ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

末広通り(吉祥寺・武蔵野市)

2010年07月30日 | 古い建物
 開発された巨大なビル群に隠れて小さな飲み屋や商店が、忘れ去られた路地裏でひっそりと息づく様に惹かれます。
 今回は若者が住みたい町ナンバーワン(?)の吉祥寺の魅力を余すところなくお伝えします。でもお洒落なカフェに、渋いジャズバー、美味しいパン屋の類は専門外ですので不思議な場所をご紹介いたします。
 まず、井の頭公園口から出ますと、狭く、騒々しいです。バスのロータリーが無いので、バス通るとなると大騒ぎ、それに居酒屋の呼び込みが拍車をかけて、毎日がお祭りです。
 そんな祭りの中のエレガントな総合ビル。『井の頭ビル』。ロゴがなんだか昔の「女囚さそり」とか「性獣学園」とか、ちょっと怖い昭和の映画のタイトルみたいです。「井の頭ヒル(蛭)」みたいな。


 井の頭ビルに入ってるテナントのご案内の看板が、文字が猛烈にひしめき合って並んでてカッコいいです。
 
 
 カラフルで見飽きる事はありません。
 

 井の頭ビルに佇む、銅像。何気に怖いです。銅像のタイトルは「花の精」。定礎は昭和49年です。
 

 東へ進むと、井の頭線のガード下です。ガードも駅に隣接するユザワヤのビルも現在改装工事中。以前は高架下に公共トイレがあって、昼でも薄暗い場所だったんですが、これからは変わるのでしょうか?南東へ500メートル程伸びている、大きな井の頭通りの裏通り的な「末広通り」をご紹介します。
  

 末広通りのわき道にある阿羅耶識院というお寺。とてもお寺には見えない駐車場に絵馬や地蔵ががズラリ。その近くには堂々とシャボンの国のネオン管・・・。
 

 宝古堂は何時もご店主が店先に座り込んで古物というより何か朽ち果てた物を売っていますが、閉店時に店の横を覗くと、ゴミ屋敷風味が若干効いています。お店の中も多分・・・。
 

 古い商店が並んでいます。吉祥寺では珍しく雰囲気のある一角。


 整髪院「ロダン」に「ぴかそ」に「ドガ」。美術の巨匠の名前が乱立している割にはアートな雰囲気は乏しいです。
  

 アートがありました・・・でも怖いです。お化け屋敷居酒屋ならぬ、恐怖バーでしょうか?それともただのアート作品?

   

そうこう言ってると、恐怖スポット浄霊導所に。建て増ししまくった2棟の物件の、非常階段と階段が繋がって、互いに行き来できるようです。
   

末広通りの表、井の頭通り沿いにも看板が沢山あります。なんだか、建物の内部からは刺すような視線を感じます。所々、バリケードのような柵もあって、全体の雰囲気が浅間山荘を思わせます。

 
 インチキなんて口が裂けてもいえません。末広通りは、大きな井の頭通りとの高低差があるために、時空そのものがずれているような雰囲気です。500メートルほど駅前から進むと途中で、井の頭通りに合流する形で、末広通りはなくなります。
   

 末広通りからそう遠くない所、井の頭公園傍にある高級住宅街の中、まことちゃんハウスは君臨します。針葉樹と赤のストライプが絵画的な雰囲気で、春は花々で満たされます。
   
 吉祥寺の魅力を伝えるつもりがなんだかオカルト案内になってしまいました・・・。

宮殿(西武柳沢駅・西東京市)

2010年07月28日 | 純喫茶
 西武新宿線の各駅にある様々な名所もご紹介もしてみることにします。西武線はおわい鉄道と呼ばれていた時期がありまして、もともと肥を運ぶ農業鉄道だったたそうです。そのためか、特に西武新宿線の沿線の駅前は開発が遅れ気味です。
 そんな西武新宿線でも特異なのは西武柳沢柳沢駅です。たぶん、西武新宿線の中で一番何も無い駅でしょう。無人駅でも驚かないといえば大げさですが、駅北側は廃屋と化した店舗に囲まれた駅前の広場が西部映画の無法者に荒らされた町のような佇まいです。そんな柳沢の駅前の片隅でかろうじて営業している喫茶店「宮殿」に行きました。昭和の空気満々の純喫茶店です。

 廃れに廃れた駅前の北口。買い手のつかない空き地や、窮屈な狭い飲み屋の路地が降りて直の場所にあります。

 駅前の宮殿の入り口。純喫茶にありがちなステンドガラスが建物上部にありますが、光を透かさない擬似ステンドグラスのようです。もうひとつの入り口は、鉄格子が入ったガラス窓が中世の宮殿のようです。そのどちらの入り口にも蝋細工の食品サンプルのケースがありました。
 

 コーヒーのお味も、内装も至って普通ですが、よくよく見れば奇妙な絵が飾ってあったり、用途の無い籠にウサギのマスコットが入っていたり、接客も知り合いの家にあがり込んで喋っているような砕けた感じがあります。店内にガラス張りの電話ボックスがあったりしたのは昭和の遺産を見るようでした。
 
 夜は結構、地元のお客で繁盛していましたし、卓上のシャンデリアが明々として綺麗です。


 宮殿のサンプルメニューです。蝋細工のサンプルのパスタが持ち上がるのはまあいいとして、ラップがけなのはいただけません。

 最後に西武柳沢の気になるお店。ふれあい・・・。ロゴデザインが情熱的です。

三鷹探索~その2(三鷹市)

2010年07月25日 | 飲み屋街
 三鷹探求です。
三鷹探索~その1の続きです。三鷹の南口は1990年に駅前の歩道が高架化したと同時に、駅前の様相は一転、戦後の写真などを見ると、三鷹周辺の鎮守である八幡神社へ向かう参道口の赤鳥居にネオン看板が掲げられていて、もし現在もあったらさぞキッチュで面白い光景であったあろうと思います。駅の下を北西から、南東に流れる多摩川上水から分離して、三鷹市を南東へ流れる品川用水路を暗渠化したさくら通り周辺も、経済の破綻のため、北口の光景同様だだっ広い駐輪場が広がっています。
 
しかし、さくら通り沿いの小道に入れば、ちょっと昭和ムードの小料理屋やスナックがひしめいています。旭町、本町通り、すずかけ通りと並ぶ三本の小道、この周辺こそ、まさに三鷹で最後の日々を送り、愛人と情死を遂げた太宰治の縁の地域だと知ると、
デカダンな香りにクラクラします。大衆酒場、「斜陽」に出てくるヤサグレ男が出てきそうな雰囲気です。「斜陽」に出てくる居酒屋は高円寺にあったようですが。


 まず三鷹駅から東へ程近い処、玉川上水上水のとある場所に文学碑のようなものがあります。


 この近辺に、玉川上水の傍、山本雄三文学館がある閑静な住宅街の近くに最後の居を、婦人と共に構えていた太宰治。しかし家族との折り合いが悪かったのか、太宰は三鷹駅前に住まう山崎富江という女性の元(野川住宅)に転がり込んで来ます。やがて訪れる2人の入水事件(昭和23年)の場所が、この玉川上水となります。
 今現在は、浅い流れの用水路ですが、当時は水中で土手に向かって深くえぐれる構造で、梅雨時は流れも強く、入水の場所は確認できたものの、遺体の発見まで6日要しました。文壇の寵児であり、文壇仲間に慕われていた太宰は素早く立派な葬式を出してもらえたものの、方や富江のほうは、遺族が田舎から見取りにくるまで4日も、土手近くに晒されていたと言います。作家として揺るがぬ地位を確立していた太宰を死に至らしめた罪を擦り付けられる形で、富江の素性が、およそ教養の欠片も無い刹那的な女のようなイメージを流布されるに至ります。しかし実際の富江は、戦前、大きな産業だった映画会社に結髪の技術者として出入りしていたキャリアウーマンでした。本郷に店を構えていましたが焼け出され、終戦を境に三鷹へ移った後も、昼は中央通沿いのミタカ美容院、夜は三鷹市役所近辺にあった進駐軍の将校専用のグランドキャバレーニューキャッスルのホステスの美容師として忙しく働いていました。このような女性がはたして入水自殺などを太宰に促したりするのでしょうか?
 太宰は戦前、アカと呼ばれる共産党運動に加担していたことで、三鷹に移り住んだ後も要注意人物として政府からマークされ、太宰は痴情事件と見せかけて暗殺されたとも言われ、真相は闇のままなのです。
 その次の年、昭和24年には、暴走する無人車両が三鷹駅西側にある車庫から民家に激突するという三鷹事件が起こっています。この事件もまた未解決で、当時国鉄職員の中に居た共産党員を投獄する所謂、アカ狩りを行っていた進駐軍による捏造事件であるとも言われています。戦後のドサクサ、不穏な空気を象徴するような事件として、太宰の死の謎と共にここに書き添えて置きます。

 駅前の小道、本町通りの光景ですが、富江の下宿先であった野川住宅跡、太宰が通っていた伊勢元酒店跡(現在太宰治文学サロン)もあります。
 

 本町通り、西部開拓時代の飲み屋のような光景です。
 

 レンガ模様のトタン張り、旭町通りのお店です。正面の店の奥にも赤提灯があってお色気たっぷりです。
 

 道行く人が「こんな店のホステスは婆さんだ。」と大声で言っていましたが、そんな事大きなお世話、婆さんだろうが若い女だろうが飲ませるのは同じお酒!しかし三鷹の何が凄いって、どんなにボロそうなお店も現役であるという事です。夕方にもなるとご高齢気味のママ達が、店の前のアロエの植え込みに水をやったり、いそいそとのれんをあげる光景がそこかしこで見られます。

 
 一見うらびれた通りでも、まだまだ元気。右奥の小料理屋桃川も営業中です。
  飲み屋の秘境三鷹はその3へ続く。

三鷹探索~その1(三鷹市・武蔵野市)

2010年07月23日 | 赤線・青線のある町
 JR中央線三鷹駅周辺は古い街角の雰囲気をを満喫する場所に乏しい町です。中央線の各駅の中では、いちはやく開発が入って駅の周辺が整備されてしまったからでしょうか。
 中央線の路線を挟んで、南側三鷹市には、むらさき橋通りと、雅な名前が残っています。江戸時代は、武蔵野市の井の頭池から豊富に出る湧き水と、三鷹周辺で取れたむらさき草の根で染められた、紫染め(江戸紫)の産地でした。
 戦時中は、三鷹市、武蔵野市には中島飛行機、日本無線などの工場が建ち、軍事産業の街となりました。したがって、都心から離れた郊外であるにも関わらず、大規模な空襲があり、中島飛行機工場が全壊、周辺の街も大きな被害を受けています。中島飛行機だった場所の広大な土地は現在、武蔵野市役所をはじめとした総合運動場などの公共施設になっています。

 三鷹駅の北側、武蔵野市中町一丁目「八丁通り」周辺は、空き地や、駐車場、閉じた商店が多く、駅前にも関わらず、閑散として寂しい街です。大きな駐車場の傍らには八丁稲荷があります。
 

 いつも気になっている建物。すでに使われていませんが、二階のバルコニーの手すりが砂利で塗装加工されています。向かって右側には溶岩石で出来た小さな滝の跡まであるし、外壁も溶岩石を使った懲りようで、周辺にもニ、三軒既に空き家となった居酒屋があります。
  

 八丁通り沿いには数軒のスナックが立ち、さらに小さな横道を確認しました。
 
 
 舗装されていない砂利道を明かりに誘われていくと、八丁通りの裏にあったであろう、昭和のうらびれた匂いムンムンの裏通りを見つけました。
 
 実はこちらの通りは、かつては武蔵野八丁通りという青線地帯でした。三鷹駅からさらに南へ直進すると、武蔵野市の総合体育館や市役所になりまして、そのあたりは戦時中、中島飛行機工場という広大な軍事工場のあった場所です。激しい空襲に晒された工場の跡地は進駐軍に接収されて、グリーンパークという米軍将校の住宅が出来ました。(現在の緑町という地名が当時の名残です。)そして今の市役所がある場所の西側には、プロ野球の興行を行っていた神宮球場が米軍の接収で使えない為に、新しくグリーンパーク野球場が三鷹にプロ野球の公式野球場として昭和26年にオープンしました。国民的娯楽施設の出現に水商売の業者が期待をかけたのは言うまでもなく、何やら怪しげな特殊飲食店がオープンしだしたのも、丁度昭和25~6年頃と言います。しかし終焉はあっけなく訪れます。水道橋に出来た後楽園球場の出現と、芝生に適さない土壌の問題やらで、グリーンパーク野球場は瞬く間に閉鎖。また武蔵野市の地域住民が、特殊飲食店の業者に対して、立ち退き運動を起こしました。(特殊飲食店街が形成されゆく事に当惑する市民の声は、ネット上で閲覧できる昭和26年の参議院会議録などで知ることが出来、大変興味深いものがあります。)


 今にも消えそうな町並みですが、これが意外と地元のお客さんで賑わっていて、なんともなんとも不思議なスナック通りです。
 夕暮れ時、街角に一人で佇んでいると、ネオンがまた一つ、また一つと明かりを点していく。昼は死んだと見せかけて闇が迫ると同時にその秘密の花弁を開き、生命を得る月見草のような看板たち・・・。

 JR三鷹駅の南側は、駅前に古い町並みはありませんが、まだ小さな通り沿いに、築年数の古い飲み屋が所々残っていて、面白い箇所がありそうなので散策してみました。
 多くのファンを持つ作家の太宰治は、終戦後間もなく、三鷹駅近く、多摩川浄水で情死をしましたが、生前出入りしていたといわれる酒屋の跡地に、現在太宰治の関連資料を集めた文学サロンがあるというのでどんな場所かと赴いて行ったら、これがうらびれた大衆酒場が軒を連ねる通り沿いで、腰を抜かしました。生憎サロンは閉まっていたのですが・・・。
   
 この看板の数・・・。なんでも三鷹は、中央線では阿佐ヶ谷並に次いで飲み屋件数が多い街だとか。戦後、三鷹が都心に並ぶの歓楽街を目指していた過去が微妙に陰りを与えてます。

 このいずみ通り(下連雀)の居酒屋の長屋はとても興味を引かれます。


 こちらの「しの平」。

 ガラス戸の意匠、丸い下地窓、竹の植え込み、縄のれん、モルタル壁に施された熔岩石風のタイル装飾、ガラスケースの中の貝殻、入り口上部の明り取りにはめられた穴空きの板・・・外見だけで酔ってしまいます。
   (その2へ続く)

瀬戸内の城下町(丸亀市)

2010年07月14日 | 赤線・青線のある町
 瀬戸内に面した香川県は琴平市金毘羅宮参りの帰りに、予讃線の丸亀駅に降りて、散策してみました。


 丸亀駅の北側は湾沿いの港町で、関西との流通はもとより、江戸時代東のお伊勢参りと西の金毘羅参りで人気を二分した参拝客を乗せた金毘羅船が停泊し、大いに賑わった名残として、古い宿が今も沢山軒を連ねます。また駅の南側は、日本一高く築かれた石垣で有名な丸亀城がそびえ、戦火に煽られなかった城下町が江戸時代からの、町並みの面影を留めています。ただ残念なことに殆どがシャッター通りで、空き店舗の老朽化も著しく、観光地としての魅力を欠いています。
 
 和風、洋風の建物を持つ、古いお菓子屋さんの洋館部分。右の建物は眼鏡屋さん。

 黒いタイルの大きな商店は現在NPO法人によってイベントスタジオとなっているようです。

 今回の散策の目的は丸亀駅、北側にある新町のカフェー街(遊郭街)跡を見る為です。丸亀のカフェーの存在を知ったのは、もう20年も前の事。たまたま見た新聞の記事で、「港町に残る古い洋館のアールデコ様式のステンドガラス」と書いていたのに興味を引かれて、わざわざ遠出をして見に行きました。その当時はカフェーを、前掛けした女給さんが銀のお盆でお茶を出す場所だと思っていました。それはカッフェーで、カフェーではありません。しかしステンドグラスのはまった洋風のカフェーを数軒、撮影してもはや満足。ついでに今度は駅の反対側、洋館や「うだつ」という火災よけの漆喰の装飾がある町屋作りの店舗が並ぶ商店街の中にある、古めかしい不動産を撮影していると、中からちょび髭の自由業種の二人組が出てきて脅された事など思い出します。
 
 

この光景にはドキっとします。カフェー街跡にある「厳島神社」ですが、鳥居と玉垣の中にバラックが建って集落を築いています。ここでも客を引く女性がいたのでしょうか?露天商がそのまま居ついてしまったような、なんとも説明がつかない光景ですが、瀬戸内には狭い境内に民家が立ち並ぶこんな場所が他にもあるようです。

 今回、久々に丸亀に訪れて、犬にすら会わない町の静けさに仰天し、悲しくなってしまいました。遊郭町だった海沿いの新町も、開発はなく、やはりカフェー跡は減っていました。




 崩れかかっていますが、華やかな手すりの装飾が遊郭のようでもあり、また芸者を呼ぶお茶さんのようでもあり・・・。

 戦後は、遊郭町(赤線)の整備にあたり、格子戸越しに女給さんが客に媚を売る、和風建築での営業は人道的でないと廃止され、1階に洋風のホールとカウンターを持つ開放的なカフェー(特殊飲食店)を構えていたようです。こちらの遊郭町は関西方面の建物の業者さんが内装外装を担当したのでしょうか?とても華やかなアールデコのデザインです。あまりにも洒落ているので本当に大正時代からあったのかと思ってしまいます。


 津坂洋服店です。丸窓に施されたアールデコの意匠、すすけていますが色違いのステンドグラスの入った出窓などこのように優美な店舗は再現不可能なのではないでしょうか?惜しくも現在取り壊しになったとか。

 20年前に中に入ってお邪魔したとあるクリーニング店では、葡萄模様の建付けのしっかりしたステンドグラスが一階の奥に何枚も入っていました。お店の人は、「そういうものが好奇の対象になっても今の商売には関係ない。」と呟くように言っていましたが、そのお店は無くなってしまったのか、今回見当たりませんでした。次訪れた時には、この町がどう様変わりしているか気になる所です。 こちらの建物はしっかりリフォームされていて目を楽しませてくれます。
  


春駒の恐ろしいまでに鮮やかな青いタイルに衝撃を受けました。
今日の実が明日の虚と入れ替わる時代を乗り越えた花が、港町の水際にその幻影を移したようなそんなインスピレーションを得た旅でした。




 

西荻の小道・・・(杉並区・西荻窪)

2010年07月05日 | 赤線・青線のある町
 北は青梅街道、南は五日市街道に挟まれたJR西荻窪駅の南口周辺のご紹介です。南口の様子は少し刺激的で、まず駅に食い込む形でパチンコ屋があり、南口出てすぐ見える景色は立ち食い蕎麦屋とピンクのハリボテの象がアーケードの上部に吊るされている怪しさこの上無い「仲通り商店街」。ガード下沿いに西へ進めば、「サカエ通り」で、明るい時間から焼き鳥の煙がモウモウ立ち昇る戦後の闇市のような立ち飲みやの通りで、所々にピンサロありで、堂々と従業員の顔写真を往来に貼り出して居ます。
 
 サカエ通りは戦後の闇市の名残です。純喫茶DANTEはいつも繁盛しています。
  

 この仲通り商店街の中は道幅狭く、人工照明の明かりは暗く、天窓部分の覆いの赤と緑の色合いが物悲しげです。また上部にピンクの象は地域のお祭りで活躍するハリボテですが、お祭りが無いときはこうして吊るしてあるのだそうです。
 

駅側から反対側の景色はまた渋く、三丁目の夕日の世界です。 
  

 こちらは西荻窪を代表する不思議な場所です。駅南口から西荻銀座商店街を抜けて、西荻南中央通り商店街にあるお茶と乾物屋さんですが、お客への呼び込みの文句でしょうか、「健康への近道!千年の齢を得る為には茶を服せ!」などとご店主さんの力強い説法が店中に貼り付けられています。そして特筆すべきは店主さんによって描かれたオリジナルイラストです。出桁作りの古い店頭を飾る看板に、茶壷の顔をした女給さんが描かれていますが、そのユーモアセンスに惹かれます。
 

 ご店主さんのありがたい説法は、柱、看板、日曜道具、ありとあらゆるものにペンキで書き付けられています。しかしなんといっても極めつけはご店主が描いた「神農」です。薬業を営む人々の信仰する神様です。
 
 
 ディープスポットに事欠かない西荻窪南口。ガード下脇のサカエ通りに平行したさらに細い通り、「柳小路」という場所です。
  

 ここ数年で知った事ですが、実はこちらは若者の注目スポットなのです。エスニック系の料理屋何軒も入り、いかにも恐ろしげだった、2階建の古い小料理屋風の建物が、リノベーションされて、和洋折衷のインテリアを飾り付けられ、何時行ってもお祭りムードのアジアのマーケットのような雰囲気で通りが統一されつつあります。
  

 しかし夜ともなれば、まだまだこの通りの怪しさは健在、闇と極彩色の渦の中、ちょっとほろ酔い加減で、お店の外のトイレを使うにも、周辺はバラックでトタンの壁の迷路になっていたりと、あまりの非日常の雰囲気に、酔いがさらに進んでしまうようなそんな雰囲気です。