ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

鶯の鳴く隠れ里(台東区・根岸)

2012年01月24日 | 芸者町・三業地跡
 今回はJR山手線の駅周辺『鶯谷』をご紹介いたします。もともと鶯谷という地名はなく、根岸の里(鶯谷駅北東側の根岸1~5丁目)と呼ばれていたこの界隈の由緒を調べると、駅の南側の高台には歴代将軍の墓所を構え、江戸時代には城北で唯一の武家屋敷街となり、明治には正岡子規をはじめとした文人墨客の住いや料亭があり、北に灌漑用水の音無川が流れる、風光明媚な場所だった・・・と書いてありました。 
 隣駅は高台から富士山を望める遊行の土地として賑わった日暮里ですから、鶯谷も由緒だけ聞けば、鶯の鳴き声が聞こえてきそうな風情ですが、現在は山の手線の各駅の中でもおそらくダントツの大場末です。関東大震災は免れたものの、広大な加賀の前田邸は戦争で焼け、駅前近辺で街娼がうろつく、連れ込み宿やラブホテルの街へと転じていきました。(山手線では連れ込み旅館やコリアンタウンのある大久保も以前は高級住宅街だった経歴があります。)根岸一丁目~二丁目の駅前周辺はホテルだらけ。巨大なホテル同士が立ち並び、日中でも夜のような通路に、昼間から外国人の娼婦が流しをやっています。
  

 外壁の擬似木が大胆なデザインの温泉旅館のようなホテル。
  

 山の手線から見える「元三島神社」は、一階に食堂や飲み屋が入り、かつて旅館だった入り口の跡のある妖しい通りを過ぎればお参りできます。
   
 
 バーが一階に入っている神社の佇まい。しかも鳥居の前で堂々と街娼がお商売しています。
   
 
 そして一騒動。外国人街娼が玉垣周辺にたむろしてると思ったら、新参者の街娼を囲んで、野太い声であたりはばからず大喧嘩。
「チョーとあんた!あたしらは¥○X△でショーバイしてるのよ!なのに、あんたイクラ!」
「¥□△@よ!」
「ンマーそんなネダンでヤリクサッテ!このバショにはこのバショのルールがあるのよ!」
「そんなのアタシのジユウでしょ!」
「ジユウが聞いてアキレルよ!さっさと出て行くかルールを守るかドッチかにしなさいよ!」
「ワカータワヨ!その値段でヤルワヨ!」

 若い新参者も素直に納得したようで、映画「肉体の門」を見ているような街娼同士の小競り合いのケリはついたようでしたが、彼女たちの存在そのものが違法なのでは?捕まらないのは、いろいろな法的な抜け道でもあるのでしょうか?
きっと街娼という生活様式を守り伝える無形文化財なのよ。

 昔ながらの連れ込み旅館の残る通りは、のんびり散歩できます。
 

 志ほ原という名前に時代を感じます。
 

 ホテル街の端っこのほうに、戦火で消失した正岡子規の屋敷を再現した『子規庵』や『書道博物館』の通りがあります。大名屋敷の敷地が後の文人達の住いとなったようです。
 

 北側には石神井公園の池を水源として吉原の前を通り隅田川に注ぐ音無川が流れていたようですが、現在は大部分が暗渠となって若干の風情を嗅ぎ取るのさえ難しい雰囲気です。この近所の民家はそこそこ立派な門構えだったりするので、屋敷町だった雰囲気はあります。また一軒の豆腐料理屋は黒塀で、かつてのこの界隈の歴史と風格を残していました。夜ともなればけばけばしいネオン街に豹変する町は、もともと大名屋敷で、日本庭園や能楽堂まであっただなんて誰が想像できるでしょうか?
  

 根岸4丁目にあったのは根岸三業地(料理屋・待合・置屋の三業)です。現在は芸者さんは居ませんが、『柳通り』という花街特有の柳が街路樹の通りがあって、小料理屋や老舗の染物屋がありました。通り沿いのスナックの名前に「花」「藤」などがあるのも花街の雰囲気です。
 

待合の建物は京都のお茶屋に相当しますが、狭い路地の奥に並ぶ待合の建物。座敷の欄干がまるで寺社か御殿のようです。殆どの待合は昔の外観のまま建て替えも無い事から、かろうじて最近まで何らかの形で営業していたであろう様子が伺えました。
 
 塀や屋根の形など非日常的な感じです。
 

 

  

 また待合から割烹料理屋に鞍替えしたお店もひっそり営業中でした。
 

 入谷と根岸の境にある金杉通りは、旧街道があった場所で、戦前の商店の光景を目にすることができます。蔵作り、出桁作り、看板建築なんでもありで、楽しませてくれます。
 

 
 
 金杉通りから一本奥の根岸3丁目にある鶯通りは旧遊郭だったあたりでしょうか。3丁目は寺町で朝顔市で賑わう入谷鬼子母神や、江戸名所として見物客を集めた西蔵院の「御行の松」(現在枯死)が近隣に在った事から、人通りに事欠かない土地にできた遊郭だったのかもしれません。左手の看板建築と寄り添っているユニークな煎餅屋が目を引きます。
 

 戦後は同じ台東区の吉原や玉ノ井ように、戦前の遊郭街を母体として引き継いだ赤線地帯にはならず、通常の町になったようですが、所沢、川越、船橋、八王子、と郊外に行けば見ることができる戦前の旧遊郭の雰囲気が都内で見られるのはおそらくここだけだと思います。小さな通りに斜めに設えた入り口の産婦人科があったりする様子にドキっとさせられます。
 

 古いネオン管の看板にかろうじて残る旅館の文字。 

千住宿と千住遊郭(足立区)

2012年01月02日 | 赤線・青線のある町
謹んで新春のお喜びを申し上げます。

 今回ご紹介するのは、足立区、北千住駅に近い「千住宿」です。現在の日光街道と平行に並ぶ商店街が、江戸時代の旧日光街道(現在宿場町通り)で、その周辺に形成されていたのが千住宿で、江戸四宿(新宿、板橋宿、品川宿、千住宿)のうちの一つです。震災と、戦火から免れた場所が多く、千住には歴史的な景観や細くて折れ曲がった路地が残っています。
  

 駅、徒歩一分で連れ込み旅館とは下町パワー、いえ千住パワー。
     

「毎日通り飲食店街」が街道沿いの小道にありました。昔の歓楽街や色町を示すレトロな電柱がありました。
 

旅館の看板が郷愁誘う通り。屋根瓦にも風格があります。


街道近くにある氷川神社は大黒天が旧本殿に納められています。花こそ咲いていませんが、藤棚があって、風雅な雰囲気が感じられた神社です。
  

重々しい銭湯の建物と、歴史的建造物の横山家住宅。
  

 宿場町ですから宿場女郎も当然居ました。大正10年に、旧日光街道沿いの宿場町に散在していた女郎達を、現在の日光街道を跨いでさらに西へ進んだ場所に指定地を設けて移動させ、「千住遊郭(柳新地)」とし、戦後は千住の赤線地帯として売春防止条例が発布されるまで繁栄したという事です。現在は千住柳町と言って、大門通り、いろは通り、仲通りなどといった、いかにも赤線的な名称の商店街が並ぶひっそりとした雰囲気の住宅地となっています。駅から15分も歩くような遠い土地ですから、スナックなども少なく、如何わしさは皆無です。

 大門(おおもん)通りといろは通り。かつて柳新地だった千住柳町を取り囲む形で、様々な商店街があるのですから、赤線が地域にもたらした利潤には驚かされます。
 

美容室は女給さん達のため。寿司屋も花街周辺ではよく見かけます。
 

おどろおどろしいアパートの廃屋。電柱には古い地名の「廓」の文字。廓町って、露骨すぎですね。
 

柳町の隣町、大川町の物干し台が印象的な家屋。この遊郭にはお堀やどぶ川などの他の地域と色町を隔てた結界がありません。しかし目と鼻の先には荒川と隅田川が流れています。自然が生んだ結界という事でしょうか?


 危惧していた通り、古い建物は相当建て替えが進んでいるようで、戦後のカフェーの建物は見当たりません。戦後の赤線の店舗はカフェー(特殊飲食店)といって、建築そのものは木造で、座敷があったりするのですが、窓は大きく、入り口は西洋風、または和洋折衷様式を基調としていました。モルタルでひさしに段を重ねたり、スペイン瓦や色とりどりの豆タイルで一階部分に装飾を施し、華麗なネオンサインで粋な店名を掲げます。しかし、ほんの僅かにカフェーの痕跡を残す店舗跡がある他は、曳船にある「鳩の町」のようなカフェー独特の建物にはお目にかかりませんでした。

複雑に折れ曲がった路地の中にカフェーと見まごうばかりの左官屋さんの店がありました。看板建築にありそうな中国風の文様を施した入り口、戸袋にコンクリートで擬似木をあしらったり・・・。 
 

やっと目にしたお店はカフェーでしょうか?バルコニーやら二色に色分けされた外壁などが粋な感じでした。
 

通りから入り口は塀を建てて隠していましたが、ひさしのディテールが綺麗です。
  

ひさしがアール状である事を除けばまるきり新しい建物にも見えます。


ちょっと装飾が物足りないのですが、建て替えを免れるのはむしろこういう一見普通のお宅なのかもしれません。


灯篭と楓の木がむちゃくちゃな和風テイストをかもし出す珍住居。
    

色町には質屋が必ずあります。左官屋がイタズラしたようなポストの下に小さな擬似木の装飾のある普通のお宅。右端の建物は入り口が2つあるのがカフェーっぽいのですが普通の民家かもしれません。当時、女給が客引きを行うのは、ひとつの入り口につき一人と決められていたために、女給の多いカフェーは無理やり沢山の入り口を設けていました。
  

出前は敏速、そしてニコニコ商店街。
  

色町の粋。お風呂タイルを貼った染み抜き屋の入り口。竹の格子も数奇屋をイメージしたのでしょうか。