近代建築の旧駅舎を改装した居酒屋と共に、両国の名物となるでしょう。
 
 火曜日、木曜日はアコーディオン奏者が浴衣を着て見事な演奏を披露してくれます。♪春のうららの隅田川~を始め、様々な音楽が聞けます。

四谷界隈(新宿区)

2010年06月26日 | 芸者町・三業地跡
もう今は無い地名ですが、鮫ヶ橋谷町と呼ばれていた場所に行ってきました。明治時代、下谷万年町、芝新網街、鮫河橋は明治時代、帝都三大スラムと言われていたらしく、現在はその痕跡すらないとの事でしたが、興味を掻き立てられて、新宿区荒木町と、新宿区左門町の散歩がてら、その近隣にあった鮫ヶ橋へもお散歩です。
  

 丸の内線四谷三丁目駅から徒歩数分、芸者街の三業地(見番・待合・料理屋が提携する三業)というシステムを持った街として栄えた「荒木町」にある石畳が大好きです。同じ新宿区神楽坂も石畳が有名ですが、ここ荒木町はすり鉢状の地形で、細い路地が螺旋状に下へ下へ潜って行く珍しい地形です。そこに石畳が部分的に残っています。かつて芸者さんが通った時に聞こえた下駄の音が聞こえてきそうです。
 荒木町は防衛庁が北側にありますし、日本TVが建っていた頃などは、新橋、赤坂、神楽坂などの高級な芸者街と違って気取らない気風と、隠れ家風の雰囲気が受けてそこそこの賑わいだったらしいのですが、時代の変化と共に置屋の見番も芸者さんも廃業し、貸し座敷を行っていた待合が料理を出す料亭に鞍替えした店舗や、小料理屋などがひしめくレトロな雰囲気を残した飲み屋街に変貌してしまいました。しかしすり鉢状の地形の一番下部の石畳沿いにはいまは営業をやめてしまった待合の建物がまだ空き家として、沢山残っています。入り口など、いまにも芸者さんが門をくぐっていきそうな味わいのある佇まいです。
 
 とくに地形の一番の底にあたる部分、枯れそうな池がある津の守弁財天のあたりの静けさは、哀感たっぷり。

 昔は、水しぶきを上げる滝の名所で、荒木町が芸者街になる以前は、水位が高く、舟遊びができる広大な池まであったと言います。もともと最初は津の守屋敷という江戸城の守りとして配備された武家屋敷の敷地にある池でしたが、都市が整備されて、湧き水が少なくなり水位が下がって行ったようです。
 唯一、荒木町の昔の姿をとどめる流しの三味線引きの方が現役で、今も着流し姿でネオンに浮かぶ石畳を歩いています。その存在は貴重です。

 次は新宿通りを跨いで、左門町にある「於岩稲荷田宮神社」へお参りに。歌舞伎戯曲の傑作、東海道四谷怪談の舞台となった場所です。お岩様がうらめしや~と出てきて祟る怪談話はあくまでも戯曲上の事で、実際はお岩様は、傾きかけた田宮家のお家再興のために屋敷神のお稲荷様で祈り続け、ついにお家再興へ導いたと言われる武家の妻の鏡でした。そんなお岩様にあやかろうと、江戸市民で賑わった場所で、細い道を挟んで、田宮家の屋敷内にあったと言われるお稲荷様と、お岩様自体を霊神としてあがめるお寺が向かいあっています。なぜに二箇所かというと、お岩稲荷が火事で焼けた際に、それでも参拝客が絶えないことから、一時的に参拝場所として向かいのお寺が場所を開放したことから、現在も霊神としてお岩様を奉っているということ。一応お寺なので仏式の祭壇があります。また周囲は様々なお寺が多く、なぜかひんやりとする風が吹き抜けていくような不思議な場所です。

 そして左門町の東隣の須賀町にある「須賀神社」へもお参り。北側は土地が低くなった崖で、崖下に広がるお寺や家屋を望めると、とてもいい眺めです。

 須賀神社の社殿は新しいのですが、須賀神社が建つ石垣は古く、城壁のようで、北側に広がる寺町の眺めには情緒があって、まるで浮世絵の世界です。

 須賀神社から、南へ赤坂御用地迎賓館の方向へ歩を進めると、明治~大正時代に、「鮫河橋谷町」と呼ばれていたスラム街の跡地になります。荒木町と同じく、周囲から落ち窪んだ場所ですが、鮫河橋の由来となった川も橋も埋め立てられました。赤坂御用地に近い南側の部分は、中央線を架設するにあたって、政府によって大規模な強制退去も行われて、現在は大きな公園となっています。また関東大震災にも見舞われているので、当時のスラム街をしのぶ物はいっさい無いと言っていいでしょう。地名も今現在は別の名前に変えられています。
  

 唯一形跡として感じられたのは、中央線を境とした、北側の地域です。舗装されていない私道の狭い道路が建物同士の間をぬっています。飲み屋のお勝手口のような暗い通路もあれば、綺麗に掃き清められた石畳もあります。


 明治時代、帝都が整備されていくなかで、都市に働き口を求めた人々が流れ込み、この地域に大スラムが形成され始めたようです。南側の赤坂御用地、迎賓館があった場所は、当時陸軍士官学校の敷地でしたので、人々は軍隊が出す廃棄物のおこぼれで生活していたわけです。しかしスラムと言えど、住んでいたのは勤労者が殆どで、男は車夫、女は内職といった具合に生活の糧はありました。鮫ヶ橋以外のスラムの地域では、日常生活に必要な道具作り、屑拾い、街娼、男娼、芸人など業種は様々。スラムがどんなに不衛生で貧しくても、人々はしっかり地面に根をおろして生活していたと思われます。

 迎賓館の隣の敷地の現在公園となっている部分の片隅に鮫河橋の由来の碑が立っていました。新宿で見る景色はどこか悲しいのは何故でしょう?