今回はJR山手線の駅周辺『鶯谷』をご紹介いたします。もともと鶯谷という地名はなく、根岸の里(鶯谷駅北東側の根岸1~5丁目)と呼ばれていたこの界隈の由緒を調べると、駅の南側の高台には歴代将軍の墓所を構え、江戸時代には城北で唯一の武家屋敷街となり、明治には正岡子規をはじめとした文人墨客の住いや料亭があり、北に灌漑用水の音無川が流れる、風光明媚な場所だった・・・と書いてありました。
隣駅は高台から富士山を望める遊行の土地として賑わった日暮里ですから、鶯谷も由緒だけ聞けば、鶯の鳴き声が聞こえてきそうな風情ですが、現在は山の手線の各駅の中でもおそらくダントツの大場末です。関東大震災は免れたものの、広大な加賀の前田邸は戦争で焼け、駅前近辺で街娼がうろつく、連れ込み宿やラブホテルの街へと転じていきました。(山手線では連れ込み旅館やコリアンタウンのある大久保も以前は高級住宅街だった経歴があります。)根岸一丁目~二丁目の駅前周辺はホテルだらけ。巨大なホテル同士が立ち並び、日中でも夜のような通路に、昼間から外国人の娼婦が流しをやっています。
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外壁の擬似木が大胆なデザインの温泉旅館のようなホテル。
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山の手線から見える「元三島神社」は、一階に食堂や飲み屋が入り、かつて旅館だった入り口の跡のある妖しい通りを過ぎればお参りできます。
バーが一階に入っている神社の佇まい。しかも鳥居の前で堂々と街娼がお商売しています。
そして一騒動。外国人街娼が玉垣周辺にたむろしてると思ったら、新参者の街娼を囲んで、野太い声であたりはばからず大喧嘩。
「チョーとあんた!あたしらは¥○X△でショーバイしてるのよ!なのに、あんたイクラ!」
「¥□△@よ!」
「ンマーそんなネダンでヤリクサッテ!このバショにはこのバショのルールがあるのよ!」
「そんなのアタシのジユウでしょ!」
「ジユウが聞いてアキレルよ!さっさと出て行くかルールを守るかドッチかにしなさいよ!」
「ワカータワヨ!その値段でヤルワヨ!」
若い新参者も素直に納得したようで、映画「肉体の門」を見ているような街娼同士の小競り合いのケリはついたようでしたが、彼女たちの存在そのものが違法なのでは?捕まらないのは、いろいろな法的な抜け道でもあるのでしょうか?
きっと街娼という生活様式を守り伝える無形文化財なのよ。
昔ながらの連れ込み旅館の残る通りは、のんびり散歩できます。
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志ほ原という名前に時代を感じます。
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ホテル街の端っこのほうに、戦火で消失した正岡子規の屋敷を再現した『子規庵』や『書道博物館』の通りがあります。大名屋敷の敷地が後の文人達の住いとなったようです。
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北側には石神井公園の池を水源として吉原の前を通り隅田川に注ぐ音無川が流れていたようですが、現在は大部分が暗渠となって若干の風情を嗅ぎ取るのさえ難しい雰囲気です。この近所の民家はそこそこ立派な門構えだったりするので、屋敷町だった雰囲気はあります。また一軒の豆腐料理屋は黒塀で、かつてのこの界隈の歴史と風格を残していました。夜ともなればけばけばしいネオン街に豹変する町は、もともと大名屋敷で、日本庭園や能楽堂まであっただなんて誰が想像できるでしょうか?
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根岸4丁目にあったのは根岸三業地(料理屋・待合・置屋の三業)です。現在は芸者さんは居ませんが、『柳通り』という花街特有の柳が街路樹の通りがあって、小料理屋や老舗の染物屋がありました。通り沿いのスナックの名前に「花」「藤」などがあるのも花街の雰囲気です。
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待合の建物は京都のお茶屋に相当しますが、狭い路地の奥に並ぶ待合の建物。座敷の欄干がまるで寺社か御殿のようです。殆どの待合は昔の外観のまま建て替えも無い事から、かろうじて最近まで何らかの形で営業していたであろう様子が伺えました。
塀や屋根の形など非日常的な感じです。
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また待合から割烹料理屋に鞍替えしたお店もひっそり営業中でした。
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入谷と根岸の境にある金杉通りは、旧街道があった場所で、戦前の商店の光景を目にすることができます。蔵作り、出桁作り、看板建築なんでもありで、楽しませてくれます。
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金杉通りから一本奥の根岸3丁目にある鶯通りは旧遊郭だったあたりでしょうか。3丁目は寺町で朝顔市で賑わう入谷鬼子母神や、江戸名所として見物客を集めた西蔵院の「御行の松」(現在枯死)が近隣に在った事から、人通りに事欠かない土地にできた遊郭だったのかもしれません。左手の看板建築と寄り添っているユニークな煎餅屋が目を引きます。
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戦後は同じ台東区の吉原や玉ノ井ように、戦前の遊郭街を母体として引き継いだ赤線地帯にはならず、通常の町になったようですが、所沢、川越、船橋、八王子、と郊外に行けば見ることができる戦前の旧遊郭の雰囲気が都内で見られるのはおそらくここだけだと思います。小さな通りに斜めに設えた入り口の産婦人科があったりする様子にドキっとさせられます。
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古いネオン管の看板にかろうじて残る旅館の文字。
隣駅は高台から富士山を望める遊行の土地として賑わった日暮里ですから、鶯谷も由緒だけ聞けば、鶯の鳴き声が聞こえてきそうな風情ですが、現在は山の手線の各駅の中でもおそらくダントツの大場末です。関東大震災は免れたものの、広大な加賀の前田邸は戦争で焼け、駅前近辺で街娼がうろつく、連れ込み宿やラブホテルの街へと転じていきました。(山手線では連れ込み旅館やコリアンタウンのある大久保も以前は高級住宅街だった経歴があります。)根岸一丁目~二丁目の駅前周辺はホテルだらけ。巨大なホテル同士が立ち並び、日中でも夜のような通路に、昼間から外国人の娼婦が流しをやっています。
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外壁の擬似木が大胆なデザインの温泉旅館のようなホテル。
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山の手線から見える「元三島神社」は、一階に食堂や飲み屋が入り、かつて旅館だった入り口の跡のある妖しい通りを過ぎればお参りできます。
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バーが一階に入っている神社の佇まい。しかも鳥居の前で堂々と街娼がお商売しています。
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そして一騒動。外国人街娼が玉垣周辺にたむろしてると思ったら、新参者の街娼を囲んで、野太い声であたりはばからず大喧嘩。
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若い新参者も素直に納得したようで、映画「肉体の門」を見ているような街娼同士の小競り合いのケリはついたようでしたが、彼女たちの存在そのものが違法なのでは?捕まらないのは、いろいろな法的な抜け道でもあるのでしょうか?
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昔ながらの連れ込み旅館の残る通りは、のんびり散歩できます。
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志ほ原という名前に時代を感じます。
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ホテル街の端っこのほうに、戦火で消失した正岡子規の屋敷を再現した『子規庵』や『書道博物館』の通りがあります。大名屋敷の敷地が後の文人達の住いとなったようです。
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北側には石神井公園の池を水源として吉原の前を通り隅田川に注ぐ音無川が流れていたようですが、現在は大部分が暗渠となって若干の風情を嗅ぎ取るのさえ難しい雰囲気です。この近所の民家はそこそこ立派な門構えだったりするので、屋敷町だった雰囲気はあります。また一軒の豆腐料理屋は黒塀で、かつてのこの界隈の歴史と風格を残していました。夜ともなればけばけばしいネオン街に豹変する町は、もともと大名屋敷で、日本庭園や能楽堂まであっただなんて誰が想像できるでしょうか?
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根岸4丁目にあったのは根岸三業地(料理屋・待合・置屋の三業)です。現在は芸者さんは居ませんが、『柳通り』という花街特有の柳が街路樹の通りがあって、小料理屋や老舗の染物屋がありました。通り沿いのスナックの名前に「花」「藤」などがあるのも花街の雰囲気です。
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待合の建物は京都のお茶屋に相当しますが、狭い路地の奥に並ぶ待合の建物。座敷の欄干がまるで寺社か御殿のようです。殆どの待合は昔の外観のまま建て替えも無い事から、かろうじて最近まで何らかの形で営業していたであろう様子が伺えました。
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塀や屋根の形など非日常的な感じです。
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また待合から割烹料理屋に鞍替えしたお店もひっそり営業中でした。
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入谷と根岸の境にある金杉通りは、旧街道があった場所で、戦前の商店の光景を目にすることができます。蔵作り、出桁作り、看板建築なんでもありで、楽しませてくれます。
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金杉通りから一本奥の根岸3丁目にある鶯通りは旧遊郭だったあたりでしょうか。3丁目は寺町で朝顔市で賑わう入谷鬼子母神や、江戸名所として見物客を集めた西蔵院の「御行の松」(現在枯死)が近隣に在った事から、人通りに事欠かない土地にできた遊郭だったのかもしれません。左手の看板建築と寄り添っているユニークな煎餅屋が目を引きます。
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戦後は同じ台東区の吉原や玉ノ井ように、戦前の遊郭街を母体として引き継いだ赤線地帯にはならず、通常の町になったようですが、所沢、川越、船橋、八王子、と郊外に行けば見ることができる戦前の旧遊郭の雰囲気が都内で見られるのはおそらくここだけだと思います。小さな通りに斜めに設えた入り口の産婦人科があったりする様子にドキっとさせられます。
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古いネオン管の看板にかろうじて残る旅館の文字。
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根岸三丁目に住んで14年にしかならない外来者ですが、自宅周辺のことを書いて下さり、嬉しく思います。
最後の方の、「手児奈煎餅」の裏一帯が戦前遊廓であったという記述、何かの間違いではないでしょうか。
妓楼建築(と、その跡地とわかる区画)は一つもありません。遊廓特有の直角的な区割りも、境界の痕跡も見当たりません。
何か根拠となる資料がありましたら、ご教示いただければありがたいです。