ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

高台の迷宮・文士村~その1(大田区馬込)

2013年08月10日 | 近代建築
狂おしいほどの暑さが列島を覆う、今日この頃ですが、いかがお過ごしですか?
 当ブログの画素数が低い、見づらい画像を提供していたデジカメですが、雑な扱い故にとうとう大破してしまい、変わりに少しだけ画素数の高い、同仕様のカメラを使って、うきうきと向かったのが、馬込の文士村です。文士村とは、まだTVがメディアの主流で無かった時代、話題を独占していた文壇や画壇の作家たちが、互いの情報交換もかねて、寄り添うようにして住居を構えたお屋敷町の事です。主に高台の見晴らしの良い土地を中心とした独特な雰囲気は、庶民の羨望を掻き立てました。現在の感覚で言えば、芸能人の高級住宅街のようなものかもしれません。
 都内の主な文士村は、馬込文士村(大田区)、下落合文士村(新宿区)、田端文士村(北区)などです。しかし大正時代末期から昭和初期まで栄えた文士村も遠い昔話。都営浅草線の西の終点駅、言葉は悪いですが辺鄙な土地に、西馬込駅から馬込文士村に向かいました。駅前からこれといって何があるわけでも無い景観が続き、少し不安を募らせます。
 
 
 住居の立て替えが進んでいるため、現存している文士達の住居は博物館(画家の川端龍子記念館、書家の熊谷恒子記念館、赤毛のアンの翻訳家村岡花子文庫)になっていましたが、それ以外は、路上に点在している文士村の案内板を手がかりに、くねくねとわかりにくい道をひたすら歩くだけです。
 入り口に灯篭を据えたお宅は60年代に建てられた豪邸で、現在私設ギャラリーに。書家の熊谷恒子記念館は、数奇屋作りの船底天井になっている居間など、建物も見所。
  

 江戸時代以前、江戸城の基礎を築いた太田道灌が、はるか遠く富士山まで望めるこの馬込の場所に居城を構えようとしましたが、「九十九谷」と呼ばれる坂だらけの地形ゆえに、築城を諦めたという話が残ってます。心なしか、お屋敷町と言われた割には、住居の規模が小さいのはその為かもしれません。
 途中、物々しい神社に立ち寄りました。シイの木の原生林が残る一種霊的な雰囲気に包まれた神社です。
 

 やっと、古く文化的な香りのするお宅を発見。ダイヤと呼ばれるキラキラ光るガラスがはまったこれまたダイヤ型の明り取り。
 

 
 見晴らしは良いのですが、本当にこんな場所に北原白秋や、山本周五郎を初めとした作家の大先生が好んで住んでいたのでしょうか?そして今回の一番の目的は「旧三島由紀夫邸」を拝むというものですが、このお宅はご遺族の管理の下にあるために、詳しい住所が公開されていません。照り付ける太陽の下、もう歩けない・・・と思い始めた頃、道端に小さなお堂を発見しました。


 

 見晴らしの良い場所のお堂ということは、富士山そのものを崇めた富士講のお堂かもしれません。そのお堂と数件の住居を隔てた道には、これまた意味深な大谷石のブロックを配した坂道がありました。上部には富士山から運んできた溶岩石が所々残っていて、富士山の祭礼の場所として富士塚と呼ばれる塚がこの周辺に築かれた痕跡ではないでしょうか?

 三島関連の本を調べると、三島由紀夫が市谷の駐屯地で衝撃的な自決(三島事件)をしたのが1970年、そして馬込の文士村に転居してくるのが、1959年。わずか10年程の居住期間となった白亜の宮殿と呼ばれたその自宅で、作家は自分の人生の最後の仕上げとばかりに「豊饒の海」という4部作の大長編小説を書き続けます。そして最終ページの入稿後に、盾の会の4名を率いて、凄惨な死を遂げるのです。
 「豊穣の海」の物語は輪廻転生をテーマとした物語ですが、そのキーとなるのが暁に染まる富士山です。「富士」という呼び名は「不死」とも重なり、あまたある山岳の中でも、もっとも強大で霊的な力を有すると言われ、江戸時代は庶民の信仰や文化的価値の頂点にありました。高さ10数メートルの富士塚は、富士登山に行きたくても行けない庶民の為に、至る所に築かれ、お山開きの日には、老若男女が本当の登山さながらに、地域地域の富士塚に訪れました。もしかすると三島由紀夫は自宅を建てるにあたって、その富士山から不老不死のパワーを得ようと、富士講の聖地の上に自宅を建て、それゆえに溶岩石や富士講のお堂が、三島邸の建築と共に再度整備された可能性があるかもしれません。
 
 名前だって、静岡の三島からだし憶測だとしても放っておけない話ね。

ご近所では富士塚先生と呼ばれてたりして。

富士は日本のこころです。

富士は甦りの聖地です。

 三島由紀夫は自殺を示唆するような作品を多く残し、血潮に染まり苦悶に呻く男の肉体を、論理や精神を超越した崇高な形態(偶像)として、作品世界で描き続ける事のみならず、時には自らが血潮を浴びたヌードの被写体となってまで欲し続けました。ところが良識のある人々なら眉を潜めそうな退廃的な妄想に耽溺していた反面、「生」に対する執着もまた顕著で、時として作品は非常に楽天的であったり、「潮騒」のように、おおらかで瑞々しい生命の賛歌を描くことをも得意としていました。また代表作「金閣寺」では、自害しようとして金閣寺に火を放つも、勢いよく出る煙に恐怖を感じ、一人山に逃げ込む僧侶の姿が描かれています。欲していた死と、同時に沸き起こる生への渇望・・・おそらく作家が青年期に遭遇した、東京を襲った空襲の凄まじい殺戮の光景は、一方で血なまぐさく猛々しい死の妄想を育み、一方では動物的に死を恐れる忌避の本能を与えたに違いありません。死への潜在的恐怖心と対峙して生きていくこと、それはもしかしたら人類共通の一番大きなテーマかもそれません。全知全能の神ですらその解決を与えてくれない、絶対的に不可避な死の訪れを誰よりも恐怖するばかりに、かえって死を繰り返し直視し、限りなく装飾し、作品として描き続けてしまう・・・一見、死を美的なモチーフとして扱う作家とられられがちな三島ですが、本当は超絶的な「生」そのものを死の累積の奥に炙り出そうとしていたのではないでしょうか。一方では瑞々しい生、一方では凄惨な死、そのどちらを振り子のように均一のバランスで行き交っていた作家の相反する死生観の闘争は、やがて生死の倫理観を超えうる「輪廻転生」というテーマへと向かい、生と死が融和してそのどちらも傷つけない平和的な決着をつけるかに見えました。しかしその作品世界の総仕上げと言わんばかりに、カーキ色の軍服を血で染め抜いて、恍惚として旅立った作家自身によって、生と死の争いがより謎に包まれたものになってしまいました。その最後が、あまりにもセンセーショナルで不可解だった故に・・・。
 けれど死後、作品世界は芸術をこよなく尊んだ貴族的な作家の趣向と相まって、絢爛な巻物に描かれた読み物語を、蝋燭の明かりで眺め見るような不思議な感慨を読む人に与え続けます。


ポカーン・・・。

 旧居が近い・・・そう感じても、古い家の建て壊しの重機が道を塞いでいたりで、いっこうに目指す物件が見えません。諦めかけたその時、小道沿いに目に飛び込んだ「三島由紀夫」の表札。


スペインで入手したと言われる陶板タイルには、苦悶にうめく闘牛士の図柄。徹底した美学ぶり・・・。
 

 お庭には入れませんが、今も輝きを失わない白い壁面と大理石のアポロのレプリカの上半身が見えます。下には12宮の星座が描かれた雪のように白いモザイクタイルが敷きつめられ、最上階には、富士山を眺める物見のドームが取り付けられていたそうです。ここは、安らぎをえる住居というよりは、映画や写真などのメディアにも積極的に自分をアピールしたスター三島のいわば荘厳な舞台装置でした。



 ご近所の人の話を伺うと「中は非公開なのよ。こんな事なら都が買い取ればいいのに。」なんて仰っていましたが・・・。都心でもっとも標高の高い市ヶ谷台から、不老不死の命を得ようとして、お気に入りの刀、凛々しい軍服、そして武士道の美徳を体現していた部下を携えて、まるで歌舞伎の幕切れのようにして、暁に染まる富士山が誘う永遠の命の世界へ旅立って行った作家の、壮大な生き様に少しだけ触れたような気がしました。

 帰りに、池上本門寺に行きました。正直日蓮さんのお寺は、あまり雅な感じがしません。境内は広く、空襲を逃れた歴史的建造物もわずかですが残っています。江戸時代に作られた石段はとても急です。
 

 古風な酒屋さんが参道にありました。あと、自由雲と書いてジュンと読む変わった喫茶店もありました。
 



 おかしな左官屋さんに、戦前から変わらない風情の古い池上駅です。
  

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