ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

不夜城新宿~その2(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町
 (その1の続き)内藤新宿は、飯盛女郎を有した飯盛旅籠が多数あり、明治~大正と吉原や州崎に並ぶ大型の花街(新宿一丁目~三丁目までの広範囲)になります。大震災の被害はありませんでしたが、大空襲で当時の遊郭は被害を受けて、戦後は靖国通りと新宿通りに挟まれた二丁目の一角が赤線地帯となり、売春禁止法が制定されて以降は、ヌードスタジオやトルコ風呂、ビジネスホテルなどと共に、当初新橋にあったゲイバーが進出して街をゲイ一色に染めて行きます。かつては武士道や仏門に加護され、軍国主義の台頭で歴史の狭間に追いやられた隠花植物達が再び、ゲイボーイやシスターボーイなどと、呼ばれてお茶の間を賑わした礎は、元々赤線があった新宿で大きく花開いたのです。
 

 しかし、もと赤線に共通するうらびれた感じ・・・仲通り沿いにある古い建物。作りが地味ですが、入り口が何か所もあることから、カフェーの店舗跡ではないでしょうか?
  

 花街と言えば質屋。
 

 ひさしが、アールを描いて、とても古めかしい雰囲気のバー、酒寮奴。
  

 通りに面して外壁を大きく取ってますが中は日本家屋のちゃんぽん屋さんに、古い焼き鳥屋さん。
 

 人がやっと通れるぐらいの路地には天蓋があって、異世界の雰囲気。明るい時間でも酔客のカラオケの声が聞こえるバー・・・。プレイスポットデイトライン・・・。
 
 
 宿場があった以前からの江戸時代の史跡が豊富にあるのが、この二丁目界隈です。3軒お寺があり、かつて新宿御苑に屋敷を構えていた内藤家の菩提寺「太宗寺」がその中では最大です。入り口の大きな銅造地蔵菩薩坐像は、江戸の街道の入り口に立つ江戸六地蔵の一つで、通行人を見下ろすように建っています。 
   

 夏の縁日には、境内で閻魔堂ご開帳が行われていました。塩だらけの塩地蔵は江戸時代ならではの風変わりな民間信仰のスタイル。屋根が立派な本堂もなかなか風情があります。
  



 こちらの閻魔堂は都内でも最大。中に座している6m近くある閻魔様に誰もが驚嘆の声を上げます。閻魔大王は、地獄に落ちて命乞いをする罪人の嘘を暴き、罪を制裁する怖い存在ですが、元々浄土に住まう仏であった事から、江戸時代では信仰の対象となっていました。
 

 その隣のこれまた巨大な奪衣婆は阿鼻叫喚。
 ひぃ!

 目に血管の浮き出た生々しいガラス球を使っている事などから、これは仏像ではなく、江戸時代に流行した生き人形の類だと思われます。当時お祭りの際などに、見上げるばかりの山車の中央に鎮座していたのが巨大な生き人形で、菊人形などの見せ物興行などでも大活躍しましたが、今現在人形の需要と言えば、ひな祭りと五月人形ぐらいです。脱衣婆は地獄へ向かう三途の川を渡る死者の衣を剥ぐ事から、遊郭の守り神とされていました。「こちらで衣服を脱いでお遊び下さい。」というわけです。他にも遊郭の守り神は、布袋様(時には狸が化けた布袋様)、弁天様などですが、皆お腹を出して半裸であることが共通していて、成る程と思います。

 大宋寺の北側、靖国通り沿いには「正受院」と「成覚寺」があります。正受院にはこれまた小ぶりの脱衣婆の像があって、こぎれいな境内です。一方、成覚寺はどうにもこうにも、傍を通るだけで嫌な気持ちになってしまうのです。特に境内の裏側の細い通り道など昼でも薄暗く怖い感じがします。
 

 このお寺の由来を聞いて納得したのですが、以前は遊郭で死んだ女郎達の投げ込み寺であったという事です。遊女は生前、贅沢な成りをしていても、死ねばお墓すら立ててくれないのです。またこの界隈で遊女と心中したものを供養する旭地蔵が、遊女達を弔う子供合埋碑と共に残されています。遊女との心中というのはご法度だったのでしょうか、今も目黒不動尊の門前や、池袋界隈にもそのような碑があります。今現在地蔵や子供合理碑は靖国通りから眺められる本堂の前にありますが、当時は境内の裏の墓地、裏通りの近くにあったというのです。

 二丁目を出て、御苑大通りを渡り、伊勢丹のある新宿三丁目界隈までかつては宿場でしたが、今現在は商業施設が並び、かつての面影はありません。こちらには末広通りという通りがあって、昔懐かしい雰囲気の寄席、末広亭があります。終戦後すぐ建てられた木造の劇場で、外壁のスクラッチタイルや白い提灯形のガラス電灯、豆タイルが縁取りされた切符販売所が素晴らしく、寄席の内部の客席は緩く傾斜した畳席があり、一般の劇場には無い雰囲気があります。
 

  


 およそ文化的な雰囲気とはかけ離れた新宿ですが、戦前は「新宿ムーランルージュ」などといった軽演劇を上演する劇場もあり、伊勢丹デパートの豪華な装飾などに代表されるように、今よりも格段洒落た場所であったという事です。
 (その3に続く)

不夜城新宿~その1(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町

 眠らない街、新宿をご紹介いたします。
靖国通り沿いの歌舞伎町一番街のネオン。私が子供の頃は、TVで歌舞伎町の悪の巣窟をルポする番組をやっていましたが、今現在歌舞伎町は、家出中学生が街娼をさせられていたり、ドリンク一杯で目から飛び出るようなな値段を吹っかけられたりするような事はないらしいです。でも親子そろって歩ける健全な街になったかというと、そんな事はなく、歌舞伎町の不健全さは東洋一、眠らぬ不夜城として、この街は人々の悪徳と欲望を吸い込んだり吐き出したりしています。

 最近は、演歌や東宝ミュージカルの興行を行っていた新宿コマ劇場や、広場を囲むように立っていた映画館も消え、文化的にも少々勢いを欠いた歌舞伎町です。この土地が歌舞伎座が無いのに歌舞伎町という名前になったのは戦後の復興に当たって、地域の有力者が歌舞伎の専用劇場のある銀座のように文化的な街にしようと提唱した都市構想から由来しています。しかし、その計画は実現せず、当時大衆娯楽を担っていたレビュー劇団(コマダンサーズ)の専用シアターとして作られた新宿コマ劇場や、映画館の建物がコの字型に取り囲む噴水広場などが出来ましたが、その周辺は、パチンコ屋、風俗店、非合法の青線地帯、連れ込み旅館が幾重にも取り囲む大歓楽街です。
     

 ホテル街に近い昭和の香り漂うキャバレー。
 

 明朗会計~円ポッキリ、という宣伝文句が流行った時代の産物。入り口には様々な団体や同業者お断り!の張り紙が・・・。色電球を無数に取り付けたネオンの入り口が貴重。
   

 古めかしいジュース屋さん。窓の柵の色彩にご注目。
  

 レトロなネオン看板のバッティングセンター。消えかけた看板は長島選手がモデル?
  

 歩き疲れたら、日本庭園を思わせるラブホテル「山○」へ。
 

 石臼を飛び石として利用した茶の湯の庭さながらの装飾。
  

 花園神社の裏手側は、「ゴールデン街」。戦後の焼け跡に出来た非合法の青線地帯でしたが、当時のバラック建築の如何わしさはそのままに人々の憩いの飲み屋街として今も繁盛しています。
  

   

 かつては都電もゴールデン街の傍を走っていました。ストリップ小屋まで隣接する昭和のカオス。
   

 通りの中やお店は撮影許可が必要で、時折ドラマのロケなどでも使われているようです。一切開発されていない、数少ない魔窟の跡としていつまでも残っていて欲しいと思います。


 ゴールデン街の東に位置する「花園神社」は新宿の総鎮守です。参拝客が絶えず、秋の酉の市には大きな熊手が売られ大変な賑わいです。なんでも話によると、水商売のお店は、こちらを購入しないと痛い目に会うとか会わないとかという話を聞いたことがあるのですがさて、真偽のほどはいかばかり?この花園神社、社殿は新しいのですが、お稲荷さんに江戸時代から続く庶民の信仰のスタイルを見て取れます。
  

 性器を模ったご神体が鳥居の頭上に収められています。お稲荷様は豊穣の神様であると同時に、狐が穴を出入りする事から性交を意味します。祠の後ろにも性器を模った石(陰陽石)があります。文明開化と同時に明治政府によって廃止されたのが、性器そのものを御神体として崇める信仰スタイルで、首都圏だと川崎に残るのみですが、花園神社にもこうしてひっそりと迫害を逃れて残っているのです。
  

 花園という名前は、この場所に武家屋敷があり、花が咲き乱れていたから・・・と言いますが、花園という地名がある場所には必ずと言って良いほど、花街が存在します。新宿の花街の起源は宿場にいた女郎達です。新宿は古くは広大な内藤家の武家屋敷(現在の新宿御苑)があった事から内藤新宿と呼ばれ、江戸四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿)のうちの一つでした。有事の際に将軍が江戸城から甲州へと逃げるために作られた軍事道路の甲州街道と、江戸城築城の為に奥多摩の石灰を大量に必要としたため作られた青梅街道の起点が、新宿追分で交わる交通の要所で、荷を積んだ馬車が行き交い、馬糞がそこかしこに落ちていた荒っぽい宿場町でした。江戸時代、宿場町にはだいたい宿場女郎が一軒に一人は居て、旅人のお給仕と共に性的なサービスも行っていました。そんな彼女達は幕府公認の吉原の遊女達と分けるために、飯盛り女郎と呼ばれてしました。もともと非公認なので、宿屋が複数の女郎を抱えたり、女郎が吉原の花魁のように派手に着飾ったり・・・その都度、取り締まりが行われたようです。安く遊べる宿場女郎の繁栄は、吉原の存亡の危機・・・天下の吉原と宿場とのいたちごっこが繰り広げられていたのです。
 もともと江戸の町が整備され始めた時に、西の宿場町は、新宿ではなく、下高井戸にありました。ところが、新宿の地に宿場町を作ろうという嘆願が出されるのですが、便宜上というよりは、宿場女郎を包括する宿場町の運営を目論む業者が出した物でした。女郎ありきの宿場構想だったのです。
 その宿場町は、江戸城寄りの四谷大木戸から、今現在の新宿3丁目まで一キロ程、東西に伸びていましたが、宿場町が姿を消すと、今度は遊郭としての機能だけ残り、終戦後は新宿二丁目にある赤線地帯へ整備され、売春禁止法案が発令されるまではカフェー(特殊飲食店)の居並ぶ花街となりました。まだ10数年前まで、赤線跡の二丁目の仲通りには、お稲荷さんがあったり、的を矢で射る的場があったり、花街の名残を示す古風な建物が沢山残っていました。現在も花園通りという通りには柳並木などもありますが、現在はゲイバーがひしめくいささか地味な歓楽街です。(~その2へ続く