ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

タイルが誘う夢の街(墨田区)

2011年05月11日 | 赤線・青線のある町
墨田区にスカイツリーが建設中で、なにかと取りざたされることが多くなった墨田区界隈ですが、レトロな街「鳩の街」と「玉の井」についてご紹介します。
  
 
 都心から隅田川を隔てて東側にある、向島芸者街(三業地)の隣街にあった通称「鳩の街」。東武線の東向島駅(旧玉の井駅)近くにあった「玉の井」と並ぶ「カフェー街」(赤線地帯)でした。建設中の大きなスタイツリーが望める東武線曳船駅から、徒歩で行くには骨の折れる鳩の街ですが、カフェー街が栄えていた頃は都電が通っていて、浅草からもアクセスが便利な土地だったと言います。
 鳩の街は、終戦後から、売春防止条例(1958年)が施行されるまでの短い間、空襲で焼け出された近隣の玉の井遊郭から流れて来た業者によって開かれたカフェー街として栄えていた場所です。鳩の街商店街から小道に入り、路地のそのまた路地の奥・・・といった場所に、ごくごく小さな通りがあります。 
 
 昔から遊郭、新地と呼ばれていた場所は戦後、「カフェー街」と呼び名が変わりました。カフェーは、飲食を供するカッフェーではなく、女給さんによる性的な接待を主としたために、銘酒屋や特殊飲食店とも呼ばれ、警察の管理下に置かれ、決められた敷地内で、店舗も一目でそれと分かるような外観にするように指導されていたそうです。
 大正時代から昭和初期にかけては、小さな商店までがこぞって、人々の目を引く、趣向を凝らしたモルタル作りの看板建築や銅板張りの看板建築で往来を賑やかに飾っていた時代がありました。この世を忘れさせる遊郭の流れを汲むカフェーなら、なおさら派手な外観にネオン看板を掲げて、えも言われぬ世界を演出していた事でしょう。
 鳩の街も玉の井も、戦後の復興の最中、業者が民家を買い上げて一階部分だけをサロン風に改装したにわかこしらえなので、大規模な赤線地帯の州崎遊郭や吉原遊郭のように凝った店舗はありません。ただ、豆タイル装飾の技が優れていて、鳩の街に数軒、玉の井には路地が行き止まりになった民家の影に隠れて一軒、パステル調の可憐な色合いに配色されたタイルの装飾の建物があり、とても印象的でした。
     
 法律も物事の価値観も今とは大きく違う当時、闇夜にネオン管に点されて、建物を蛇のウロコのように包み、色味を艶かしく変えていたタイル装飾は、今は何も語りません。
 


 円柱を囲む青いタイルの所々にピンク色のタイルがさし色で入っています。のぞき窓は和風で全体的に和洋折衷です。
 
 一階部分だけの装飾ですが、市松模様に若草色と桃色が踊る青いスペイン瓦の日よけがついた建物。
 
 ラブホなどは入り口が宇宙船みたいな所が多いですが、このお宅もSF風。
  

   
トタンもタイルもカーキ色で統一されてて、とってもシックです。

 和洋折衷のお宅はとても不思議な外観。そしてさらに謎だったのはオフリミット(立ち入り禁止)の文字。
 
 調べてみると進駐軍(GHQ)が終戦後、出入りしていた名残でオフリミットと壁に書かれていたのです。戦後業者と国家が組織的に、遊郭に進駐軍の遊興場として出入りを推し進めたために、戦前からの生業としていた遊女や新たに民間人の女性が大勢、新聞広告で募集されました。江戸時代からあった吉原のような巨大遊郭街や、戦後新しくできた新興の鳩の街のようなカフェー街、またダンスホール形式の大規模なキャバレーが、新たに小岩や、アメリカ軍の空軍基地が置かれた立川、将校住宅のあった三鷹等で、国家の支援の下、業者によって営業されていたという事です。しかし戦後一年足らずで1946年、マッカーサーによって公娼廃止令が出ると、入口に「オフリミット」が掲げられた多くの遊郭街は、日本人相手の合法的な赤線地帯として整備されました。ダンスホール形式のキャバレーは日本人のニーズにあわないので、解体されました。しかしたまったものではないのが解雇された女給達です。立川で解雇された大勢の元ホステス達は、パンパンガールとして米兵相手の街娼になり、連れ込み旅館にしけこんだり、赤線の傍に形成される事の多い、非合法の青線地帯(私娼街)に組み込まれていく他ありませんでした。
 
 「玉の井」は、関東大震災以降に、浅草観音堂界隈から流れて来た遊郭の業者が築いた非合法の私娼街でした。しかし、戦後に晴れて合法の赤線地帯となった場所です。戦前の玉の井は小説家永井荷風の「濹東綺譚」でドブ川沿いのうらびれた娼館の様子が詳細に描かれたために、悲しい私娼窟の代名詞として知れ渡る事になりました。大正時代から戦中大空襲を受けるまでは、表通りにあたる、商店街の「いろは通り」を挟んだ東側に広がっていた私娼街でしたが、空襲で全焼した以後は、通りの西側に焼け残っていた民家を業者が買い上げて、外装をカフェー調にして、赤線の町を築いたということです。
 
 かつて湿地帯だった場所に無秩序に建てられた家屋の名残で、そこは大の大人一人しか通れないような小さな道が曲がりくねって形成されたラビリントと化しました。通りの入口には「この道抜けられます」と書かれた看板が立てられて、秘密の入り口を指し示していたと言うことです。戦前、戦後といろは通りを挟んで営業していた場所は推移しましたが、くねくねと折れ曲がる道筋が独特の雰囲気を醸し出す場所です。
 現在は、玉の井という地名は無く、カフェー調の建物も数軒スナックに転業していたりしますが、建物の殆どが民家に転用され、通り抜け道だった場所も垣根や覆いで塞がれ、女給さんが入り口に立ち、おいでおいでと手招きした猥雑な雰囲気はなくなりつつあります。
  

 
 緑色のタイルがまぶしいお宅。外壁の赤と緑のコントラストが奇抜なお宅。

  

 
 角に当たる部分を高く塔のように盛り上げて目立たせた、和洋折衷の建物。二階部分のバルコニーは洋風、一階部分は和風な旅館風の作り、いびつな中にも風格があります。
  
 細い路地にある洋風の円柱のある建築。瓦や外壁がコバルト色で美しいお宅。大きく窓を取って中を覗きやすくするのもカフェー調の建物の特徴です。

 
 縞柄の外壁が不思議なスナック。古い洋風の電柱はかつてそこが色町や花街であったことを示しています。

  
 殆どの建物の外壁はペンキで一緒くたに塗りつぶされていますが、当時はもっと派手な色合いだったのかもしれません。

   
 ここでは銭湯もカフェー風。ひさしにはスペイン瓦、上部に鏝絵で波が描かれていました。

 
 ちょっとカフェー風な作りの教会と、タイル貼りの櫓があるいろは通りの玩具屋。

 
 角がカーブを描いて、入り口を開放的に取った洋館のようですが、木造の民家です。日が落ちると、窓枠にまで菊の花の意匠を施しているお宅を見つけました。

戦後派な街(池袋・豊島区)

2011年05月10日 | 赤線・青線のある町
 現在山の手線沿線上では、新宿、渋谷につぐ大繁華街の池袋ですが、その発展の歴史は最も新しく、大正~昭和頃と言われています。1885年にようやく鉄道が開通されますが、駅は無く、赤羽、田端のほうがいち早く貨物用の駅として整備され、1903年にようやく新宿~田端間に池袋駅が出来たということです。それまでは田畑が広がるだけの池袋はかつて、巣鴨村と呼ばれ、中山道の板橋宿の手前の休憩所を擁し、巣鴨地蔵尊のある信仰の場所として大いに賑わった巣鴨界隈と違って、辺ぴな場所であったようです。江戸時代には旅人をねらった辻斬りが横行し、歴史に残る未解決事件の供養塔として建てられた四面塔尊のお堂が今も駅東口の小さな公園にあります。
 しかし転機は訪れます。埼玉方面のターミナル駅として当初目白が起点となるはずでしたが、目白は学習院のある閑静な高台の場所、近所住民の反対運動に合い、池袋が今見るように西武線、東武線を初めとした西の玄関口となってから、急速に発展する事になったのです。今はもうありませんが戦前は思想犯を収容し、戦後はA級戦犯を裁いた巣鴨プリズンと言われた東京拘置所(現在サンシャインシティ)があった事も昔話。サインシャインシティの水の流れる憩いの場に、戦争の歴史を物語る慰霊碑があるのを知っている人は少ないのではないでしょうか。

  
 池袋の東側、東池袋にグリーン大通りという緑のまぶしい通りがありますが、ここは市電が以前走っていて、その両隣の周辺一体は、大きな雑木林で、「根津山」と言われる丘がありました。今は削り取られて、跡形もありませんが、根津山の林の境界にあたる部分が以前ご紹介したアップダウン著しく、古い家屋が立ち並ぶ「日之出町」なのではないかと思います。根津山は戦時中、大きな防空壕があり、大空襲の際、多くの死傷者を仮埋葬した場所でもあります。現在、本立寺などお寺が集積する場所に、単純に空き地として解放されている池袋南公園があり、そこが仮埋葬の墓地であると言われ、建物が今現在も建てられない所以となっているようです。


 グリーン大通り沿いに昔ながらの薬局の建物が残ってます。

 グリーン大通り、北側の東池袋一丁目は人々でごったがえす大繁華街です。しかし、大きな通りの奥には闇市の跡がまだあります。戦後の焼け野原、駅の周辺など突如現れたのは廃材など建てられたバラックの店舗が軒を連ねる闇市で、政府の侘しい配給品では飢え死にすると、闇で流通していた米や焼き鳥などを初めとする食品やアメリカ軍の横流しの物資が公然と売られていました。武蔵野市吉祥寺のハモニカ横丁、現在は駅周辺が整備されていますが荻窪の荻窪銀座商店街などは、闇市が商店街へとゆるやかな時間をかけてシフトしていったために、かつての世相などを知る手がかりになると思います。池袋の闇市のあとを示す通りは、「美久仁横丁」、「栄町」、「人生横丁」、「ひかり町」という小さな折れ曲がった路地でしたが、現在人生横丁、ひかり町は惜しくも更地となり、再開発のためビルが建設中です。
  
 この横丁・・・飲み屋が主ですが、ラブホテルも周辺に多数あるので一見すると違法に客とやり取りする青線地帯のような場所です。池袋は新宿、板橋のように、赤線地帯(宿場町に併設された色町として、売春防止条例が出来るまで長く政府に容認されていた公娼がいた遊郭町)がありません。しかし駅のどの出口もビジネスホテルやファッションホテル街が連なる地域が数多くあり、街中が歓楽街と言ってもいいでしょう。

   
「栄町」はL字に折れ曲がって見晴らしの利かない不思議な通りです。

    
 飲めば天国?それともお酒に溺れる地獄?

   
 美久仁小路は、その小粋な当て字の名称や、少し折れ曲がった通りの様子などからあれこれ想像を掻き立てられます。そして従業員しか通らない真っ暗な裏小路まで、「通り抜けられます」と書いてありますが、これは墨田区の玉の井遊郭の「この先抜けられます。」をもじっているのでしょうか。
 

通りの中央にあたる店舗がなくなった為に、かつてはジメジメして真っ暗な通りが現在は見晴らしが利くようになってしまいました。 
   

 新婚姉妹や和・・・美人姉妹の店なんていうと聞こえがいいですが、ママはもう相当なお年の筈。しかし3階建で小料理屋のような丸窓が粋です。3階建ての木造建築が他にも何軒かありましたが、隠し部屋がありそうで興味深いものがあります。
  

   

 今もこの通りには根強いファンがいると言うことです。
  

 黄色い外壁が昭和な雰囲気をかもし出す池袋区役所の近くはボロボロのビルが多いのですが、少しずつ壊されていく建物が増えてきました。画像のお弁当屋さんは今はもうありません。
   

 区役所通りの北側、明治通りと山の手線を挟んだ細長い土地は、大きな再開発もなく古びた場所です。わずかなお店がかろうじて営業している寂しい場所です。
     

そこは昭和の大迷宮(新仲見世商店街・中野区)

2011年05月04日 | 飲み屋街
 本当に、どこもかしこも新開発新開発で、あれよあれよといううちに似たり寄ったりのタイル張りのマンションやガラス張りのテナントビルばかりになりつつある都心です。しかし昭和の香りをピタリと封じ込めたまま濃密なカオスを放ち続ける中野区に関しては、それは当てはまりません。昭和60~70年代に行われた大きな駅前開発から、トンと平成の洗練された町並作りとはご縁が無いようで、近未来的デザインがかえって古色蒼然となってしまった中野サンプラザや、中野サンモール商店街、そしてその奥に中野ブロードウェイが、口を開けて中野駅に降り立った人々を、昭和の世界に誘います。
 ・・・主婦は電話機にカラフルな水玉色の電話カバーをかけて
 ・・・昭和のウエイトレスはカレースプーンを水の入ったコップに入れて運び
 ・・・家具調テレビを見ないときはレースの覆いを画面にかぶせ
 ・・・ブルジョアの子はピアノのお稽古
 ・・・新幹線にフルコースを食べれる食堂車があって
 ・・・木曜日になるとUFO特集番組が子供たちを震え上がらせ
 ・・・ケシゴムを忘れた子はウルトラ大怪獣のケシゴムでテストに挑む
あったらいいなは殆ど無くて、無くていいものだらけ、人情やお節介がまだ市井に残っていて、旅行に行けばみんなが熊の木彫りやこけし人形を買い求めて、町中に配り歩いてた、毎日が完成できないパズルのようで、それ故に明るい未来を鼓舞していた昭和の世界に誘うのです。
 中野は街全体が異彩を放っています。まず中野駅前北口の中野五丁目に、中野サンモールとそれに続くマンションを有する巨大なテナントビルの中野ブロードウェイ、その東側の裏路地は櫛の歯のように、一番街、二番街、三番街・・・と裏路地が形成されています。

 中野サンモール商店街の時計店の装飾。
  
 裏路地は多くの店が定食屋、居酒屋などの飲食店ですが、部分的に風俗店と混合になってるようです。
 
 電信柱の新年飾りがとても似合う鰻屋の一角。
  
 そのひとつひとつのお店を見て歩くと方向感覚が失われるような眩暈のような雑多さを見せる裏路地の通りなのですが、とりわけ「新仲見世商店街」はその奇異な様子から多くのブログなどで紹介されています。

 平行に並ぶ路地裏の中、少し中庭のように開けた場所に、バラックのスナックが立ち並び、今は既に無い香港の九龍城もかくやと思わせるような不定形な佇まいに、誰もが声を上げます。

 ポスター貼りまくりでパリなんて文字まで浮かび佐伯祐三の絵みたいになってる扉。スナックユンケルにもご注目。
 
ワールド会館は群を抜いて奇抜な建物です。飲み屋ビルなのですが、ウルトラセブンの目のようなダイヤ形の階段を囲む外壁の装飾など、作られた当初はかなり豪華で斬新なビルだったのでしょう。
 
 こちらは路地のさらに北側、中野ブロードウェイのマンションビルの隣の再開発地域で、かつてあった飲み屋街を壊している最中です。建て壊しになった空き地を覆う白い幌布の向こう、ポツンと廃屋のような店舗で営業を続けている店もありました。

 まだ何かを語りかけてくるようでもあり・・・。
  
おでんとお酒を研究中。

 
 中野駅から北へ、古めかしい新井薬師あいロード商店街を抜けると、眼病に効果ありとされ、徳川家の加護を受け、江戸時代から信仰を集めた「新井薬師」(梅照院)があり、ちょっとした江戸情緒溢れるスポットとなっています。
 
 新井薬師の参道でしょう、薬師柳通りという商店街もありますが、そこの柳並木は芸者街があった名残で、もう営業をやめた裏の小道に花園湯という銭湯もあるので、その意味深な名前からして、芸者街と共に遊郭街も形成されていたようです。
 
 旅行や観光という概念が無い時代から、様々なご利益を詠うお寺や神社は人々の非日常への好奇心を満たす別天地で、それに付随する土産物屋や芸者街もその賑わいの恩恵を受けていました。俗な娯楽と尊い信仰、一見相反するものが一元化した所に大きな富が生まれるスタイルは今も同じです。逆に崇拝や信仰心の欠けている娯楽は、一過性のものでその生命は短いとも言えます。
 
 新井薬師は「西の浅草寺、東の新井薬師」なんて言われていた時代もあるそうで・・・。今でこそ新井薬師は小さな境内ですが、裏に大きな児童公園や北野神社があり、それが当時は全てお寺の土地であったと考えるととても大きな規模であったようです。