ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

お喋りは禁物!日光東照宮(栃木県)

2011年07月30日 | 寺社仏閣
 悪い事は、見ざる言わざる聞かざる・・・それがどんなに真実でも口に出す事がはばかられる様なお話をご紹介いたします。
  
 栃木は『日光東照宮』に行ってきました。東洋のバロック建築とも言われる荘厳華麗な世界遺産です。日光東照宮は、宮ですので、入り口に鳥居が建っていますが、境内には五重塔があり、泣き竜がある本地堂の薬師如来のご本尊の前には鏡があったりと、神社でもなければお寺でもない神仏習合の建物です。墓所(寺)であると同時に、家康の死後、神格化された仏を天照大権現として奉る神殿(宮)は、明治以降の神仏分離令により、東照宮は母体の日光山輪王寺と分けられたということです。しかしこの東照宮という建物は日光だけでなく、各地にあると皆様ご存知でしたか・・・?始めは港区の芝公園に東照宮がポツンとあるのが不思議でしょうがなくて、各地の東照宮巡りをしているうちに分かったのですが、江戸時代の寺院同士の利権争いのため、沢山作られる事になったようです。東照宮があるとなれば将軍様直々の参拝の為に街道筋のや宿場街が整備され、東照宮を管轄する寺院の格が桁違いに上がります。今のように市民がおいそれと参拝する事ができない代わりに、幕府や大名から寄進される金品と、将軍家の神々(仏)を奉る場所としての威信が、寺社とその周辺域を大いに潤したのです。
 全てではありませんが、関東に散在する東照宮についておおまかな説明をいたします。

 久能山東照宮(家康の駿河に眠りたいとする遺言により、今の静岡駿河に作られた東照宮である。のちに久能山から栃木の日光へと家康の遺骸は移される事になるが、指揮したのは徳川幕府成立以前から家康側近の僧侶であった南光坊天海。天海は家康の晩年、日光山最高権威の貫主に納まり、家康死後も三代将軍家光の代まで、政治に大いに関わり、方位学と陰陽道で江戸城を守護する都市計画を推し進めたと言われる人物である。)

 日光東照宮(南光坊天海が駿河から移した家康の墓所を栃木の日光輪王寺に作る。当初慎ましい規模の東照宮であったが、三代将軍家光が自らの菩提寺を日光東照宮の隣、輪王寺大猷院に定め建立すると同時に、初期の東照宮を改築、細部まで極彩色の装飾で埋め尽くした現在の姿にする。)
   
 
 世良田東照宮 (家光が改築する以前の日光東照宮の社殿を群馬県大田市世良田に移築。その際、莫大な軍資金の徳川埋蔵金も大田に収めたと言う噂もある。)

 芝東照宮 (江戸城の裏鬼門、申の方角にあたる芝増上寺にあった二代目将軍秀忠および代々将軍の仏を奉る墓所。将軍の墓所ごとに門を頂く荘厳な建築物群は大戦で消失し、遺骸は改めて掘り起こされ、荼毘に付し増上寺の裏手に納められ、焼け残った門など一部は、芝公園内と埼玉狭山不動尊に西武グループが移築。東照宮があった名残として小規模の拝殿は都が管轄する芝公園の中に戦後再建された。)
   
 
 上野東照宮 (江戸城の鬼門、寅の方角にあたる上野寛永寺にある家光の代に建立された徳川家の祈祷寺。はじめは将軍の仏を奉る菩提寺ではなかったが、ここでも寛永寺の貫主である南光坊天海が二代目将軍秀忠の菩提寺の芝増上寺と権利を争い、菩提寺としての権利を勝ち得、三代目家光の葬儀を寛永寺で行い、墓所は日光輪王寺とした。しかし芝増上寺の反発もあり六代目以降の将軍の菩提は交代制となる。討幕軍との上野戦争で寛永寺は大伽藍の大部分を消失するが、東照宮拝殿拝殿と周囲の巨大な銅の灯篭等の建築群は当時のまま現存、華麗な装飾を持つ拝殿は現在修復中。今見られる寛永寺本堂は小江戸川越の喜多院の建造物を移築したものである。)
   

 川越仙波東照宮 (南光坊天海が住職を勤めていた川越喜多院は、家康死後、家康を神とする仙波東照宮を喜多院の中に作る。そこは、久能山から家康の遺骸を日光へと向かわせる旅路の途中、遺骸を数日留めて祈祷を行った場所であった。川越の大火で喜多院は寺院の殆どを失うが、家光の計らいで、再建が行われ、喜多院書院には当時江戸城にあった家光誕生の間、および春日局の化粧の間が移築されており、明治政府により解体され、現在は石垣と堀を残すのみとなった江戸城の遺構が唯一見ることができる場所となっている。)
   
 
 上記3つの東照宮は、静岡久能山から栃木日光まで山岳信仰の霊場として名高い富士山を通過して一直線に並び、江戸を守護していると言われ、東照宮の増設には方位学の見地から場所選びがなされたようです。江戸は戦国時代の終盤に作られた巨大な軍事要塞都市であると共に、方位学と陰陽道によって守られた宗教都市としての側面があります。その都市計画の中枢の人が南光坊天海であったようです。家康より賜った日光輪王山の最高権威の貫主の地位を更に巨大にするために、家康の霊廟を誘致して利権を得た後も、のちの将軍達の菩提寺を巡って他の寺社にも圧力を加えたと言われる南光坊天海の異名は、「黒衣の宰相」・・・邪魔者には暗殺も度々行っていたとの噂もありますし、その人物の素性も年齢も謎に満ちています。なんとまあ仏に仕える身でありながら恐ろしいお坊さんです。しかもこの人物が得意としていた方位学や陰陽道は、江戸時代が終わった後も後世の都市計画の中に息づき、高尾山と成田山を繋ぐ中央線、陰陽の図形を描く山の手線などに反映しているなどとまことしやかに言われています。

天海様は東洋の怪僧ラスプーチンだなんて口が避けても言わざるでござる。
怖!

 私は東照宮の中の総本山というべき日光東照宮に行った事が無く、ずっと憧れでしたが、泊りがけで行く崖の連なる大秘境だと思っていたので、行かずじまい。そんな私を不憫に思ってか田舎出身の土地勘の無い私を友人が車で連れて行ってくれました。実は行かなかったもうひとつの理由は芝の東照宮、川越の仙波東照宮では厳かな「 気 」に打たれて体調を崩すスピリチャル野朗な私です。もう日光なんてその場で白目むいて倒れてしまうのでないかと思っていましたが、数百年の樹齢の木々に守られた社殿は、境内でおおはしゃぎする観光客のためか何も感じませんでした。国宝の本殿が彩色塗装の修繕中でビニールの覆いが被せられていたせいかもしれませんし、特に本堂脇、眠り猫の下を潜って奥宮の家康墓所までの聖域が、ごく普通~の空気なのです。家康公の御霊は現代文明の呪い放射能や、世界遺産フィーバーを逃れて当初埋葬されていた駿河の久能山に隠れているのでしょうか・・・?
    

 雷が鳴る雨の中、仁王門での入場料大人1,300円世界遺産価格に驚き・・・。
   

 どこも絵になる過装飾空間、手水舎は石の柱に金の金具、ああ黄金の国!
   

 
 
 

 南を向いて日光の建築群の中で群を抜いて特異な装飾の陽明門。写真を撮るのに没頭してその奇矯な美しさを堪能できなかったのが残念・・・。写真などで見ると凄まじい感じがしますが、実際見ると黒い漆と胡粉の白い色がシックで仰々しいとは感じず、雨に煙る門はとても落ち着いた雰囲気でした。

   
 
   

   

今回一番興味深かったのが、江戸の名彫刻氏左甚五郎作、眠り猫。周囲の木彫も美しいことこの上なし。
    
 
 東照宮の動物や人物の華麗な木彫りの装飾には全て意味がありますが、眠り猫にも諸説あり、ネズミを通さないように寝た振りをしているなどと言われていますがが、本当の意味は分からないそうです。私の空想ですが、江戸から見て北のネズミ(子)の方角の奥宮の入り口に、ネズミを遮る猫を掘り込み、ひとたび方位の流れの気をストップさせ、ここからは方位と時間を司る十二支に無い動物の猫が寝る冥界の入り口であることを示唆しているのではないかと思います。また東照宮の中の奥宮の墓所は、そこから死を表す北極星が見えるということです。また奥宮の帰り道となる猫の裏側には雀が掘り込まれていました。徳川幕府が統治していた頃、日光の奥宮に入る事ができるのは歴代将軍を始めごくごく限られた人のみ、「貴方もおしゃべり雀のようにここで見聞きした事をみだりに他の人たちに喋ってはいけませんよ。」という意味だったのではないかと勝手に推理していますがどうでしょうか?「たとえば遺骸はまだ久能山にありますよ。」とか「埋蔵金は東照宮増設で全部使っちゃいました。」とか。
 
 アワワ!

 帰りに、日光金屋ホテルに入ってラウンジでお茶をしました。
     

 最近改装したようで何の飾りも無い病院の待合室みたいなラウンジでしたが、ホテルは明治時代に創始者が避暑地として訪れる外人観光客向けに作った和洋折衷様式の洋館です。私は、いつか雑誌で見た内装が竜宮城のような熱海の富士屋ホテルと勘違いしていたので、何か面白い部屋でも無いかと奥へと進むと、期待とは裏腹にどんどん建物は静けさを増して行きます。
 
 
 廊下がとても狭く、まるで客船の中を探検しているような感じでしたが、一番建物の奥、山の斜面に切り開かれたプールやスケートリンクの傍に洒落た展望室がありました。
  
 
 展望室の中に入るとかなり古いスケート靴など並べてあり、なぜか全身総毛立つような感じがしました。窓からは遠くに補修中のため巨大な覆いが被せられた輪王寺の本堂が見えましたが、足早に立ち去りました。
  
 
 スケートリンク脇の談話室(竜宮)には今まで泊まった戦前の海外の著名人や日本の要人達の写真が掲示してありました。夏場のスケート場と、金屋ホテル直営のおみやげ物屋でくつろぐ外国人観光客です。写真を眺めているとスティーブンキングの小説「シャイニング」をふと思い出しました。古きよき時代、ホテルには楽しい思い出が沢山あるだけに、その過去の記憶が享楽を求める亡霊となってさ迷う・・・というお話です。東照宮はお祭りの縁日のように賑々しい雰囲気でしたが、逆にこの金屋ホテル、風もなく木立に囲まれた風景は厳粛でした。
  
 
  一方、たくさんの人が行き交うラウンジは暖かい雰囲気で、ラウンジの随所に、東照宮を思わせる和風の意匠が施されていて、海外のお客様のみならず、日本人の目を大いに楽しませています。
  
 
 談話室(竜宮)の暖炉に掲げてあった今にも動き出しそうで怖かった竜の彫り物。ロビーからラウンジに向かう入り口には朱塗りの門。
   

 門の裏側には眠り猫の木彫です。下部に螺鈿細工まで施していますが、本家に微塵も似てないふてぶてしさが笑いを誘います。

犬屋敷と薬師芸者(中野区)

2011年07月26日 | 芸者町・三業地跡
 JR中野駅から降り立って、北口から出ると、中野区役所があり、その隣の中野区役所には犬の銅像があります。
  
ここは江戸時代、天下の悪法と言われる徳川綱吉の『生類哀れみの令』の犬屋敷のあった場所とか。その広さは30万坪、飼われていた犬の数は8万とも10万とも・・・綱吉が無くなったのを機に、犬屋敷は無くなり、あとに行楽の為に植えられた桃園が出来ますが、それも今は枯れてしまい、南口の公共施設やアパートなどに桃園という名前がついていてかつての名ごりを見ることができます。では人間よりもその命の価値が高いと言われていたお犬様達の迷える魂の名残はどこにあるかというと・・・。
 
 区役所の隣、中野駅前の中野サンプラザが犬の頭になっています。

 
ワン!
怖!
夏向きじゃない。
 
 怖いついでに北口の中野ブロードウエィ脇の仲見世商店街のワールド会館をまた撮影しました。
  

 廃墟でもないのにこの廃墟っぷり。 
  

 周辺の背徳感も健在。このデジタルの時代に新規でアナログ電波を入り口から出しまくっているお店も増えて益々魅力的な景観です。
   

 さらに北へ進むと早稲田通りがあり、新井薬師梅照院への参道となる薬師あいロード商店街の入り口があります。新井薬師は、空襲で全焼しましたが、戦後建てられた趣のある木造の本堂で、かつてはとても広い境内を持つお寺でした。二代目将軍の子の眼病を治したと言われる事から、眼病治癒の薬師様として広く親しまれ、そこで商店街の名前もあいロードというわけです。

 新井薬師アイロードとほぼ平行に伸び、薬師薬師の山門へと向かう「薬師柳通り」。こちらは新井薬師の参拝客の行楽地として薬師芸者が接待した三業地のメインストリートの跡です。

 戦前最盛期、芸者さんの数は500人。(80年代に最後の料亭がなくなったそうです。)芸者さんとお遊びをする待合(お茶屋)さんの建物がチラホラ柳通りを挟んで奥まった場所に建っていましたが、殆どの待合が廃業していて民家と区別がつかなくなっています。通常、三業地が廃れると広い座敷を持つ待合はラブホテルか料亭へと鞍替えをします。こちらの場合は民家へとシフトしたようですが、中には待合とは思えないような不思議な建物もあります。現在、裏通りにスナックなども多いことから遊郭および青線のお店があったのでは、と花街に詳しいブログなどに指摘がありました。いずれにせよ、いかにも参道の近くに発展した花街として純和風の作りの建物が多く、どの建物もとても大切に使われて新築同様です。

 扇子の意匠の扉が印象的な豪邸。
 
 
 今は踊りのお師匠さんのお宅となっているのでしょうか?アパートになってしまった建物の入り口に灯篭、井戸、すり鉢などがあってかつては純和風の建物であった事を伺わせます。
   

 立派な門と、粋な遊びのある郵便受け。
 

日本庭園が無い代わりに、塀に玉砂利を巡らしたお宅。緑色の外壁がとてもキッチュ。山の庵のような二階のあるお宅。
  

 メインストリートの奥のさらに奥、突然開ける小道や飲み屋の看板の不思議さと言ったら・・・。

 
 ひっそりとした通り、まさに里・・・。
  

 民家なのに、玄関に粋な小料理屋のような建具や丸窓のあるお宅が周辺に数々あります。
 

 産婦人科の裏側に、二階は日本家屋、一階は洋風の入り口にしてある建物がありました。一瞬洋風のカフェーの店舗(遊郭)かと思いましたが、だいたい昔の歯科医や美容院はカフェーっぽく見えるつくりをしています。
   

 表の柳通りにはとてもユニークな建物があります。スペイン瓦のひさしがとてもいい感じです。あいロードの商店街エリアには古いお茶の専門店がありました。
 

 柳通り沿いのモソモソした一角はかつての花も色も奪っていくような佇まい・・・。
 
 今にも崩れそうな長屋や店舗が集積して、今もテナント募集の張り紙。売れ筋を気取る年増の娼婦のようなずうずうしさ・・・。でも無くなるとこれまた寂しい。
  
 表通りから小道へ入った所、銭湯の周囲にも賑わいの跡や、粋な建具を新築の家に残したお宅がチラホラあります。
 

 銭湯は既に廃業しましたが、その名も花園湯。兵どもが夢の跡・・・。

よどみなき純喫茶 (上野)

2011年07月14日 | 純喫茶
    
 音楽喫茶は物珍しさから何軒か見て回ったりしましてきましたが、純喫茶となると何かハードルが高いような気がして初めて某純喫茶に入ったのは去年の事でした。入って愕然。レトロな木の家具、インチキ臭いヨーロッパ調の調度品、所々ほころんだ革張り椅子、汚れてバリバリの雑誌が入ったマガジンラック、タバコの染み、コーヒーの染み、時代の染みが店中を汚しつくし、飲食空間=清潔という定義を覆します。そもそも純喫茶とは、赤線にあったカフェー(遊郭)が飲食よりも女性の接待を主とした特殊飲食店、または特殊喫茶店という法的な括りであったために、お茶をたしなむ場所は「純喫茶」という名称にしたということですが、本当でしょうか?私は勝手に、純喫茶が登場したであろう時を同じくして1960~1970年代に流行したフォークソングの似合う「純情をお茶を共に供する喫茶店」という切ない意味だと思っていたのです。

 純喫茶のいわれはともかく、先日名店と言われている御徒町はアメ横商店街にある『丘』に行ってみる事にしました。
    
 入ると驚きの連続でした。このお店は、東京五輪の年、1964年に開店したそうです。元々は戦後にアメリカ軍の物資を横流しする巨大な闇市場であったアメ横ですが、上野公園に1961年に日本で始めて本格的なクラシック音楽の劇場である東京文化会館が建ち、東京五輪開催を前に、上野界隈には時代の気運と共に文化的、国際的な風が吹いていた事でしょう。また当時の日本は芸能でもファッションでも、ヨーロピアンスタイルが流行でしたから、この時代の純喫茶はレンガと安物のステンドガラスで飾り立てた北欧の古城のようであったり、ガス灯を模した照明器具を配置した酒場のようであったりする事が多いようです。こちらの丘も中世の貴族の古城の中のようなスタイルでした。
    

 店舗は地下2階吹き抜けの豪華な作り。吹き抜けの階段部分には大きなシャンデリアがありきたりの日常を送る人々の心に揺さぶりをかけます。
  

 テーブルとテーブルの仕切りはオパール加工のプラスチック。内装が統一感が無くバラバラですが、タバコの煙で褐色に変色したシャンデリアは、お寺の伽藍を飾る装飾のように神秘的でした。
 

 
    
  上野は変わらない良さがある、そして変われない良さもまた上野にはある。

なんといっても地下2階吹き抜けですから大きな店舗です。上野駅前のレストラン「聚楽台」が無くなって上野、御徒町界隈では貴重な昭和を体感できる場所でしょう。かかっていた曲のディスコサウンド、少々年増のホステスさん達の筒抜けの会話も此方ならではの情景でした。