ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

赤線特集その二(江東区洲崎)

2014年04月08日 | 赤線・青線のある町
 

 今回訪れたのは「洲崎」の赤線跡(現在東陽町)です。江戸時代から辰巳芸者や相撲興行などで遊興の場として名高い深川に近い洲崎でしたが、江戸時代は海沿いの低湿地帯で、高潮の被害などがあったことにより、幕府により住居とすることを禁止されている地域でした。洲崎神社(洲崎弁財天)の境内には江戸時代の波除碑が残っていました。震災と空襲を経てボロボロでした。
   
 しかし明治19年に転機が訪れます。文京区に東京帝国大学(東京大学)を建設するために、根津神社周辺の根津遊郭がすべて立ち退きを迫られる事になり、そこで移転先に選ばれたのが、洲崎の埋め立て地でした。吉原を彷彿とさせる大通りと、整然と並ぶ路地による巨大な遊郭街の誕生です。洲崎は、戦時中は工場用地として営業を停止、空襲を経て戦後は、大門の通りを挟んで東側の地域のみが遊郭として営業を再開しました。1958年売春防止条例が施行されるまで、カフェーという和洋折衷の遊郭の建物がひしめいていました。
 他の赤線は、防止条例後に、スナックや旅連れ込み宿がひしめく歓楽街に転化するか、ただの住宅地になるかですが、洲崎が辿ったのは以外にも後者でした。木場や工場地帯の労働者たちが歓楽街に集うという図式が時代の流れと共に崩壊してしまったからでしょうか。数年前に訪ねた時には、現存するカフェー建築は驚く程少なく、わずかに残っていた店舗の跡も、先ごろの大震災で、建て替えを余儀なくされました。

 某政党の建物として近年まで使われていた大店の「大賀」。母屋は和風、一階のサロンを持つ店舗部分は洋風、黒いタイルの円柱、沢山ある戸口・・・全てが印象的でした。現在は建て替えされています。


 

 大通りに面したアールデコのような近未来的なデザインの建物、様々な店舗が居抜きで使用していましたが、建て替えになっていました。
 

 青い柱はすべて豆タイル装飾で、日中は眩いばかりでした。
 

 堀の外側にある一杯飲み屋は赤線時代からのもので、今は無くなった地名「洲崎」の名を持つ飲み屋もありました。


  

 現在は埋め立てられていますが、以前は洲崎川だった部分に洲崎の入口はあります。戦後はネオン管で「洲崎パラダイス」と輝く大門が掲げられていました。大門通りの広さは、かつて鉄道でも通っていたような風情です。交通ルールを説いているだけとは思えない奇妙な啓蒙看板もありました。
   

 2004年4月現在、主だったカフェー建築は無くなっていますが、赤線時代の建物を改装して、住居として活用している物件はまだ見ることができます。装飾を取り払って、こざっぱりと改修しているので、これからも長期的に残っていくでしょう。
 

  

 軒下や角々に、わずかに残る装飾。スナックも大人しい雰囲気です。
  

 遊園の文字のある電信柱がありました。
  

 古い赤線時代の電信柱のある通り。掲示板もまだ木製です。 
  

 防火壁のウダツ風の装飾がある民家。バーバーのタイルも古風な配色。
  

 珍しい意匠の建築。この建物のある大通りの西側は、戦後は一般の商業地域になりました。
  

 蔵のような民家。ネズミ返しのような装飾。
四方を土手に阻まれていて、そこかしこに息苦しいような雰囲気が残る洲崎でしたが、カフェーの主だった建物が姿を消した事で、少し町の雰囲気に変化が出たようでした。古い建物が好きな者にとっては寂しく、実際に住んでいる人々にしてみれば風通しが良くなるのは歓迎すべき事なのかもしれません。
  

 路地裏だろうが民家だろうがカメラ向けまくる輩が風通しとか、聞いてあきれちゃうわ。

赤線特集その一(葛飾区立石)

2014年04月05日 | 赤線・青線のある町
 10年以上前、はじめて本屋で「赤線跡を歩く(木下聡著)」を購入した時は、赤線を魔界の入口のように思っていました。しかし実際に赤線跡を訪ねて歩くと、かつて使用されていた店舗の建物はとても特殊で面白いのです。しかしここ数年、建物の老朽化による建て替えなどで、地域における赤線の記憶のようなものが無くなりつつあります。ですので、ここ数年の街歩きの総仕上げのつもりで、東京の下町~多摩、埼玉の都心周辺の赤線跡の町を取り上げてみたいと思います。(年表などの記述に事実と異なる表記などあるかもしれませんが、ご了承下さいませ。)


 葛飾区立石は、大きくうねる川沿いの土地で、度々の洪水に見舞われています。しかし意外とその歴史は古く、周辺では古墳時代の遺物が発掘されたりしています。そのうちの一つが「立石様」と呼ばれている、地中深くにめり込んだ岩石です。房州石と呼ばれる千葉県産の岩石で、江戸時代は道標などとして活用されましたが、不思議なパワーにあやかる人々が戦地に赴く兵士のお守りとして削ってしまったために、今現在は若干地上から姿を現すのみとなりました。古墳の石室を作る為に房州から持ち込まれ、石室の一部が露出しているのではないか?と言われていますが、都心部における唯一の磐座(巨石信仰)としてとても興味深いものがあります。
 
  
 

歴史の立石・・・低湿地帯の下町のイメージが一新したわ!

 
 立石の赤線は、京成立石の駅のすぐ近くを散策すれば見つける事ができます。空襲で焼け出された亀戸天神裏の遊郭の業者が作った遊郭で、戦時中昭和20年には民家を改装して既に作られていたといいます。戦後は、進駐軍の遊興の場所としてRAAに指定され、黒人兵が出入りしました。(当時は人種や地位の垣根は深かったので、白人と黒人、一般兵と将校は同じ地域では遊ばず、住み分けがなされていました。)一年後、進駐軍の出入りはオフ・リミッツ(立ち入り禁止)とされ、赤線地帯として指定されます。
  

 正面から見ると、洋風のカフェー、側面から見ると和風の遊郭のスナックつかさ。吉原や洲崎にあったような大店以外は、和風の建築に洋風の外壁を張り付けているだけの建物が殆どです。赤線時代の綺麗な豆タイルが塗装から覗いています。


  

 一つの建物に2つ戸口があります。一つの戸口につき、一名の女給さんが客引きを行えたと、法的な決まりがあったので、カフェーは沢山の入口を持っています。また二階の小部屋に上がる道筋もそれぞれ別だったようです。
 

 大通りからは見えないような小道。
 

 何度か折れ曲がる道を抜けると、開ける通り。
 

 立派な装飾、その建物をサメが見上げる景観・・・。
 

 モルタルの外壁に施された、様々な左官屋の手仕事に、「粋」を感じます。
  

  


 通りに面していたところは小料理屋風。
 

 建物のディテールが浮世離れしています。
   

 立石は、赤線跡も開発の手を免れていますが、近隣に闇市跡から青線酒場に移行したであろうスナック街も丸々残っている所が凄いです。昨年、下北沢の駅工事に伴って闇市跡が取り壊しになったので、こういう景観もまた貴重だと思うのですが・・・。
 

   

 ハートの模様が印象的な戸口。まだ残る木の電信柱。ずっとこのままで居てほしい立石でした。
 

多摩の酒蔵と米軍の夜(福生市)

2014年04月01日 | 赤線・青線のある町
 まず行き交う人々に明るい話題を提供していた三鷹駅近くの子供服屋のプリティ富士が閉店して、ごくごく普通の展示場に変貌してしまった事をお伝えいたします。勿論、あの愛くるしいマネキン達も今頃スクラップ。


ウソでしょ?!
更新時は4月バカだけれど、まぎれもない本当よ。

 さて、多摩の酒蔵、福生にある田村酒造場に行ってまいりました。江戸時代文政5年より、秩父奥多摩伏流水を仕込み水として、「嘉泉(かせん)」などを作っています。
 JR福生駅を降りて、多摩川の流れる東に歩みを進めると、福生神明などの神社仏閣が目につきます。
 

 そして多摩川と、人工河川の玉川上水に挟まれた田丸酒造場一帯の土地の古めかしい景観は、そのまま江戸時代!




 黒々と光る屋根瓦、春の日にまばゆいばかりの白壁。敷地内は田村家の母屋と日本庭園もあってとても広く、一部古い蔵を製品の展示場としていました。ただ、利き酒できるような土産物屋やレストランは無く、事務所でカタログを見て購入するシステムでした。
    

 駅周辺に目を移すと、シャッター通りでした。古めかしい食堂や、手動の台が置いて有りそうなレトロなパチンコ屋。
 

 福生駅の東側は、米軍横田基地(旧日本軍時代は多摩飛行場)です。上空を巨大な戦闘機が通過するたびに、敗戦国に生まれたんだな~と思います。終戦後、立川にあった米軍基地(旧日本軍の立川飛行場)は米兵のためのバケーション施設も兼ねており、立川を歓楽街へと様変わりさせます。ところが米軍と市民との対立は深く、砂川騒動などを経て、立川の基地は閉鎖され(1969年)、戦後接収していた福生の横田基地に全ての機能が移転してきました。と同時に、福生の歓楽街の規模も大きくなっていったことでしょう。
    

 戦後の一時期、赤線と認可されていたのは富士見通りという通り周辺で、他所の地域の花街に見られるように、店舗が人目を避けて路地裏に密集したりするような構造をしていません。あっけらかんと、飲食店やジャズバーなどと共に、少し広めの路面に面してお店が立ち並んでいます。


 
 
 福生不動尊ギリギリまで立ち並ぶ、スナック。


立ち入り禁止の古いお稲荷さんまであって、米軍のための歓楽街になる前から何かしらの賑わいがあった場所なのかもしれません。
  

 人魚・・・いちご・・・。
 



 観光旅館風の連れ込み宿(屋根の水色は諸外国では娼婦をイメージさせる色彩的なサインです。)そして「バイハイ」と言う名前のラブホテル。第二次世界大戦時の米軍キャンプが舞台のミュージカル「南太平洋」で歌われる夢の理想郷バリハイがモデルでしょう。花咲き乱れる夢の島が、こんな〇末に・・・。
 

 かく恋慕・・・女帝・・・カトレヤ・・・。まだ現役まっしぐらの町なので、長居はできませんでした。