ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

三鷹探索~その2(三鷹市)

2010年07月25日 | 飲み屋街
 三鷹探求です。
三鷹探索~その1の続きです。三鷹の南口は1990年に駅前の歩道が高架化したと同時に、駅前の様相は一転、戦後の写真などを見ると、三鷹周辺の鎮守である八幡神社へ向かう参道口の赤鳥居にネオン看板が掲げられていて、もし現在もあったらさぞキッチュで面白い光景であったあろうと思います。駅の下を北西から、南東に流れる多摩川上水から分離して、三鷹市を南東へ流れる品川用水路を暗渠化したさくら通り周辺も、経済の破綻のため、北口の光景同様だだっ広い駐輪場が広がっています。
 
しかし、さくら通り沿いの小道に入れば、ちょっと昭和ムードの小料理屋やスナックがひしめいています。旭町、本町通り、すずかけ通りと並ぶ三本の小道、この周辺こそ、まさに三鷹で最後の日々を送り、愛人と情死を遂げた太宰治の縁の地域だと知ると、
デカダンな香りにクラクラします。大衆酒場、「斜陽」に出てくるヤサグレ男が出てきそうな雰囲気です。「斜陽」に出てくる居酒屋は高円寺にあったようですが。


 まず三鷹駅から東へ程近い処、玉川上水上水のとある場所に文学碑のようなものがあります。


 この近辺に、玉川上水の傍、山本雄三文学館がある閑静な住宅街の近くに最後の居を、婦人と共に構えていた太宰治。しかし家族との折り合いが悪かったのか、太宰は三鷹駅前に住まう山崎富江という女性の元(野川住宅)に転がり込んで来ます。やがて訪れる2人の入水事件(昭和23年)の場所が、この玉川上水となります。
 今現在は、浅い流れの用水路ですが、当時は水中で土手に向かって深くえぐれる構造で、梅雨時は流れも強く、入水の場所は確認できたものの、遺体の発見まで6日要しました。文壇の寵児であり、文壇仲間に慕われていた太宰は素早く立派な葬式を出してもらえたものの、方や富江のほうは、遺族が田舎から見取りにくるまで4日も、土手近くに晒されていたと言います。作家として揺るがぬ地位を確立していた太宰を死に至らしめた罪を擦り付けられる形で、富江の素性が、およそ教養の欠片も無い刹那的な女のようなイメージを流布されるに至ります。しかし実際の富江は、戦前、大きな産業だった映画会社に結髪の技術者として出入りしていたキャリアウーマンでした。本郷に店を構えていましたが焼け出され、終戦を境に三鷹へ移った後も、昼は中央通沿いのミタカ美容院、夜は三鷹市役所近辺にあった進駐軍の将校専用のグランドキャバレーニューキャッスルのホステスの美容師として忙しく働いていました。このような女性がはたして入水自殺などを太宰に促したりするのでしょうか?
 太宰は戦前、アカと呼ばれる共産党運動に加担していたことで、三鷹に移り住んだ後も要注意人物として政府からマークされ、太宰は痴情事件と見せかけて暗殺されたとも言われ、真相は闇のままなのです。
 その次の年、昭和24年には、暴走する無人車両が三鷹駅西側にある車庫から民家に激突するという三鷹事件が起こっています。この事件もまた未解決で、当時国鉄職員の中に居た共産党員を投獄する所謂、アカ狩りを行っていた進駐軍による捏造事件であるとも言われています。戦後のドサクサ、不穏な空気を象徴するような事件として、太宰の死の謎と共にここに書き添えて置きます。

 駅前の小道、本町通りの光景ですが、富江の下宿先であった野川住宅跡、太宰が通っていた伊勢元酒店跡(現在太宰治文学サロン)もあります。
 

 本町通り、西部開拓時代の飲み屋のような光景です。
 

 レンガ模様のトタン張り、旭町通りのお店です。正面の店の奥にも赤提灯があってお色気たっぷりです。
 

 道行く人が「こんな店のホステスは婆さんだ。」と大声で言っていましたが、そんな事大きなお世話、婆さんだろうが若い女だろうが飲ませるのは同じお酒!しかし三鷹の何が凄いって、どんなにボロそうなお店も現役であるという事です。夕方にもなるとご高齢気味のママ達が、店の前のアロエの植え込みに水をやったり、いそいそとのれんをあげる光景がそこかしこで見られます。

 
 一見うらびれた通りでも、まだまだ元気。右奥の小料理屋桃川も営業中です。
  飲み屋の秘境三鷹はその3へ続く。

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