もう今は無い地名ですが、鮫ヶ橋谷町と呼ばれていた場所に行ってきました。明治時代、下谷万年町、芝新網街、鮫河橋は明治時代、帝都三大スラムと言われていたらしく、現在はその痕跡すらないとの事でしたが、興味を掻き立てられて、新宿区荒木町と、新宿区左門町の散歩がてら、その近隣にあった鮫ヶ橋へもお散歩です。
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丸の内線四谷三丁目駅から徒歩数分、芸者街の三業地(見番・待合・料理屋が提携する三業)というシステムを持った街として栄えた「荒木町」にある石畳が大好きです。同じ新宿区神楽坂も石畳が有名ですが、ここ荒木町はすり鉢状の地形で、細い路地が螺旋状に下へ下へ潜って行く珍しい地形です。そこに石畳が部分的に残っています。かつて芸者さんが通った時に聞こえた下駄の音が聞こえてきそうです。
荒木町は防衛庁が北側にありますし、日本TVが建っていた頃などは、新橋、赤坂、神楽坂などの高級な芸者街と違って気取らない気風と、隠れ家風の雰囲気が受けてそこそこの賑わいだったらしいのですが、時代の変化と共に置屋の見番も芸者さんも廃業し、貸し座敷を行っていた待合が料理を出す料亭に鞍替えした店舗や、小料理屋などがひしめくレトロな雰囲気を残した飲み屋街に変貌してしまいました。しかしすり鉢状の地形の一番下部の石畳沿いにはいまは営業をやめてしまった待合の建物がまだ空き家として、沢山残っています。入り口など、いまにも芸者さんが門をくぐっていきそうな味わいのある佇まいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/0f/b86498322264109e1234f8f06b0bd43d.jpg)
とくに地形の一番の底にあたる部分、枯れそうな池がある津の守弁財天のあたりの静けさは、哀感たっぷり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/19/56ee7d0ad1953a86a9e4485b0c59281d.jpg)
昔は、水しぶきを上げる滝の名所で、荒木町が芸者街になる以前は、水位が高く、舟遊びができる広大な池まであったと言います。もともと最初は津の守屋敷という江戸城の守りとして配備された武家屋敷の敷地にある池でしたが、都市が整備されて、湧き水が少なくなり水位が下がって行ったようです。
唯一、荒木町の昔の姿をとどめる流しの三味線引きの方が現役で、今も着流し姿でネオンに浮かぶ石畳を歩いています。その存在は貴重です。
次は新宿通りを跨いで、左門町にある「於岩稲荷田宮神社」へお参りに。歌舞伎戯曲の傑作、東海道四谷怪談の舞台となった場所です。お岩様がうらめしや~と出てきて祟る怪談話はあくまでも戯曲上の事で、実際はお岩様は、傾きかけた田宮家のお家再興のために屋敷神のお稲荷様で祈り続け、ついにお家再興へ導いたと言われる武家の妻の鏡でした。そんなお岩様にあやかろうと、江戸市民で賑わった場所で、細い道を挟んで、田宮家の屋敷内にあったと言われるお稲荷様と、お岩様自体を霊神としてあがめるお寺が向かいあっています。なぜに二箇所かというと、お岩稲荷が火事で焼けた際に、それでも参拝客が絶えないことから、一時的に参拝場所として向かいのお寺が場所を開放したことから、現在も霊神としてお岩様を奉っているということ。一応お寺なので仏式の祭壇があります。また周囲は様々なお寺が多く、なぜかひんやりとする風が吹き抜けていくような不思議な場所です。
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そして左門町の東隣の須賀町にある「須賀神社」へもお参り。北側は土地が低くなった崖で、崖下に広がるお寺や家屋を望めると、とてもいい眺めです。
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須賀神社の社殿は新しいのですが、須賀神社が建つ石垣は古く、城壁のようで、北側に広がる寺町の眺めには情緒があって、まるで浮世絵の世界です。
須賀神社から、南へ赤坂御用地迎賓館の方向へ歩を進めると、明治~大正時代に、「鮫河橋谷町」と呼ばれていたスラム街の跡地になります。荒木町と同じく、周囲から落ち窪んだ場所ですが、鮫河橋の由来となった川も橋も埋め立てられました。赤坂御用地に近い南側の部分は、中央線を架設するにあたって、政府によって大規模な強制退去も行われて、現在は大きな公園となっています。また関東大震災にも見舞われているので、当時のスラム街をしのぶ物はいっさい無いと言っていいでしょう。地名も今現在は別の名前に変えられています。
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唯一形跡として感じられたのは、中央線を境とした、北側の地域です。舗装されていない私道の狭い道路が建物同士の間をぬっています。飲み屋のお勝手口のような暗い通路もあれば、綺麗に掃き清められた石畳もあります。
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明治時代、帝都が整備されていくなかで、都市に働き口を求めた人々が流れ込み、この地域に大スラムが形成され始めたようです。南側の赤坂御用地、迎賓館があった場所は、当時陸軍士官学校の敷地でしたので、人々は軍隊が出す廃棄物のおこぼれで生活していたわけです。しかしスラムと言えど、住んでいたのは勤労者が殆どで、男は車夫、女は内職といった具合に生活の糧はありました。鮫ヶ橋以外のスラムの地域では、日常生活に必要な道具作り、屑拾い、街娼、男娼、芸人など業種は様々。スラムがどんなに不衛生で貧しくても、人々はしっかり地面に根をおろして生活していたと思われます。
迎賓館の隣の敷地の現在公園となっている部分の片隅に鮫河橋の由来の碑が立っていました。新宿で見る景色はどこか悲しいのは何故でしょう?
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丸の内線四谷三丁目駅から徒歩数分、芸者街の三業地(見番・待合・料理屋が提携する三業)というシステムを持った街として栄えた「荒木町」にある石畳が大好きです。同じ新宿区神楽坂も石畳が有名ですが、ここ荒木町はすり鉢状の地形で、細い路地が螺旋状に下へ下へ潜って行く珍しい地形です。そこに石畳が部分的に残っています。かつて芸者さんが通った時に聞こえた下駄の音が聞こえてきそうです。
荒木町は防衛庁が北側にありますし、日本TVが建っていた頃などは、新橋、赤坂、神楽坂などの高級な芸者街と違って気取らない気風と、隠れ家風の雰囲気が受けてそこそこの賑わいだったらしいのですが、時代の変化と共に置屋の見番も芸者さんも廃業し、貸し座敷を行っていた待合が料理を出す料亭に鞍替えした店舗や、小料理屋などがひしめくレトロな雰囲気を残した飲み屋街に変貌してしまいました。しかしすり鉢状の地形の一番下部の石畳沿いにはいまは営業をやめてしまった待合の建物がまだ空き家として、沢山残っています。入り口など、いまにも芸者さんが門をくぐっていきそうな味わいのある佇まいです。
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とくに地形の一番の底にあたる部分、枯れそうな池がある津の守弁財天のあたりの静けさは、哀感たっぷり。
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昔は、水しぶきを上げる滝の名所で、荒木町が芸者街になる以前は、水位が高く、舟遊びができる広大な池まであったと言います。もともと最初は津の守屋敷という江戸城の守りとして配備された武家屋敷の敷地にある池でしたが、都市が整備されて、湧き水が少なくなり水位が下がって行ったようです。
唯一、荒木町の昔の姿をとどめる流しの三味線引きの方が現役で、今も着流し姿でネオンに浮かぶ石畳を歩いています。その存在は貴重です。
次は新宿通りを跨いで、左門町にある「於岩稲荷田宮神社」へお参りに。歌舞伎戯曲の傑作、東海道四谷怪談の舞台となった場所です。お岩様がうらめしや~と出てきて祟る怪談話はあくまでも戯曲上の事で、実際はお岩様は、傾きかけた田宮家のお家再興のために屋敷神のお稲荷様で祈り続け、ついにお家再興へ導いたと言われる武家の妻の鏡でした。そんなお岩様にあやかろうと、江戸市民で賑わった場所で、細い道を挟んで、田宮家の屋敷内にあったと言われるお稲荷様と、お岩様自体を霊神としてあがめるお寺が向かいあっています。なぜに二箇所かというと、お岩稲荷が火事で焼けた際に、それでも参拝客が絶えないことから、一時的に参拝場所として向かいのお寺が場所を開放したことから、現在も霊神としてお岩様を奉っているということ。一応お寺なので仏式の祭壇があります。また周囲は様々なお寺が多く、なぜかひんやりとする風が吹き抜けていくような不思議な場所です。
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そして左門町の東隣の須賀町にある「須賀神社」へもお参り。北側は土地が低くなった崖で、崖下に広がるお寺や家屋を望めると、とてもいい眺めです。
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須賀神社の社殿は新しいのですが、須賀神社が建つ石垣は古く、城壁のようで、北側に広がる寺町の眺めには情緒があって、まるで浮世絵の世界です。
須賀神社から、南へ赤坂御用地迎賓館の方向へ歩を進めると、明治~大正時代に、「鮫河橋谷町」と呼ばれていたスラム街の跡地になります。荒木町と同じく、周囲から落ち窪んだ場所ですが、鮫河橋の由来となった川も橋も埋め立てられました。赤坂御用地に近い南側の部分は、中央線を架設するにあたって、政府によって大規模な強制退去も行われて、現在は大きな公園となっています。また関東大震災にも見舞われているので、当時のスラム街をしのぶ物はいっさい無いと言っていいでしょう。地名も今現在は別の名前に変えられています。
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唯一形跡として感じられたのは、中央線を境とした、北側の地域です。舗装されていない私道の狭い道路が建物同士の間をぬっています。飲み屋のお勝手口のような暗い通路もあれば、綺麗に掃き清められた石畳もあります。
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明治時代、帝都が整備されていくなかで、都市に働き口を求めた人々が流れ込み、この地域に大スラムが形成され始めたようです。南側の赤坂御用地、迎賓館があった場所は、当時陸軍士官学校の敷地でしたので、人々は軍隊が出す廃棄物のおこぼれで生活していたわけです。しかしスラムと言えど、住んでいたのは勤労者が殆どで、男は車夫、女は内職といった具合に生活の糧はありました。鮫ヶ橋以外のスラムの地域では、日常生活に必要な道具作り、屑拾い、街娼、男娼、芸人など業種は様々。スラムがどんなに不衛生で貧しくても、人々はしっかり地面に根をおろして生活していたと思われます。
迎賓館の隣の敷地の現在公園となっている部分の片隅に鮫河橋の由来の碑が立っていました。新宿で見る景色はどこか悲しいのは何故でしょう?
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