ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

街角アートフェスティバル

2013年08月20日 | 古い建物
 ふと訪れた町の不思議な光景に、思わず歩みを止めてしまった事はありませんか?玄関先に並べられたお花や創造的なオブジェの数々・・・またある時は思い思いのメッセージを詩情溢れる言葉に託した手書き文字看板・・・町や商店をまるでキャンバスのように自由に彩る画家や詩人達に、今回は焦点を当ててみることにしましょう。題して「街角アートフェスティバル」・・・。
 
 作品タイトル「カーニバル」(東京都H市)
 東京都と言えどもかなり郊外にもなると、外食をするのも一苦労。そんな時に訪れた、うどん屋さんがもし美術館のようなうどん屋さんだったとしたら・・・。いえ、こちらは本当はうどん屋さんのような美術館かもしれません・・・。
 
 
 本物のアクセサリーをつけた不思議なオブジェと信楽焼きのタヌキの取り合わせがグー。
 

 何処を切り取っても絵になる光景・・・。
 

 五重塔の飾りはなんとサンタクロース。
 
 
 ミラーボールだって、このとおり盆栽に!そして来客にお茶を勧めるやまとなでしこ。
 



 作品タイトル「愉快なマーチ」(東京都T区)
 風邪も病気も入り口に居る愉快なカンガルーさんを見ただけで吹っ飛んできそうですね・・・。


 

 手書き文字やイラストに味があるのはアーティスト達に共通するポイントです。
 



 作品タイトル「幼心の君へ」(東京都S区)

 大規模な開発に揺れるS区ですが、すこし懐かしい通りに踊る言葉のシンフォニー。幼心を忘れない貴方と読みたい言葉です。
 



 ・・・・・・。


 作品タイトル「幸福の鳥はいずこへ」(東京都S区)
 ふくろうは苦労知らずの鳥。そんな鳥にあやかって自宅をふくろうのパラダイスに変えてしまったようです。

 

 


 作品タイトル「エチオピア」(東京都T区)
 飲食店は街行く人々の目に留まるようにあれこれ店舗のデザインに試行錯誤をするのは当然と言えば当然。でも時としてそれは町を美術館に変えてしまうミラクルも潜んでいるようです。
 




 作品タイトル「待ち遠しいティータイム」(東京都S区)
大御所の風格さえ漂うこちらのお店・・・。あれこれ言わずに時を忘れてじっと見ていたい、そんなお店です。
 



 
 作品タイトル「我ら番人達」(東京都S区)
 野外に縫いぐるみ・・・愛くるしい動物たちの物語にそっと触れてみませんか?物語は無断駐車をする車を、動物たちが見張っている所から始まります・・・。
 

 中世の騎士や動物の目が一方向を向いているのが鑑賞のポイントです。
 

高台の迷宮・文士村~その2(新宿区・下落合)

2013年08月11日 | 近代建築
 文士村巡り、今回は下落合文士村です。西武新宿線の中井駅、および下落合駅の北側は、目白の台地で、旧華族、財閥、そして文壇、画壇の作家たちの住居が立ち並び、古くは徳川家の鷹狩の場所として市民はお留められる土地で、今もその名残で「おとめ山公園」という公園が残っています。
 
 目白駅周辺は言わずと知れた学習院がある場所で、ハイソな雰囲気ですが、下落合文士村周辺は、おそらく農地を開拓した居住区で、現在は古いお屋敷の立て壊しも進み、かつての高級住宅街であった頃の雰囲気はわずかしか残っていないようです。
 
 洋館の聖母病院と、目を引く古い門構えの家。
 

 古びた民家や管理されていない廃墟の中に、ひっそりと青白く佇むのが、パリの街角を描いたことで有名な画家、「佐伯祐三のアトリエ記念館」です。
 

 数年前にお邪魔した時は、藪の中に佇む、ペンキの剥げたお化け屋敷のような雰囲気でした。しかし、晴れて新宿区が再整備し、母屋を壊して(勿体無い!)採光のために高い天井を設けたアトリエ部分と、佐伯自身が増築したという洋間と離れの茶室だけが、再現されていました。部分的にオリジナルの古建材でしたが、綺麗過ぎて物足りなさを感じました。
 
 
 しかし、佐伯の作品や人生について何も知らない私は、その生涯を紹介した映像に感動しました。パリから帰国後、大正時代の好景気の時に、裕福な親族の援助を受けて、この下落合に完成した豪華なアトリエでの、画家としての活動は4年ばかりで、再び目指したパリにおいて、体と精神を病んで亡くなった佐伯と、物悲しい街角の空気すら写し取ったようなパリの画風に言い知れない気持ちがしました。
 

落合でみかけた佐伯祐三の描くパリの街角のような店舗。


 今度は「中村つねアトリエ記念館」です。同じ下落合ですが、佐伯のアトリエからけっこう歩きます。37歳で夭折し、その作品数が限られている洋画家ですが、新宿中村屋の創始者が設けた文化サロンに出入りしたり、親族の援助があるなどして、幸福にも立派な赤い瓦屋根のアトリエを設ける事が出来た画家です。不勉強で知らない画家でしたが、エルグレコの祭壇画のような縦長に伸びていく空間と、病弱であった故に、どこか悲痛な雰囲気を漂わせた洋画が印象的でした。整備されている以前は鬱蒼と木が茂っていたのに、現在記念館の庭は綺麗になりすぎて、観光地のレストランみたいでしたが、内部は当時の古い家具とボロボロの床板をあえて残していて、とても貴重な資料だと思いました。
 

 中井駅から近い、「林文子記念館」は必見です。晩年の作家、林芙美子が立てた住居です。林芙美子の名はその作品よりもむしろ、女優森光子が一世一代の大当たり役として演じていた菊田一夫脚本の舞台「放浪記」のほうで有名かもしれません。本来ならば歩くのもやっとの高齢の森光子が、毎回でんぐり返しをやってのけた大ロングランの舞台です。そのでんぐり返しを行うのが、現在も多くのビジネス旅館が軒を構える新宿4丁目、旭町と呼ばれていた通称ドヤ街の木賃宿です。新宿高島屋が建ったことで、随分町の印象が変わりましたが、この界隈は、つい10数年前程前まで連れ込み旅館や、生コン工場がひしめき合う甲州街道沿いの掃溜めのような場所でした。
 
 今も残る、ビジネス旅館の一泊の料金は驚愕。入り口の色っぽい意匠も、連れ込み宿だった頃の名残でしょうか?
 

 その日暮しの労働者達と共に、粗末な布団の端で、文章をつむぐ貧しい女性・・・女流作家を目指していた芙美子は、ある日自分の作品が世に出られる事を知って、男たちの前で、狂喜してでんぐり返しを行うのです。当時貧しい着物の女性がパンツを履いていたのかどうか・・・しかしそんな事を差し置いてもでんぐり返しをしないではいられない程に嬉しいという名シーンです。しかしそんな喜びと引き換えに、同室の妹のように可愛がっていた女性は、遊郭に身を売らねばならない事態に陥ります。やがて女流作家の第一人者となった芙美子は、人の犠牲や妬みの上に、自分の作家としての不動の栄光が築かれていく事に疲れていき、誰もが羨む下落合に建てた御殿のような自宅の書斎で、転寝をするうちに幕・・・というのが舞台「放浪記」の大まかなストーリーです。
 
 
 現実の芙美子も、晩年この記念館になっている住居の建設に並々ならぬ力を注いだと言います。京都の嵐山を模したであろう、孟宗竹の竹林が印象的な玄関口。庭の奥に設えた茶室・・・たしかに贅沢の極みでした。


 林芙美子記念館に行った後、不思議な体験をしました。その一週間後に、随分落合から離れた場所のとある表具屋さんに行くと、通常ならお目にかかれないような立派な文楽人形(お染久松の久松)が飾ってありました。表具屋の主が、私の人形が入ったガラスケースに向けた視線に気付いて「林さんのお亡くなりになったご子息のものです。一対のお染さん人形のほうは、まだ旧居の、たしか記念館になってる場所にあるらしいですよ。」と喋るのを戦慄しながら聞いたのを覚えています。今もお染さんと久松さんの人形は互いに呼び合っているのでしょうか?
 

 目白駅方面に向かう頃には、お屋敷町に相応しい門構えの家が多くなります。その中で、見た目はごくごく普通の民家ですが、実は内閣総理大臣にして公爵の爵位を持つ近衛文麿邸の一部だった家屋があります。周辺の近衛町はすべて近衛家のお屋敷の土地だったと言われていますが、財閥や華族の解体後、邸宅の一部であれ、よく残っていたな~と思います。現在は着物などの展示を行うカフェとして親しまれています。
 

 そして日立倶楽部は、財閥の社交クラブです。未来都市の要塞のようなデザインに目を奪われます。
 

 高台から見る景色。JRのトンネルを抜けると、高田馬場界隈で、左の坂道を登ると、目白駅にたどり着きます。
 

高台の迷宮・文士村~その1(大田区馬込)

2013年08月10日 | 近代建築
狂おしいほどの暑さが列島を覆う、今日この頃ですが、いかがお過ごしですか?
 当ブログの画素数が低い、見づらい画像を提供していたデジカメですが、雑な扱い故にとうとう大破してしまい、変わりに少しだけ画素数の高い、同仕様のカメラを使って、うきうきと向かったのが、馬込の文士村です。文士村とは、まだTVがメディアの主流で無かった時代、話題を独占していた文壇や画壇の作家たちが、互いの情報交換もかねて、寄り添うようにして住居を構えたお屋敷町の事です。主に高台の見晴らしの良い土地を中心とした独特な雰囲気は、庶民の羨望を掻き立てました。現在の感覚で言えば、芸能人の高級住宅街のようなものかもしれません。
 都内の主な文士村は、馬込文士村(大田区)、下落合文士村(新宿区)、田端文士村(北区)などです。しかし大正時代末期から昭和初期まで栄えた文士村も遠い昔話。都営浅草線の西の終点駅、言葉は悪いですが辺鄙な土地に、西馬込駅から馬込文士村に向かいました。駅前からこれといって何があるわけでも無い景観が続き、少し不安を募らせます。
 
 
 住居の立て替えが進んでいるため、現存している文士達の住居は博物館(画家の川端龍子記念館、書家の熊谷恒子記念館、赤毛のアンの翻訳家村岡花子文庫)になっていましたが、それ以外は、路上に点在している文士村の案内板を手がかりに、くねくねとわかりにくい道をひたすら歩くだけです。
 入り口に灯篭を据えたお宅は60年代に建てられた豪邸で、現在私設ギャラリーに。書家の熊谷恒子記念館は、数奇屋作りの船底天井になっている居間など、建物も見所。
  

 江戸時代以前、江戸城の基礎を築いた太田道灌が、はるか遠く富士山まで望めるこの馬込の場所に居城を構えようとしましたが、「九十九谷」と呼ばれる坂だらけの地形ゆえに、築城を諦めたという話が残ってます。心なしか、お屋敷町と言われた割には、住居の規模が小さいのはその為かもしれません。
 途中、物々しい神社に立ち寄りました。シイの木の原生林が残る一種霊的な雰囲気に包まれた神社です。
 

 やっと、古く文化的な香りのするお宅を発見。ダイヤと呼ばれるキラキラ光るガラスがはまったこれまたダイヤ型の明り取り。
 

 
 見晴らしは良いのですが、本当にこんな場所に北原白秋や、山本周五郎を初めとした作家の大先生が好んで住んでいたのでしょうか?そして今回の一番の目的は「旧三島由紀夫邸」を拝むというものですが、このお宅はご遺族の管理の下にあるために、詳しい住所が公開されていません。照り付ける太陽の下、もう歩けない・・・と思い始めた頃、道端に小さなお堂を発見しました。


 

 見晴らしの良い場所のお堂ということは、富士山そのものを崇めた富士講のお堂かもしれません。そのお堂と数件の住居を隔てた道には、これまた意味深な大谷石のブロックを配した坂道がありました。上部には富士山から運んできた溶岩石が所々残っていて、富士山の祭礼の場所として富士塚と呼ばれる塚がこの周辺に築かれた痕跡ではないでしょうか?

 三島関連の本を調べると、三島由紀夫が市谷の駐屯地で衝撃的な自決(三島事件)をしたのが1970年、そして馬込の文士村に転居してくるのが、1959年。わずか10年程の居住期間となった白亜の宮殿と呼ばれたその自宅で、作家は自分の人生の最後の仕上げとばかりに「豊饒の海」という4部作の大長編小説を書き続けます。そして最終ページの入稿後に、盾の会の4名を率いて、凄惨な死を遂げるのです。
 「豊穣の海」の物語は輪廻転生をテーマとした物語ですが、そのキーとなるのが暁に染まる富士山です。「富士」という呼び名は「不死」とも重なり、あまたある山岳の中でも、もっとも強大で霊的な力を有すると言われ、江戸時代は庶民の信仰や文化的価値の頂点にありました。高さ10数メートルの富士塚は、富士登山に行きたくても行けない庶民の為に、至る所に築かれ、お山開きの日には、老若男女が本当の登山さながらに、地域地域の富士塚に訪れました。もしかすると三島由紀夫は自宅を建てるにあたって、その富士山から不老不死のパワーを得ようと、富士講の聖地の上に自宅を建て、それゆえに溶岩石や富士講のお堂が、三島邸の建築と共に再度整備された可能性があるかもしれません。
 
 名前だって、静岡の三島からだし憶測だとしても放っておけない話ね。

ご近所では富士塚先生と呼ばれてたりして。

富士は日本のこころです。

富士は甦りの聖地です。

 三島由紀夫は自殺を示唆するような作品を多く残し、血潮に染まり苦悶に呻く男の肉体を、論理や精神を超越した崇高な形態(偶像)として、作品世界で描き続ける事のみならず、時には自らが血潮を浴びたヌードの被写体となってまで欲し続けました。ところが良識のある人々なら眉を潜めそうな退廃的な妄想に耽溺していた反面、「生」に対する執着もまた顕著で、時として作品は非常に楽天的であったり、「潮騒」のように、おおらかで瑞々しい生命の賛歌を描くことをも得意としていました。また代表作「金閣寺」では、自害しようとして金閣寺に火を放つも、勢いよく出る煙に恐怖を感じ、一人山に逃げ込む僧侶の姿が描かれています。欲していた死と、同時に沸き起こる生への渇望・・・おそらく作家が青年期に遭遇した、東京を襲った空襲の凄まじい殺戮の光景は、一方で血なまぐさく猛々しい死の妄想を育み、一方では動物的に死を恐れる忌避の本能を与えたに違いありません。死への潜在的恐怖心と対峙して生きていくこと、それはもしかしたら人類共通の一番大きなテーマかもそれません。全知全能の神ですらその解決を与えてくれない、絶対的に不可避な死の訪れを誰よりも恐怖するばかりに、かえって死を繰り返し直視し、限りなく装飾し、作品として描き続けてしまう・・・一見、死を美的なモチーフとして扱う作家とられられがちな三島ですが、本当は超絶的な「生」そのものを死の累積の奥に炙り出そうとしていたのではないでしょうか。一方では瑞々しい生、一方では凄惨な死、そのどちらを振り子のように均一のバランスで行き交っていた作家の相反する死生観の闘争は、やがて生死の倫理観を超えうる「輪廻転生」というテーマへと向かい、生と死が融和してそのどちらも傷つけない平和的な決着をつけるかに見えました。しかしその作品世界の総仕上げと言わんばかりに、カーキ色の軍服を血で染め抜いて、恍惚として旅立った作家自身によって、生と死の争いがより謎に包まれたものになってしまいました。その最後が、あまりにもセンセーショナルで不可解だった故に・・・。
 けれど死後、作品世界は芸術をこよなく尊んだ貴族的な作家の趣向と相まって、絢爛な巻物に描かれた読み物語を、蝋燭の明かりで眺め見るような不思議な感慨を読む人に与え続けます。


ポカーン・・・。

 旧居が近い・・・そう感じても、古い家の建て壊しの重機が道を塞いでいたりで、いっこうに目指す物件が見えません。諦めかけたその時、小道沿いに目に飛び込んだ「三島由紀夫」の表札。


スペインで入手したと言われる陶板タイルには、苦悶にうめく闘牛士の図柄。徹底した美学ぶり・・・。
 

 お庭には入れませんが、今も輝きを失わない白い壁面と大理石のアポロのレプリカの上半身が見えます。下には12宮の星座が描かれた雪のように白いモザイクタイルが敷きつめられ、最上階には、富士山を眺める物見のドームが取り付けられていたそうです。ここは、安らぎをえる住居というよりは、映画や写真などのメディアにも積極的に自分をアピールしたスター三島のいわば荘厳な舞台装置でした。



 ご近所の人の話を伺うと「中は非公開なのよ。こんな事なら都が買い取ればいいのに。」なんて仰っていましたが・・・。都心でもっとも標高の高い市ヶ谷台から、不老不死の命を得ようとして、お気に入りの刀、凛々しい軍服、そして武士道の美徳を体現していた部下を携えて、まるで歌舞伎の幕切れのようにして、暁に染まる富士山が誘う永遠の命の世界へ旅立って行った作家の、壮大な生き様に少しだけ触れたような気がしました。

 帰りに、池上本門寺に行きました。正直日蓮さんのお寺は、あまり雅な感じがしません。境内は広く、空襲を逃れた歴史的建造物もわずかですが残っています。江戸時代に作られた石段はとても急です。
 

 古風な酒屋さんが参道にありました。あと、自由雲と書いてジュンと読む変わった喫茶店もありました。
 



 おかしな左官屋さんに、戦前から変わらない風情の古い池上駅です。