ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

四谷界隈(新宿区)

2010年06月26日 | 芸者町・三業地跡
もう今は無い地名ですが、鮫ヶ橋谷町と呼ばれていた場所に行ってきました。明治時代、下谷万年町、芝新網街、鮫河橋は明治時代、帝都三大スラムと言われていたらしく、現在はその痕跡すらないとの事でしたが、興味を掻き立てられて、新宿区荒木町と、新宿区左門町の散歩がてら、その近隣にあった鮫ヶ橋へもお散歩です。
  

 丸の内線四谷三丁目駅から徒歩数分、芸者街の三業地(見番・待合・料理屋が提携する三業)というシステムを持った街として栄えた「荒木町」にある石畳が大好きです。同じ新宿区神楽坂も石畳が有名ですが、ここ荒木町はすり鉢状の地形で、細い路地が螺旋状に下へ下へ潜って行く珍しい地形です。そこに石畳が部分的に残っています。かつて芸者さんが通った時に聞こえた下駄の音が聞こえてきそうです。
 荒木町は防衛庁が北側にありますし、日本TVが建っていた頃などは、新橋、赤坂、神楽坂などの高級な芸者街と違って気取らない気風と、隠れ家風の雰囲気が受けてそこそこの賑わいだったらしいのですが、時代の変化と共に置屋の見番も芸者さんも廃業し、貸し座敷を行っていた待合が料理を出す料亭に鞍替えした店舗や、小料理屋などがひしめくレトロな雰囲気を残した飲み屋街に変貌してしまいました。しかしすり鉢状の地形の一番下部の石畳沿いにはいまは営業をやめてしまった待合の建物がまだ空き家として、沢山残っています。入り口など、いまにも芸者さんが門をくぐっていきそうな味わいのある佇まいです。
 
 とくに地形の一番の底にあたる部分、枯れそうな池がある津の守弁財天のあたりの静けさは、哀感たっぷり。

 昔は、水しぶきを上げる滝の名所で、荒木町が芸者街になる以前は、水位が高く、舟遊びができる広大な池まであったと言います。もともと最初は津の守屋敷という江戸城の守りとして配備された武家屋敷の敷地にある池でしたが、都市が整備されて、湧き水が少なくなり水位が下がって行ったようです。
 唯一、荒木町の昔の姿をとどめる流しの三味線引きの方が現役で、今も着流し姿でネオンに浮かぶ石畳を歩いています。その存在は貴重です。

 次は新宿通りを跨いで、左門町にある「於岩稲荷田宮神社」へお参りに。歌舞伎戯曲の傑作、東海道四谷怪談の舞台となった場所です。お岩様がうらめしや~と出てきて祟る怪談話はあくまでも戯曲上の事で、実際はお岩様は、傾きかけた田宮家のお家再興のために屋敷神のお稲荷様で祈り続け、ついにお家再興へ導いたと言われる武家の妻の鏡でした。そんなお岩様にあやかろうと、江戸市民で賑わった場所で、細い道を挟んで、田宮家の屋敷内にあったと言われるお稲荷様と、お岩様自体を霊神としてあがめるお寺が向かいあっています。なぜに二箇所かというと、お岩稲荷が火事で焼けた際に、それでも参拝客が絶えないことから、一時的に参拝場所として向かいのお寺が場所を開放したことから、現在も霊神としてお岩様を奉っているということ。一応お寺なので仏式の祭壇があります。また周囲は様々なお寺が多く、なぜかひんやりとする風が吹き抜けていくような不思議な場所です。

 そして左門町の東隣の須賀町にある「須賀神社」へもお参り。北側は土地が低くなった崖で、崖下に広がるお寺や家屋を望めると、とてもいい眺めです。

 須賀神社の社殿は新しいのですが、須賀神社が建つ石垣は古く、城壁のようで、北側に広がる寺町の眺めには情緒があって、まるで浮世絵の世界です。

 須賀神社から、南へ赤坂御用地迎賓館の方向へ歩を進めると、明治~大正時代に、「鮫河橋谷町」と呼ばれていたスラム街の跡地になります。荒木町と同じく、周囲から落ち窪んだ場所ですが、鮫河橋の由来となった川も橋も埋め立てられました。赤坂御用地に近い南側の部分は、中央線を架設するにあたって、政府によって大規模な強制退去も行われて、現在は大きな公園となっています。また関東大震災にも見舞われているので、当時のスラム街をしのぶ物はいっさい無いと言っていいでしょう。地名も今現在は別の名前に変えられています。
  

 唯一形跡として感じられたのは、中央線を境とした、北側の地域です。舗装されていない私道の狭い道路が建物同士の間をぬっています。飲み屋のお勝手口のような暗い通路もあれば、綺麗に掃き清められた石畳もあります。


 明治時代、帝都が整備されていくなかで、都市に働き口を求めた人々が流れ込み、この地域に大スラムが形成され始めたようです。南側の赤坂御用地、迎賓館があった場所は、当時陸軍士官学校の敷地でしたので、人々は軍隊が出す廃棄物のおこぼれで生活していたわけです。しかしスラムと言えど、住んでいたのは勤労者が殆どで、男は車夫、女は内職といった具合に生活の糧はありました。鮫ヶ橋以外のスラムの地域では、日常生活に必要な道具作り、屑拾い、街娼、男娼、芸人など業種は様々。スラムがどんなに不衛生で貧しくても、人々はしっかり地面に根をおろして生活していたと思われます。

 迎賓館の隣の敷地の現在公園となっている部分の片隅に鮫河橋の由来の碑が立っていました。新宿で見る景色はどこか悲しいのは何故でしょう?
 
 

ファンキーな横丁(武蔵野市・吉祥寺)

2010年06月20日 | 飲み屋街
 私はあまりお酒は飲みなれないので、酒場は眺める場所と決めています。眺めてるだけで酔えるのですからこんな安上がりな事はありません。(店の前でウロウロする冷やかし客と嫌がられますが。) 
 
 JR吉祥寺駅北口前に迷宮のような酒場があります。中央線吉祥寺駅の駅前に開けた戦後の闇市が、そのまま商店街を形成した「ハーモニカ横丁商店街」です。店舗数100件ほどが、平和通りとダイヤ街チェリーナード商店街に挟まれる形で、南北をハーモニカのように並んで、それぞれ名前のついた細い通りが何本も貫いています。

 
駅から出てすぐ、まず目に飛び込んでくる賑々しくも雑然とした光景、南側の平和通に面した部分は古くからの看板をそのまま使い、粗末なバラックの建物が物々しく、まさにハーモニカのように小さな入り口が並んで口を開いています。一方北側はダイヤ街に面した部分で、サトウのメンチカツなど行列のお店が何軒もあって、人通りは昼夜絶えず、毎日が縁日のようです。
 
 そしてハーモニカ横丁の内部、仲見世通りやのれん小道といった通りは、薄汚い裏街道の集積所かと思いきや、内装にこだわった多国籍バーやデザイナーやミュージシャンが集う、開放的な雰囲気の焼き鳥屋がひしめいて、とてもお洒落な感じがする飲み屋街です。

 一方吉祥寺駅北口から東へヨドバシカメラの裏側の土地が歓楽街なので、さらにディープな感じがお好きな方はそちらへどうぞ。ハーモニカ横丁は休日ともなると家族連れで、この戦後からずっと現役選手の小迷宮をおっかなびっくりウロウロしている姿も沢山ありました。

 昼に平和通りから撮影すると、餃子屋さんのその向こうのダイヤ街の商店街が見えます。通りを飾る提灯もいかにもな赤提灯ではなく、ポップで可愛らしい感じです。

西荻窪のタイル店舗(杉並区・西荻北)

2010年06月19日 | 古い建物
 JR中央線、西荻窪駅北口から、北へ直進したあたりにあるユニークな建物を紹介いたします。

 美容院の隣の若草というお店ですが、モダンなタイル装飾が・・・。
 
 タイルは水に強く、清潔の象徴であったから、カフェー(遊郭)や美容院の建物で好んで使われたようです。時代感覚を感じさせるデザインです。


 同じく杉並の善福寺にある建築家レーモンドが建てた、東京女子大の入り口です。2007年まで老朽化などの理由で取り壊されたチェコ・キュビズムの重要な2つの建物、旧寄宿舎と体育館がまだ校内に存在していたようです。残された校舎や、門構えなども、立派です。

溢れる風情~和歌水(武蔵野市・吉祥寺)

2010年06月18日 | 旅荘・簡易宿所
 
 JR中央線と京王井の頭線が交わる、吉祥寺駅から南へすぐの所に、井の頭公園があります。桜の大木が公園内を埋め尽くし、神田川の源流となる湧き水が流れ、古くは徳川家康の時代から鷹狩の場所となっていました。また公園内の広大な池にある井の頭弁才天は、弁才天としては都内では比較的大きな社殿を持ち、江戸名所図絵などにもその様子が描かれています。ただ、この近辺に戦時中、軍事飛行機製造工場の中島飛行機工場があった為、都心から離れているにも関わらず、都心の西端の町、八王子と共に比較的大きな空襲があったため、昔を凌ぐような建造物などは無い町です。


 焼き鳥屋の老舗、いせやの公園口店は古くて、特に一階は中国の屋台みたいですが、御殿山にあるもう一つの店舗は改装して上層階はマンションに。(2012年より、公園口店も改装のため取り壊しが決定しました。)

 花見のシーズンでなくても何かと人が集まり騒々しい井の頭公園ですが、実は閑静な場所もあります。そこは井の頭公園の西の階段脇にある「旅荘和歌水」という所です。
 

駅の近くでありながら、郊外の静けさ。近くには料亭やフランス料理屋もあります。
 

入り口に雅な小庭で心づくしのおもてなし。(常識的にお一人様はX) 
 

この和歌水、終戦後井の頭公園周辺は、池をぐるりと囲む形に、連れ込み旅館だらけだったと言いますが、その数少ない生き残りです。しかし連れ込み旅館というのは俗称で、「旅荘」「ビジネスホテル」「観光旅館」などと、一応は旅館業の形態を取っていることを政府にアピールしなくてはなりません。
 
 和歌水と同じ敷地には、これまた物々しい「井の頭ホテル」がそびえます。これは何処から見てもラブ○です。
  
 昨今は地方のドライブウエイでもなかなかお目にかかれない中世のお城型をしたラブ○、出来た当初の近隣住民の当惑は凄いものがあったと思われますが・・・。
『最高設備と景観』と何気に高級志向を売りにしてます。観光の文字まで見えます。生まれも育ちも根っからのスベタが「あたいはこう見えても育ちだけはいいんだよ!」と見栄を切るのは人に限らず建物も同じです。
 
 井の頭の池に浮かぶこのスワン・・・どの娘も器量よし。

練馬の休日(練馬区・豊島園)

2010年06月16日 | 古い建物
 西武鉄道が出している「探索さんぽ」を片手に、大ケヤキが境内にある白山神社(練馬四丁目)に行きました。豊島園遊園地にアクセスする豊島園駅の東側あたりですが、豊島園駅は西武池袋線、練馬駅から西武豊島線に乗り換えてたった一駅の単線です。このわざわざ一駅の為に乗り換えるのが、都電に乗っているような感じで、否応なしに遊園地への道程のワクワク感を募らせるわけですが、たしか15年ほど豊島園に行った時は、駅前の飲み屋街などが汚くて、田舎じみていた記憶が・・・。
 しかし降りて仰天。なんかそこかしこが垢抜けています。それもその筈で、都営大江戸線が開通してますし、巨大映画館施設や「庭の湯」というスパ施設もオープンしたことで、駅前周辺はすっかり近代化してしまった様子。あのひなびた田舎町のような雰囲気は何処へ行ってしまったのかと、ちょっとした浦島太郎気分になってしまいましたが、めげすに、練馬四丁目の「十一ヶ寺」から見ることに。関東大震災以降、都心から引っ越してきた11軒のお寺ですが、一区画に二列に並んで綺麗にまとまってしまっている様子がなんだかお寺の出店通りみたいです。ただ、それぞれに趣向を凝らした建物で、中にはこれでもお寺か?と思ってしまうようなものも。

 怖くない仁王像・・・。浄土宗のお寺はエントランスから来世感なムードに誘います。
  

蕎麦食い地蔵は九品院がもともと浅草にあったころの、江戸ならではのユニークな逸話のあるお地蔵様。蕎麦を毎日食べてにくる僧を蕎麦屋の店主がつけて行った所、地蔵が僧に化けていたとかで、その後地蔵に蕎麦を供え続けたところ、疫病などの災いから逃れることが出来たという・・・。文京区のこんにゃく閻魔様や塩地蔵のように食べ物が信仰に絡んでくるのが面白いと思います。通りの一番奥は流石に霊場の雰囲気。お寺の犬にしたたか吼えられたので退散。
  

 練馬4丁目にある「白山神社」は、大きな窪地の中心部にありました。神社の玉垣が新しく、どうやら近年、周辺域も含めて整備された様子・・・定期的に新しくなるお伊勢様はともかくとして、真新しい神社はなんか神様が居ないような気がしてしまうのは気のせいでしょうか?拝殿は傾斜する土地の一番高いところにあり、全国的にも珍しいと言われる相当な樹齢のケヤキの巨木が2本、天を目指して生えています。根元がくぼんだり、捻じ曲がっている様子が迫力でした。


 いったん豊島園入り口まで戻って、そのすぐ側にある、「向山庭園」へ行ったけれど整備中で、見学できずじまい。なんでも政治家の邸宅だった場所を今は、茶室のある和風庭園として開放しているらしいです。豊島園は中世に江戸城の基礎を築いた大田道灌によって滅ぼされた豊島氏の支城(本拠地は上石神井城)があった場所で、今も城址が史跡として遊園地の園内に残っているそうです。お化け屋敷には本物の落武者が出そう・・・。

 
 豊島園の入り口の北にある「庭の湯」は日本庭園を眺めながら湯に浸かれるらしいのです。まだ整備されていない坂道の空き地の途中に馬頭観世音を発見しました。大正15年に開園した豊島園、周囲にはまだまだ探せばたくさんの小さな史跡が見つかりそうです。ネットでつらつら練馬の歴史を見ていたら、都市の人口が周辺へ拡散した震災以前は、練馬全域は大根農家が殆どで、もともと板橋区だったと言う事です。

 歴史的な事はさておき、光が丘方面に向かう春日通沿いに素敵な美容院を発見。GEMINI理容美容室です。なんておしゃれ!!

 
 まるで007の敵のアジトか、サンダーバードの基地です。
  

 入り口が2つあって、右はハート、左はスペードでした・・・・。美容室と理容室を分けたからでしょうか。なんか男女別々で出てくるのは、銭湯かラブホテルみたいですが・・・。春日通りを北へ進んだ、光が丘には戦後、進駐軍が建てた外人居住地区があったので、こんなに垢抜けた雰囲気になったのでしょうか?いずれにせよ、この建物、日本的なフォルムや嗜好を無視してカッコイイです。
 ついでに節足動物みたいな外観になった建物を見つけました。雁行壁面って言うらしいのですが、伸びたり縮んだりしながら動き出しそうです。

はじめに

2010年06月16日 | 古い建物
 10年を一昔前というのなら、もう2昔前の事、私は郷里を後にしました。田舎という木屑や埃がその文字からポロポロとこぼれてきそうなその二文字と別れを告げたいからに他ならなぬ、上京という名の逃亡でした。
 私の田舎・・・そこは瀬戸内の海沿いの埋立地で、昔の海岸線の名残として、あたり一面どぶ川が広がっていました。アオサの浮いた潮が満ちては、生ぐさい臭気を放つ真っ黒な川。引き潮になれば川のヘドロの表面から炭鉱夫のように真っ黒な蟹が、穴から気ぜわしく出たり入ったりして、いびつな光景を形作ります。川岸には粗末な神社の建物、傾いた木造の商店、手入れのされていない樹林が広がり、町に出れば、けばけばしい黄色やオレンジの電球がグランドキャバレエやモーテルの看板をグルリと囲み、酒場町を猥雑な光で賑やかに満たします。そしてそんな光景と共に、切れ切れとなって浮かんでは消える恥ずかしくも悲しい思い出・・・乾いた膿に絆創膏が張り付いて、剥がそうとしても剥がれない、もはや第二の皮膚のようになってしまった古傷のような思い出がこびり付く街・・・。そんな一切合財を捨てて、東京に出てきたが良いが、あんなにも輝き、未来都市のごとくに見えた摩天楼もやがては色あせ、目まぐるしく変わる都会の刺激的毎日は、目的もなくただ生きているに過ぎないという乾いた日常へといとも簡単に転じてしまいました。
 そんな焦燥感の中、突如、小さなお稲荷さんから有名な寺院まで、祠や寺社建築を見て回る事に取り付かれ、今はその周辺に佇む門前町、花街の跡、街道沿いの宿場町を歩く事に喜びを見出しています。そこでつい足を止めて見てしまうのは、あんなにも呪詛していたはずの、板塀の奥に朽ちている木造の粗末な家々や、煤けたモルタル作りの商店です。それは閑散とした私の郷里に酷似した侘しい佇まいでした。  
 さて、そんなわけでこのブログがご紹介するのは古い街角のそぞろ歩きです。こちらをじっと見つめる猫が道先案内人で、アロエの植木鉢が連なる込み入った路地裏に誘われるままに入っていけば、破れた赤提灯が線香花火の最後のポッチリのように灯る古い飲み屋街、表通りから三間も離れていないのに、戦争前のランプが下がり、魚の煮付けの良い匂い。白い猫の影がおいでおいでとさらに誘う暗がりの向こう、何やら意味深な酒場が連なって、闇と闇とが手を繋ぎ、密やかなハートマークを形作る束の間のパラダイス・・・。そんな場所へ人が誘われるのは、生まれ出てきた生命が意識下で欲する体内への回帰、つまりは母体への思慕なのではないかという凡庸な仮説を唱えつつ、今日もまたブラリブラリとあの街角、この街角へ向かうのです。

浅草観音温泉。ネオン管が残る戦後の浅草らしい風景。