ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

夜のお菓子の里~その1(静岡県浜松市)

2015年10月27日 | 寺社仏閣
 過ぎ去った夏の面影を残しつつ、詩情を含んだ秋の日差しに、琥珀色に輝く湖を汽笛を鳴らして進む遊覧船。浜名湖は忘れえぬひとときを訪れた旅人に約束します・・・。
  


浜名湖に行ってまいりました。お目当ては浜名湖畔にある遊園地「浜名湖パルパル」で土日に催されるニンニンジャーショーでした。 淡水と海水が交わる汽水湖の浜名湖に付き出した庄内半島。その付け根に広がる、岸が入り組んだ奇景に広がる遊園地施設は、1959年堀江城の城跡に遠鉄によって建てられ、その名も「遠鉄舘山寺遊園地」。周辺の舘山寺温泉が1958年に出来たので、それに合わせたレジャー開発だったのでしょう。
   

 折り悪くその日は雨。JR浜松駅前からバスで起伏に飛んだ道を45分、やっとこさ浜名湖パルパルに着きましたが、雨に煙り、全ての遊具も停止していて、ショーは中止!?の不安がよぎります。そうこうしている内に晴れ間が広がり、期待のショーが開催。ところが悪役の漫談みたいなやり取りが、のんびりとしたローカル色溢れる雰囲気で、目をパチクリ。でもスーツアクターのアクションはカッコいいし、半円形の舞台は、古代ローマの剣闘士の戦いを見ているみたいな気分にさせてくれました。撮ったアクターの写真はブログに投稿不可なのが悔やまれます。


 パルパルを後にして、日が暮れないうちに観山寺温泉街を散歩。温泉街の寂れっぷりは全国共通。しかし秋の連休中にこれでは・・・。
  

 湖畔に新旧の旅館が立ち並んでいましたが、廃屋旅館も沢山あって・・・うなぎパイの看板だけがつやつや。
  
 連れ込み旅館やスナックはわずかに痕跡を残すのみ。
  

 湖に突き出た小島のような館山に佇むお寺は「曹洞宗秋葉山舘山寺」です。遠州秋葉山の僧侶が修験道の修行の末に神格化され、秋葉大権現という火伏せの神様となった秋葉信仰のお寺です。この館山寺の歴史は古く、平安時代に弘法大師が開山したという由緒正しきお寺です。山の中には遊歩道があって、湖水を眺めながら散策を楽しめます。これまた古い社殿の愛宕神社もありました。
  

 館山の中腹にある穴大師です。横穴式古墳を基礎とした岩窟です。古墳の横穴でお大師様が修行!?
  

 

 雨でジトジト、もう帰りたい~。アクセスも楽な江ノ島のほうが数千倍楽しいでしゅ。  

 お大師様の霊場を軽んじると刻んでうなぎの餌にしてよ。(館山の慈悲深い大観音様)

 うなぎの骨のお土産もありました。うなぎに捨てる場所なし。夜のお菓子の里~その2へ続く。

天下無類の高尾山(東京都八王子市)

2015年05月25日 | 寺社仏閣
 最近、何処の観光地に行っても人人人・・・特に若い世代の娯楽の多様化が一段落して、目線が国内にシフトした結果、寺院巡りや名所見物の日本国内観光ブームが到来しているのでしょうか。忘れ去られた歴史的建造物や、寂れた観光地に、再び脚光が当たるのは喜ばしいことですが、そうとも言えない事例も多々有ります。
 「いにしえの街並みに心休まる一時」と謳った場所に行くと、まるで渋谷か原宿かといった様相の若者や外国人観光客が押し合いへし合い・・・。そしてよく見ると手には悪魔の教典ならぬ「ミシュラ◯・ガイドブック」・・・。
 東京都八王子市の標高599mの「高尾山」がミシュランの格付けでフィーバーして大変な事になっている、と噂される以前に登った時は、とても静かな山でした。しかし現在、平日でも縁日のような人混み。ケーブルカーさえ使えば、足腰に自信がない人でも山の尾根を散歩でき、都内から簡単にアクセスできる手軽さに加えて、昨今の山ブームでその賑わいは天下無類です。勿論、山登りのマナーなんてものは殆ど無視されてますから、横に広がって道を塞ぐお年を召したご婦人方のために、先に進むのも大変です。

 京王高尾線の高尾山口駅から少々歩くと、ケーブルカーの清滝駅の表参道。
  

 駅前周辺の古いみやげ店。もちろん、可愛いグッズショップなどもあります。


 

  

 清滝駅の右側、表参道一号路を登山。悪天候の次の日だったので、山が冷えていて休憩無しで山上まで登れました。浄心門を潜るあたりでは、ケーブルカー利用の参拝客も合流し、人々の列にもまれて大変。1200年より守護された薬王院の山門と、入り口を守護する四天王のうちのお一人。
  

 薬王院の御本堂。中では護摩祈祷が行われていました。 
 

 薬王院は真言密教ですが、天狗信仰もあって、片刃の鉄下駄などが奉納されています。
  

 1729年建立の御本社、飯縄権現堂(都有形文化財)。お寺なのに、御本社をお参りするには鳥居を潜るので、神仏習合のお寺です。奉納された鐘楼堂には沢山の寄進した寿司屋の店名が掘られていました。御札の販売所の周辺、ちょうど傾いた杉の木の周辺に神聖な物を感じるのは気のせいでしょうか?
   

 楽しい茶店の看板。下山はスリル満点のリフトで。
 

 高尾山口駅からひと駅のJR高尾駅は木造の駅舎。高尾は大正~昭和の天皇が眠る武蔵野陵墓地がある関係で、駅舎は新宿御苑から移設された由緒正しい建物です。駅前の広い通りは、甲州街道で、高尾駅の近くで町田街道と交わります。
 

 通りに河原宿という地名がありました。本来は、高尾駅から離れた場所に駒木野宿、小仏宿という宿場町があるのですが、簡易的な宿場街が後から出来たのでしょうか?
  

 戸口の設いといい、お稲荷さんといい、色街の跡のようにも見えますが、資料が無いので何とも言えません。駅前にはビジネスホテルもありました。
  

 

 

甲府の寺社巡り~(山梨県・甲府)

2012年11月12日 | 寺社仏閣
 寺社巡りがしたくて鎌倉か奈良に一泊・・・と思ったのですが、ふいに山梨の観光案内を見て、武田信玄にゆかりのある史跡の数々が誘う戦国ロマンに浸りたく甲府に行く事にしました。都内から、特急で山を超え、ぶどう畑が各所に見え始めたら程なく甲府駅に到着でした。甲府駅は明治政府によって取り潰しにあった舞鶴城の城址の上に建てられているという事で、ホームから南北に復元された石垣を望む事ができます。そして駅から北へ武田通りを直進いざ「武田神社」へ。しかし坂道なので、途中、電動サイクルをレンタルして、すいすいと登り到着。
 「武田神社」は武田氏三代の居城の跡で、平城の空堀なども残り、現在は武田信玄公を祀る神社です。桧皮葺が美しい屋根ですが、京都や鎌倉の寺社と比べるとアレだ、なんて思うのは無粋です。 
 
 白い洋館は、武田神社の敷地から駅前に移転させられた古い小学校の建物です。
 

 武田通り途中にある寺「満蔵院」は明治以前の神仏習合がまだ残っていました。お寺の中にあった鏡をお祀りする神道のお堂です。
 

 歴史のある街ですから、寺院の多いエリアに向かう道の途中で、いたるところに不思議な屋敷神があります。また都内では見かけない丸い石に道祖神と刻まれた道標もありました。(都心は村の入口の道標の代わりになるものは、庚申塚及び地蔵が主流です。)
 
 
 小川にかかる橋は昭和4年とあります。


 電動自転車でぶどう畑を眺めつつ曲がりくねった道を進み、2駅隣の「甲斐善光寺」へ。信玄が信濃善光寺の消失を恐れて本尊を移転する為に作った甲斐の善光寺です。本家の長野の善光寺を知らないのでなんとも言えませんが、本堂が大きい以外は見所は控えめだと思いました。


 今度は少々迷ってようやく墓地の中に佇む、「法蓋山東光寺」に向かいました。周囲はぶどう畑と住宅地以外は何もなく、物凄く凡庸な光景です。実は、甲府は広範囲に空襲(甲府空襲)があったので、市街地も寺院の周辺も期待していた程、古めかしい建物や史跡が残ってないようでした。車の行き交う音に包まれた中途半端に開発された山々に抱かれた室町時代から伝わる桧皮葺の「仏殿」は不思議な光景でした。この建物だけは奇跡的に戦火から免れたという事です。
 

 しかし東光寺のさらなる見所は、本堂の裏手の庭園にあります。僧侶の蘭溪道隆禅師が作ったとされる日本庭園です。築山や人口の川を巡る回遊式庭園ではなく、座敷から眺める池泉鑑賞式庭園で、古い庭園らしく、こぶりの奇岩をゴロゴロと並べ、池を隔てた斜面部分は部分的に枯山水になっていて、想像力をかきたてます。山梨には、他にも恵林寺方丈庭園という名園があります。
 

 近所に廃寺を見つけて暗い気持ちになっていたら、山道に妙な仏様の姿がチラチラ見えるような気がします。・・・カメラでズームにするとガイドブックにも載らない、大仏が映っているではありませんか・・・喜び勇んで行くと、山道の途中にある巨大地蔵でした。胴体が自然岩で、首だけ人工という珍しい石仏…。首地蔵というらしく、巨石信仰みたいで面白いです。
 



 熊野権現神社と巨大地蔵とご婦人。その眼の見据える先が善光寺でした。


 途中の参拝道には茶店の跡?土壁に葡萄の柄を装飾する粋な建物。
 

 線路脇の自殺防止のお説法は、効果あるのでしょうか?甲府名産、水晶で作った名物鳥もつ料理です。そこはかとない田舎の風情に満ちた山梨でした。
 

あな恐ろし!弁天洞窟(東京都稲城市)

2011年08月15日 | 寺社仏閣
 東京都稲城市、多摩丘陵にあるよみうりランドの近くに、東京では屈指の奇怪な名所があるというので訪れました。お寺は「威光寺」で、弁財天を奉る「弁天洞窟」というところです。
 
 京王よみうりランド駅から坂を上がると風雅なお休みどころと、死後の行先の看板・・・。
 

 程なく見える境内、案外普通の外観のお寺です。赤いお太鼓橋の向こうの只ならぬ気配・・・。
 

 通常、七福神のうちの大黒様・恵比寿様に並ぶ神様、弁財天様を奉る際は、赤いお堂の前に池をしつらえ、参拝者は赤い太鼓橋を渡って拝むというスタイルを取ります。関東で有名どころは、井ノ頭の池に浮かぶ井ノ頭弁才天、海を池の水に見立てた江ノ島の弁天堂などです。こちらの弁天洞窟は、たしかに洞窟の前に池がしつらえていますが、お堂に参拝する代わりに、真っ暗な洞窟の中を胎内巡りの趣向で進んでいきます。そこで姿を現すのは、琵琶を持った弁天様ではなく、巨大な岩盤に掘り込まれた5メートル以上の二匹の蛇です。弁天様は、日本では水の神様、つまり蛇の化身であり、弁天様で頂くお守りには鱗文様が施されていたりしますが、蛇そのものをご神体として崇めるスタイルは珍しいと思います。

 ちなみに中野区中野新橋と、吉祥寺井ノ頭弁才天の池の近くにはそれぞれ、人頭蛇の宇賀神様が祀られています。
 
 
 受け付けで可愛い絵柄のマッチと蝋燭を¥300と引き換えに頂きました。旧日本軍の武器庫のような入り口。
 

 ライトアップされてない洞窟は始めて。蝋燭はちょっと動かすとすぐ消えるので怖いです。
 

 
 小さな蛇のご神体や石仏。
 

 蛇の姿はある程度下調べいていましたが、実物はとても怖いです。
 
 
 触る人がいるからフェンスをかけたのでしょうが、暗がりで見ると噛み付いてきそうです。


 明治17年に、境内にあった古墳墓の横穴をお坊さんが掘り進めたこの洞窟。周囲の山は、鎌倉などに多く分布する凝灰岩質砂岩層の10m程の洞窟を境内に持つ「穴澤天神社」、昭和初期に関東大震災で行き場を失った駒込周辺の数千の無縁仏を集めた「妙覚寺」(室町時代の終わり頃開山)の「ありがた山」などがあり、地域一帯がちょっとした仏教パークのようでした。

 妙覚寺は、室町時代の板碑や筆塚など史跡が沢山。境内は小さいながら急斜面をクネクネと上がる石段脇に、ありがた山の無縁仏と共に表情豊かな石仏が安置してありました。
 

さようなら蛇洞窟。
 
 

お喋りは禁物!日光東照宮(栃木県)

2011年07月30日 | 寺社仏閣
 悪い事は、見ざる言わざる聞かざる・・・それがどんなに真実でも口に出す事がはばかられる様なお話をご紹介いたします。
  
 栃木は『日光東照宮』に行ってきました。東洋のバロック建築とも言われる荘厳華麗な世界遺産です。日光東照宮は、宮ですので、入り口に鳥居が建っていますが、境内には五重塔があり、泣き竜がある本地堂の薬師如来のご本尊の前には鏡があったりと、神社でもなければお寺でもない神仏習合の建物です。墓所(寺)であると同時に、家康の死後、神格化された仏を天照大権現として奉る神殿(宮)は、明治以降の神仏分離令により、東照宮は母体の日光山輪王寺と分けられたということです。しかしこの東照宮という建物は日光だけでなく、各地にあると皆様ご存知でしたか・・・?始めは港区の芝公園に東照宮がポツンとあるのが不思議でしょうがなくて、各地の東照宮巡りをしているうちに分かったのですが、江戸時代の寺院同士の利権争いのため、沢山作られる事になったようです。東照宮があるとなれば将軍様直々の参拝の為に街道筋のや宿場街が整備され、東照宮を管轄する寺院の格が桁違いに上がります。今のように市民がおいそれと参拝する事ができない代わりに、幕府や大名から寄進される金品と、将軍家の神々(仏)を奉る場所としての威信が、寺社とその周辺域を大いに潤したのです。
 全てではありませんが、関東に散在する東照宮についておおまかな説明をいたします。

 久能山東照宮(家康の駿河に眠りたいとする遺言により、今の静岡駿河に作られた東照宮である。のちに久能山から栃木の日光へと家康の遺骸は移される事になるが、指揮したのは徳川幕府成立以前から家康側近の僧侶であった南光坊天海。天海は家康の晩年、日光山最高権威の貫主に納まり、家康死後も三代将軍家光の代まで、政治に大いに関わり、方位学と陰陽道で江戸城を守護する都市計画を推し進めたと言われる人物である。)

 日光東照宮(南光坊天海が駿河から移した家康の墓所を栃木の日光輪王寺に作る。当初慎ましい規模の東照宮であったが、三代将軍家光が自らの菩提寺を日光東照宮の隣、輪王寺大猷院に定め建立すると同時に、初期の東照宮を改築、細部まで極彩色の装飾で埋め尽くした現在の姿にする。)
   
 
 世良田東照宮 (家光が改築する以前の日光東照宮の社殿を群馬県大田市世良田に移築。その際、莫大な軍資金の徳川埋蔵金も大田に収めたと言う噂もある。)

 芝東照宮 (江戸城の裏鬼門、申の方角にあたる芝増上寺にあった二代目将軍秀忠および代々将軍の仏を奉る墓所。将軍の墓所ごとに門を頂く荘厳な建築物群は大戦で消失し、遺骸は改めて掘り起こされ、荼毘に付し増上寺の裏手に納められ、焼け残った門など一部は、芝公園内と埼玉狭山不動尊に西武グループが移築。東照宮があった名残として小規模の拝殿は都が管轄する芝公園の中に戦後再建された。)
   
 
 上野東照宮 (江戸城の鬼門、寅の方角にあたる上野寛永寺にある家光の代に建立された徳川家の祈祷寺。はじめは将軍の仏を奉る菩提寺ではなかったが、ここでも寛永寺の貫主である南光坊天海が二代目将軍秀忠の菩提寺の芝増上寺と権利を争い、菩提寺としての権利を勝ち得、三代目家光の葬儀を寛永寺で行い、墓所は日光輪王寺とした。しかし芝増上寺の反発もあり六代目以降の将軍の菩提は交代制となる。討幕軍との上野戦争で寛永寺は大伽藍の大部分を消失するが、東照宮拝殿拝殿と周囲の巨大な銅の灯篭等の建築群は当時のまま現存、華麗な装飾を持つ拝殿は現在修復中。今見られる寛永寺本堂は小江戸川越の喜多院の建造物を移築したものである。)
   

 川越仙波東照宮 (南光坊天海が住職を勤めていた川越喜多院は、家康死後、家康を神とする仙波東照宮を喜多院の中に作る。そこは、久能山から家康の遺骸を日光へと向かわせる旅路の途中、遺骸を数日留めて祈祷を行った場所であった。川越の大火で喜多院は寺院の殆どを失うが、家光の計らいで、再建が行われ、喜多院書院には当時江戸城にあった家光誕生の間、および春日局の化粧の間が移築されており、明治政府により解体され、現在は石垣と堀を残すのみとなった江戸城の遺構が唯一見ることができる場所となっている。)
   
 
 上記3つの東照宮は、静岡久能山から栃木日光まで山岳信仰の霊場として名高い富士山を通過して一直線に並び、江戸を守護していると言われ、東照宮の増設には方位学の見地から場所選びがなされたようです。江戸は戦国時代の終盤に作られた巨大な軍事要塞都市であると共に、方位学と陰陽道によって守られた宗教都市としての側面があります。その都市計画の中枢の人が南光坊天海であったようです。家康より賜った日光輪王山の最高権威の貫主の地位を更に巨大にするために、家康の霊廟を誘致して利権を得た後も、のちの将軍達の菩提寺を巡って他の寺社にも圧力を加えたと言われる南光坊天海の異名は、「黒衣の宰相」・・・邪魔者には暗殺も度々行っていたとの噂もありますし、その人物の素性も年齢も謎に満ちています。なんとまあ仏に仕える身でありながら恐ろしいお坊さんです。しかもこの人物が得意としていた方位学や陰陽道は、江戸時代が終わった後も後世の都市計画の中に息づき、高尾山と成田山を繋ぐ中央線、陰陽の図形を描く山の手線などに反映しているなどとまことしやかに言われています。

天海様は東洋の怪僧ラスプーチンだなんて口が避けても言わざるでござる。
怖!

 私は東照宮の中の総本山というべき日光東照宮に行った事が無く、ずっと憧れでしたが、泊りがけで行く崖の連なる大秘境だと思っていたので、行かずじまい。そんな私を不憫に思ってか田舎出身の土地勘の無い私を友人が車で連れて行ってくれました。実は行かなかったもうひとつの理由は芝の東照宮、川越の仙波東照宮では厳かな「 気 」に打たれて体調を崩すスピリチャル野朗な私です。もう日光なんてその場で白目むいて倒れてしまうのでないかと思っていましたが、数百年の樹齢の木々に守られた社殿は、境内でおおはしゃぎする観光客のためか何も感じませんでした。国宝の本殿が彩色塗装の修繕中でビニールの覆いが被せられていたせいかもしれませんし、特に本堂脇、眠り猫の下を潜って奥宮の家康墓所までの聖域が、ごく普通~の空気なのです。家康公の御霊は現代文明の呪い放射能や、世界遺産フィーバーを逃れて当初埋葬されていた駿河の久能山に隠れているのでしょうか・・・?
    

 雷が鳴る雨の中、仁王門での入場料大人1,300円世界遺産価格に驚き・・・。
   

 どこも絵になる過装飾空間、手水舎は石の柱に金の金具、ああ黄金の国!
   

 
 
 

 南を向いて日光の建築群の中で群を抜いて特異な装飾の陽明門。写真を撮るのに没頭してその奇矯な美しさを堪能できなかったのが残念・・・。写真などで見ると凄まじい感じがしますが、実際見ると黒い漆と胡粉の白い色がシックで仰々しいとは感じず、雨に煙る門はとても落ち着いた雰囲気でした。

   
 
   

   

今回一番興味深かったのが、江戸の名彫刻氏左甚五郎作、眠り猫。周囲の木彫も美しいことこの上なし。
    
 
 東照宮の動物や人物の華麗な木彫りの装飾には全て意味がありますが、眠り猫にも諸説あり、ネズミを通さないように寝た振りをしているなどと言われていますがが、本当の意味は分からないそうです。私の空想ですが、江戸から見て北のネズミ(子)の方角の奥宮の入り口に、ネズミを遮る猫を掘り込み、ひとたび方位の流れの気をストップさせ、ここからは方位と時間を司る十二支に無い動物の猫が寝る冥界の入り口であることを示唆しているのではないかと思います。また東照宮の中の奥宮の墓所は、そこから死を表す北極星が見えるということです。また奥宮の帰り道となる猫の裏側には雀が掘り込まれていました。徳川幕府が統治していた頃、日光の奥宮に入る事ができるのは歴代将軍を始めごくごく限られた人のみ、「貴方もおしゃべり雀のようにここで見聞きした事をみだりに他の人たちに喋ってはいけませんよ。」という意味だったのではないかと勝手に推理していますがどうでしょうか?「たとえば遺骸はまだ久能山にありますよ。」とか「埋蔵金は東照宮増設で全部使っちゃいました。」とか。
 
 アワワ!

 帰りに、日光金屋ホテルに入ってラウンジでお茶をしました。
     

 最近改装したようで何の飾りも無い病院の待合室みたいなラウンジでしたが、ホテルは明治時代に創始者が避暑地として訪れる外人観光客向けに作った和洋折衷様式の洋館です。私は、いつか雑誌で見た内装が竜宮城のような熱海の富士屋ホテルと勘違いしていたので、何か面白い部屋でも無いかと奥へと進むと、期待とは裏腹にどんどん建物は静けさを増して行きます。
 
 
 廊下がとても狭く、まるで客船の中を探検しているような感じでしたが、一番建物の奥、山の斜面に切り開かれたプールやスケートリンクの傍に洒落た展望室がありました。
  
 
 展望室の中に入るとかなり古いスケート靴など並べてあり、なぜか全身総毛立つような感じがしました。窓からは遠くに補修中のため巨大な覆いが被せられた輪王寺の本堂が見えましたが、足早に立ち去りました。
  
 
 スケートリンク脇の談話室(竜宮)には今まで泊まった戦前の海外の著名人や日本の要人達の写真が掲示してありました。夏場のスケート場と、金屋ホテル直営のおみやげ物屋でくつろぐ外国人観光客です。写真を眺めているとスティーブンキングの小説「シャイニング」をふと思い出しました。古きよき時代、ホテルには楽しい思い出が沢山あるだけに、その過去の記憶が享楽を求める亡霊となってさ迷う・・・というお話です。東照宮はお祭りの縁日のように賑々しい雰囲気でしたが、逆にこの金屋ホテル、風もなく木立に囲まれた風景は厳粛でした。
  
 
  一方、たくさんの人が行き交うラウンジは暖かい雰囲気で、ラウンジの随所に、東照宮を思わせる和風の意匠が施されていて、海外のお客様のみならず、日本人の目を大いに楽しませています。
  
 
 談話室(竜宮)の暖炉に掲げてあった今にも動き出しそうで怖かった竜の彫り物。ロビーからラウンジに向かう入り口には朱塗りの門。
   

 門の裏側には眠り猫の木彫です。下部に螺鈿細工まで施していますが、本家に微塵も似てないふてぶてしさが笑いを誘います。

恐れ雑司ヶ谷の鬼子母神(豊島区)

2011年01月17日 | 寺社仏閣
 恐れ入谷の鬼子母神、ではなく今回ご紹介するのは、東京都豊島区雑司ヶ谷にある威光山明法寺の「鬼子母神堂」です。アクセスは都電荒川線の鬼子母神前駅が便利です。
 
駅前の古い美容院は豆タイルで覆われて、窓からパーマの美人がこちらを幻惑。
  

 雑司ヶ谷鬼子母神は、その歴史が古く室町時代からありました。駅から続く参道とけやき並木は江戸時代の雰囲気を今に残しています。現在参道の左右は商店半分、民家半分と寂しい感じです。白い壁面装飾が印象的な長屋や仕立て屋の建物は大正モダンなデザイン。
 

 参道は一度左折、すると鬼子母神堂の境内が正面に姿を現します。 
 

 
 入り口に山門は無く、小ぶりな石作りの仁王像が睨みを利かしています。視界を遮るものが何も無い故に、眼前に広がるいかにも江戸時代に建造された極彩色の装飾を有したお堂の眺めは素晴らしいです。鬼子母神堂を管轄する明法寺は残念ながら震災と空襲で往時の姿をとどめていませんが、鬼子母神堂は江戸時代のまま。参道も含めての景観美を残す場所は、柴又の帝釈天が有名ですが、こちらの鬼子母神もなかなかです。

 

 掲げている鬼子母神の文字の鬼の字には、一画目のツノがありません。またお堂のいたる所に石榴の意匠があります。それは古来インドのお釈迦様の説話に所以します。かつて大勢の子を持ちながら人間の子をさらって食らう人食い鬼の母が居て、人々に恐れられていました。そんな彼女をいさめるためにお釈迦様は母が一番可愛がっている末の子鬼を隠してしまいます。母は我が子が居ないことに気づくと、気も狂わんばかりにお釈迦様に助けを求けます。お釈迦様は「お前には大勢の子がありながら何故たったひとりの子の為に嘆き悲しむのだ。お前は、泣きじゃり取り乱しながら、末の子供の名を呼んでいた。その涙は今までお前が食べた子の母親たちが流した涙と同じだ。これからは人の子をけして食べてはならない。」と諭します。鬼子母神は悔い改めた後、安産子育ての神様として人々に崇められる事になります。鬼子母神が食人への欲望を抑えられなくなると、お釈迦様が石榴を与えて気持ちを静めさせた事から、石榴は鬼子母神の象徴となりました。実は近年女性ホルモンの働きを助ける効果があると注目を浴びる石榴、お釈迦様の教えには科学的根拠もあったのでしょうか?
まあこれぞおそれいりやの鬼子母神ね!

 お正月に点された提灯に、華やかな石榴の意匠を見ることができます。
 
 
 境内には、お稲荷さんもあります。
 

 絵馬の絵柄に惹かれます。

 
 都電荒川線に乗り、庚申塚駅で降りると、かつての民間信仰を見ることが出来ます。「巣鴨猿田彦大神庚申堂」です。
  

 庚申堂、または庚申塚は、街道筋など各地にあり、「庚申講」という古い民間信仰が行われた場所を示すものです。庚申講は道教の教えで、庚申の日に寝ると、体の中の虫が悪さ(秘密を勝手に告げ口)をするというので、村人一同集まって、寝ずにお茶を飲んだり宴席を催すなどして、その日をやり過ごすという風習になりました。一年に数度訪れる夜通しの会合は、地域の青年団と同じく、打ち明け話などをして村人の結束を固める意味もあったのでしょうが、戦後、村のくくりは崩壊し、庚申講は廃れていきます。庚申講で信仰されていたのが、猿田彦天神で石造りの庚申塚には必ず彫りこまれる姿ですが、同時に申も信仰されました。(動物が主神と同列に信仰される例では稲荷信仰があります。)申は十二支の寅、鬼門の反対側の裏鬼門の方位ですから、魔よけの意味があります。そこで、見ざる言わざる聞かざるの3匹のお猿さんを庚申塚に掘り込んだり、狛犬のように左右に鎮座してお堂を守らせたりしました。
 関西では今も続く地蔵信仰、商売の神様として関東では人気のある稲荷信仰と違い、一気に廃れた感のある庚申講ですが、此方の庚申塚ではまだその信仰が残っています。
 しかし沿道が時が止まったような景色です。パチンコ天国・・・・・・。
 

 歩を進めると、「刺抜き地蔵尊」(曹洞宗萬頂山高岩寺)がある参道としてお年寄りから絶大な支持を仰ぐ「巣鴨地蔵通り商店街」になります。ちなみに境内でご婦人がこすり続けるお地蔵さんが刺抜き地蔵かと思いきや、本堂の中にある絶対秘仏が、刺抜き地蔵であると言う事です。
 巣鴨は、板橋宿の手前、旧中山道の休憩所として栄えた町で、お寺も多いことからお婆ちゃんの原宿と異名をとる以前から賑わう場所だったのです。

 
この商店街の心憎い飾りつけ。毎日が縁日のにぎわいです。
  
 
 江戸六地蔵尊の一つ、「眞性寺」の提灯。またJR巣鴨駅周辺には刷りガラスの模様がなんとも言えないすし屋がありました。
  

サーラータイは光り輝く(上野)

2010年11月28日 | 寺社仏閣
 最近タイにはまっています。発端は、今年のまだ残暑厳しい秋口に上野動物園に入園すると、象舎の近くに日タイ修好120周年記念としてタイより送られた素晴らしいサーラータイ(タイの東屋)に遭遇したことでした。




カッティングされた鏡を張り巡らしたこの王朝風の建物は、その輝きにおいて他に比類がありません。


独特な風貌のタイの装飾、隅々まで施された神聖な意匠は西日を受けて正視できないほどの眩しさでした。
 

 こちらは横浜レンガ倉庫で催されたタイフェスティバル。日本でかりそめのタイ気分を味わえます。野菜の飾り切り、カービングがとても綺麗でした。

 
 さらにタイ気分を吉祥寺がお勧め。井の頭公園には象がいますし、ハモニカ横丁など、アジアンなテイストにあふれています。ペパーミントカフェという店舗を二店構える井の頭公園周辺をはじめ、駅北口方面の繁華街にも老舗や新規参入のタイ料理屋が多数あり、お店によってそれぞれの味が楽しめます。
 吉祥寺のアムリタ食堂では、11月22日にタイの灯篭流し、ロイクラトン祭りが行われ見物しました。

 川や池の変わりにチョロチョロ水の流れる発泡スチロールの仮設の川があり、色とりどりの灯篭(一個¥100)を流します。しかし生憎の雨、私の願いを乗せた灯篭が、水量の少ない川で座礁、店員さんに指で突付かれながら、ノロノロと進むさまに哀感が募りましたが、タイでは巨大な灯篭や飾り物で埋め尽くされる幻想的なお祭りなようです。

秘所山口観音(所沢市・埼玉県)

2010年08月05日 | 寺社仏閣
 私は江戸時代の寺院の豪華な彫刻が好きです。かといって日光東照宮参りは大変なので、代わりに上野公園内にある上野東照宮をお参りしたら、補修工事中でした。芝増上寺にも東照宮があったというので伺いましたが、東照宮は現在では隣の芝公園にある戦後立てられた小さな神社の事を指し、かつて芝増上寺にあった東照宮は大空襲でその殆どが残っていないようでした。部分的に華麗な装飾を施された仁王門など数点現存しますが、当時を偲ぶにはあまりにも周囲の様子が変わりすぎているようです。かつては広大な敷地だった増上寺の土地は現在、芝公園や、東京タワーやプリンスホテルのあるシマリノない敷地となっているようです。
 ネットでつらつら調べていたら、かつて芝増上寺東照宮にあり、戦災から逃れた重要文化財の「勅額門」と「御成門」が西武線の西武球場駅傍にある、狭山不動尊に移築されているというので、喜び勇んで行ってみました。
 僻地も僻地、大僻地の西武球場前駅を降り立つと、物凄い人だかり。どうやらアニメ系のアイドルのコンサートが球場で催されるらしくて、ファンの期待の高まりぶりの凄まじさに驚愕。

 今か今かと待ち焦がれ、掛け声練習などをしている方達を尻目に、狭山不動尊へ。近隣には西武グループが、1951年に開園した、ユネスコ村の跡地がありました。1970年代、大阪万博終了後のマレーシア館やオランダの風車などを移築した、世界の建築物が楽しめる公園施設でしたが、客の不入りにより一時閉園。その後、電動仕掛けの恐竜ロボットとジャングルのパノラマを移動ライドで観覧する恐竜テーマパークとして再開して話題を集めましたが、またもや集客難で完全に閉園してしまいました。ちなみに私がかつて恐竜のライドに乗ったときは園内にお客は、私と知人の2人だけでした・・・。

 不動尊は狭山湖の丘陵を背にして存在します。まず入り口に「勅額門」が。黄色と浅黄色の色使いが中国の建築のようです。無傷なのが不思議です。東照宮は戦争で焼けたなんて言ってますが、本当は開発の為に戦後のどさくさにまぎれてぶっ壊したんじゃないかと邪推してしまいました。
  
 


 階段を登ると「御成門」が階段の中腹に。とても派手ですが単体で見ると味気無いです。さらに進むと、山深い寺社のような灯篭の演出。
  

 桃山時代の県有形文化財の多宝堂です。すべては日本全国様々な場所から移築された建造物がチグハグな印象を与える不思議な境内・・・。正直悪趣味。
   

 狭山不動尊は戦後、西武グループが行った、様々なリゾートやホテル開発で生じたお荷物文化財を一箇所に集めて1975年、継ぎはぎ霊場として開山されたようです。芝のプリンスホテルの敷地にあったであろうかつての東照宮の名残の「勅額門」や「御成門」はこんな僻地に追いやられていたのでした。西武グループは、増上寺の他にも戦後の政府によってその権威を失墜させられた旧華族の所有する土地の買収などを行って成り立った経緯があり、品川の高輪プリンスホテルには旧華族の洋館が現存します。今でこそ、西武グループは拡大しすぎた事業のために破綻した落ち目感がぬぐえませんが、その栄華の跡を杉並区天沼に見ることができます。西武グループ創始者がお妾さんを住まわせていた囲い屋敷の跡です。回遊式の立派な日本庭園に門が残っていますが、現在、児童公園として開放されています。今は廃線となった西武の都電が新宿~鍋谷横町を通過し荻窪を終点としていた事にも関連しているようです。


 狭山不動尊は午後四時で閉園。住職でもなんでもない管理者のおじさんに追い立てられて、下山。今度は不動尊の傍にある、山口観音(吾庵山金乗院放光寺)へ。近隣の民宿施設の様子にも時代を感じます。
  



 山口観音は何を隠そう、弘法大師が開山した由緒正しきお寺です。意外と小さな仁王門に心癒されます。馬が顔を出しているのは、名馬により戦に勝った新田義貞が奉納したお堂。中には馬に関する絵馬が一杯でした。もともと、絵馬というのも馬を神様に奉納した事から始まっているので、絵馬の五角形の上辺部分が屋根型をしているのは馬屋を模してるからだそうです。
   

 山林の中の閻魔堂にかかる絵馬、本堂の七福神の縁起絵馬など、絵馬は充実しています。
  

 のどかで緊張感の無い境内、食べ物を売る茶店が堂々とあるのも不思議です。
  
 
 本堂の欄干にはチベット寺院のマニ車(経文が書かれた回転車を手で回すと経文を読んだのと同じ功徳が与えられるという装置。)が設えていました。梁には様々な絵馬、触ると病気が治るおつるびん様の像、千羽鶴、お釈迦様のメダルが張り込まれた金ぴかの塔となんでもありで、仏教のテーマパーク化してます。 
  

 奥に目をやると、壮大な水子地蔵の丘。アンパンマンの玩具が備えられた水子観音などありましたが、流石にシャッターは切れませんでした。四国88箇所巡りトンネルは怖いのでパスです。
   

 シンガポールのタイガーバームガーデンのような一角。ここの住職やりたい放題。


 

 他にもタイのお堂、ビルマのお堂と、ここにお参りすればチベット、中国、タイ・・・仏教国の聖地めぐりをしたのと同じ霊験が一度に得られるのです。山口観音の真言宗豊山派は密教ですが、東京の大本山は豊島区にあるいかにも落ち着いた雰囲気の護国寺。とても宗派が同じとは思えません。もともとお寺は金ぴかの仏像やカッパのミイラで参拝客を集め、露店や茶店も現代よりも頻繁に出ていたために、元祖テーマパークと言うべきの側面をもって居ます。しかしここまで悪乗りな境内になってしまった背景には、西武グループが近隣に西武球場を作ったり、ユネスコ村を作ったりした、巨大レジャー構想に住職が感化されてしまったとしか考えられません。
 そしてこの散漫な光景こそが、山口観音の全体のイメージを表わしていると思います。灯篭の葵の御門があるとすると芝増上寺からの移築でしょか?狭山不動尊に安置すべき灯篭が周辺にいくつも佇んでいます。


 しかしここまで大判振る舞いして置きながら、本尊の千手観音は絶対秘仏だとか。本堂裏からレプリカの小さい「裏観音」が覗けるあまり有難くないサービス付き。西武球場前から出ているレオライナー(かつてはおとぎ鉄道と呼ばれていた路線を使っています)で場末感漂う西武遊園地の園内を眺めつつ、終点西武遊園地駅から、西武鉄道に乗り換えで小さな旅は終わりです。
 
 
 巨大資本が戦後のどさくさに紛れてそこかしこにばら撒き散らした負のベクトルが渦巻いて、お大師様もビックリの大曼荼羅を形作る狭山不動尊と山口観音でした。