ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

甲府の寺社巡り~(山梨県・甲府)

2012年11月12日 | 寺社仏閣
 寺社巡りがしたくて鎌倉か奈良に一泊・・・と思ったのですが、ふいに山梨の観光案内を見て、武田信玄にゆかりのある史跡の数々が誘う戦国ロマンに浸りたく甲府に行く事にしました。都内から、特急で山を超え、ぶどう畑が各所に見え始めたら程なく甲府駅に到着でした。甲府駅は明治政府によって取り潰しにあった舞鶴城の城址の上に建てられているという事で、ホームから南北に復元された石垣を望む事ができます。そして駅から北へ武田通りを直進いざ「武田神社」へ。しかし坂道なので、途中、電動サイクルをレンタルして、すいすいと登り到着。
 「武田神社」は武田氏三代の居城の跡で、平城の空堀なども残り、現在は武田信玄公を祀る神社です。桧皮葺が美しい屋根ですが、京都や鎌倉の寺社と比べるとアレだ、なんて思うのは無粋です。 
 
 白い洋館は、武田神社の敷地から駅前に移転させられた古い小学校の建物です。
 

 武田通り途中にある寺「満蔵院」は明治以前の神仏習合がまだ残っていました。お寺の中にあった鏡をお祀りする神道のお堂です。
 

 歴史のある街ですから、寺院の多いエリアに向かう道の途中で、いたるところに不思議な屋敷神があります。また都内では見かけない丸い石に道祖神と刻まれた道標もありました。(都心は村の入口の道標の代わりになるものは、庚申塚及び地蔵が主流です。)
 
 
 小川にかかる橋は昭和4年とあります。


 電動自転車でぶどう畑を眺めつつ曲がりくねった道を進み、2駅隣の「甲斐善光寺」へ。信玄が信濃善光寺の消失を恐れて本尊を移転する為に作った甲斐の善光寺です。本家の長野の善光寺を知らないのでなんとも言えませんが、本堂が大きい以外は見所は控えめだと思いました。


 今度は少々迷ってようやく墓地の中に佇む、「法蓋山東光寺」に向かいました。周囲はぶどう畑と住宅地以外は何もなく、物凄く凡庸な光景です。実は、甲府は広範囲に空襲(甲府空襲)があったので、市街地も寺院の周辺も期待していた程、古めかしい建物や史跡が残ってないようでした。車の行き交う音に包まれた中途半端に開発された山々に抱かれた室町時代から伝わる桧皮葺の「仏殿」は不思議な光景でした。この建物だけは奇跡的に戦火から免れたという事です。
 

 しかし東光寺のさらなる見所は、本堂の裏手の庭園にあります。僧侶の蘭溪道隆禅師が作ったとされる日本庭園です。築山や人口の川を巡る回遊式庭園ではなく、座敷から眺める池泉鑑賞式庭園で、古い庭園らしく、こぶりの奇岩をゴロゴロと並べ、池を隔てた斜面部分は部分的に枯山水になっていて、想像力をかきたてます。山梨には、他にも恵林寺方丈庭園という名園があります。
 

 近所に廃寺を見つけて暗い気持ちになっていたら、山道に妙な仏様の姿がチラチラ見えるような気がします。・・・カメラでズームにするとガイドブックにも載らない、大仏が映っているではありませんか・・・喜び勇んで行くと、山道の途中にある巨大地蔵でした。胴体が自然岩で、首だけ人工という珍しい石仏…。首地蔵というらしく、巨石信仰みたいで面白いです。
 



 熊野権現神社と巨大地蔵とご婦人。その眼の見据える先が善光寺でした。


 途中の参拝道には茶店の跡?土壁に葡萄の柄を装飾する粋な建物。
 

 線路脇の自殺防止のお説法は、効果あるのでしょうか?甲府名産、水晶で作った名物鳥もつ料理です。そこはかとない田舎の風情に満ちた山梨でした。
 

甲府の夜(山梨県・甲府市)

2012年11月08日 | 飲み屋街
 甲府の「鏡温泉」に行きました。温泉といっても殆ど銭湯のような施設です。県民ホールの近くにあるというので、夜間に行くと、異変に気がつきます。役所などがひしめく場所に、夜間人通りが少ないことは納得が行くのですが、街灯が明らかに少ないのです。真っ暗な中を地図もなしに当てずっぽうにさまよっていると、これまた省エネモードの暗闇に浮かぶレトロ建築の建物がありました。明かりの漏れるドアの向こうはすぐ脱衣場になっていて、通りからお年寄りのご婦人のヌードを見たような見なかったような・・・。番台のようなものも無く、お金を払うときに女湯の脱衣場が見えまくりという困った作りの内部をどう説明したら良いでしょう?天井で回る送風機、鍵の壊れた木製のロッカーは文化遺産級・・・。昭和のレトロな作りの浴槽はアールを描いた豆タイル仕立てで、奥には源泉の打たせ湯がありました。しかし冷泉なので、一人で打たれていると滝修行・・・。何処へ行っても同じ雰囲気のスパ銭に飽きた方はお試し下さい。
 

 帰りは何か食事でも、と思ったのですが、とりあえず役所の裏通りを歩くとこれがなんと歓楽街でした。大通りは呼び込みがギロリと睨んでいたので、かろうじて小さな路地を撮影しました。あとで調べて分かったことですが、甲府駅(甲府城)の南側に位置するこの周辺は昔から旅籠屋に付属する歓楽街であったということです。南西部に穴切遊郭という計画的に作られた新地(戦後は赤線)がありましたが、業者は撤退したようで、今は区割りや古びた日本家屋で花街の面影を見る程度だと言います。
 
 
 オリンピック通り・・・カフェーとか直球勝負のネーミングセンス。
 

スナックシェルブール・・・よろしく・・・。小料理屋もありましたが、色っぽい外装。
  

柳小路飲食店街は民家ばかりで、青線酒場の成れの果てだと思います。

 次の日、一時間に一本しか来ないバスに愛想をつかして2キロ程歩くと、見えてきたのはぶどう畑ばかりでした。こちらは農家が吊るしている偽物です。のどかですね。

 

富士のふもとの不夜城~その2(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
富士のふもとの不夜城~その1の続きです。
 
 富士山に行きました。富士急行から見える富士だけが雲から僅かにお裾が見えて富士山だと確認できました。終点駅富士吉田から、金鳥居をくぐり富士を見据えながら進むと、道沿いに江戸時代の富士登山者の人々を世話する「御師」の宿坊を目にする事になります。江戸時代の市民にとって遊興の為の旅は禁じられていましたが、信仰のための旅は許されていました。霊峰の富士山登山、伊勢参り、金毘羅参りなどの旅です。しかし高さのみならず日本一気象条件の厳しい霊峰富士を目指すことは命懸けの旅でした。ところが、その危険とは裏腹に富士信仰は爆発的な人気で広がり、関東の神社の境内には必ずと言っていいほど、浅間神社の祠と共に、高さ10mに満たない富士山のミニチュア(富士塚)が富士の溶岩石で築かれ、そのミニチュアを登ることが市民の間で大流行したのです。そこで、市民は個人でまかなえない旅費や引率の登山のプロに支払う賃金を積立金として近隣のものと行う「富士講」の宗教的組織に参加しました。毎年行われるクジで、代表者だけが参拝する講のシステムは他の山々にある山岳信仰でも見られます。富士講は人気だったために、富士登山口にある「北口本宮冨士浅間神社」はその規模も雰囲気も歴史的重みも素晴らしいものがありました。

金鳥居をくぐると、雲の中の富士山を見据えながら「御師」の宿坊が連なる坂道を登ることになります。
  

「北口本宮冨士浅間神社」の入り口。植樹された杉並木と朽ちた灯篭が畏怖の念を駆り立てます。
 

 境内の拝殿の右隣にある白木の鳥居の奥が富士登山口です。そこに立つこの不敵な笑みを浮かべる富士講の石像・・・。
   
 
 安土桃山様式の素晴らしい拝殿。奥の本殿は金箔張りで、木花開耶姫を祀るもの。冨士山の神様はなんと女性だったのです!?
 

 拝殿には天狗の絵馬があって気分を盛り上げます。
 

 神社を堪能したあとは、下吉田の歓楽街の続きです。屋根が富士型になっている店舗もあります。
  
 
 細い暗がりの路地に面している壁に、大きな窓を設えるのは、中にいる女給さんが良く見えるようにという行政の指導によるものです。戦前の旧遊郭の建物は、日本家屋特有の格子窓だったので、そこで女給さんが手招きしたり、媚を売ると牢屋のように見えたから・・・と確かそのような理由で大きく採光窓が取り付けられました。今はユースホステルになっている店舗もありました。
 

 

コカコーラの富士社交組合看板。明朗会計の店という表示も。人魚の看板がとても可愛いのですが、場所はとても怖い廃墟の折り重なる路地でした。
 

見ているだけで吸い込まれちゃうアールの入口。まだ営業しているお店はキュートな色使い。
 
 
 歓楽街が途切れる場所に、病院と真向かいに「角田医院」というお神輿がそのまま建物になったようなお宅を目にしました。今は病院が管理していますが当時は大宴会場だったという事です。東京の宮大工に作らせた昭和初期の建物です。芸者遊びをする温泉宿をもはるかに凌ぐ豪華な建築だと思います。文化的価値が認められて内部公開とかにならないでしょうか?財閥や大富豪なんて言葉が現存していた頃の栄華がまだ富士の裾に眠っているのです。
 日本一の意地と張りだわね!

富士のふもとの不夜城~その1(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
 富士山が見たくなって、富士急行に乗りました。しかし関東が記録的な濃霧の為に、終点の富士吉田に到着するかしないかの時に電車の窓から見えた一瞬のみが、富士山のお目見えでした。あとは、雲の中・・・。富士吉田は、江戸時代からの富士登山口です。霊峰を崇める「北口本宮富士浅間神社」に参拝したあとは、古い建物を探索する事にしました。溶岩石をタイルがわりに張り巡らした商店など、いかにも富士のふもとの店といった感じです。
 
 富士吉田駅から、隣の月江寺駅、下吉田駅に下る国道の坂道はかつては富士道と言われていた通りで、ユニークな看板建築が軒を連ねます。戦前は、下吉田は絹織物の産地として、織物商の仲買人が泊まりがけで月江寺、下吉田界隈に多く訪れたために、遊郭、宴会場のような遊興の歓楽街が国道と並行した「西裏通り」周辺に出来ました。また富士には陸軍の演習場があったために、戦後は進駐軍がそこを盛り場とし、遊郭を母体とした赤線、私娼街の青線がその周辺にくまなく張り巡らされる結果となりました。進駐軍が撤退したあとは自衛隊が、そして観光客がそれらの施設を利用したようですが、街並みも裏通りの歓楽街も不思議と、1970年代頃から時間がストップしているように感じます。戦後織物産業は廃れ、国内旅行ブームの終焉などの為、宿泊客が激減して地方にお金を落としていかなくなったからでしょうか。
 

 

 所謂、瀕死の街をレトロタウンとして、魅力再発掘をアピールする観光振興会のパンフなどを見ると、「西裏通り」を歓楽街とはっきり明記しています。法の整備が地方によって曖昧なので、都内の歓楽街巡りよりも危険を承知で探索してみました。西裏通りを中心としてその横に入る路地にも様々な名前の通りがありました。
  
 
  

 戦後は赤線の店舗はカフェーといって、洋風に設える事が殆どなのですが、私娼街の青線に至っては千変万化です。スナック風、和風の小料理屋風店舗、二階に隠し部屋を持つ長屋店舗、戦前の旧遊郭をそのまま利用したもの、入口にブルーのペンキを塗って進駐軍のための目印にした店舗など様々でした。
 

 

 2つの店舗が向かい合う大正ロマン的な装置のような一角はどうでしょう。あまりにも作りが良いので戦後の赤線時代のものか、最近のキャバレーのものか判断つきかねる程でした。




  

 

 さらにデォープな雰囲気の場所。色町のタイル装飾は本来、綺麗なものと相場が決まっているのですが、こちらは少し趣が違うようです。
 

 

 「子之神通り」の富士が見える3階建ての豪奢な木造建築。通りに面してではなく、細い路地側に破風のある入口がある事から、たぶん遊郭でしょう。看板を見ると寿司屋に転業したようです。


 

 遊郭の通りの奥はタイル張りのカフェー風店舗がひしめき、さらに赤線感漂う一角です。赤線は、本来計画的な区割り上に建てられるのですが、こちらは迷宮化しています。おどろおどしいタイルや欲望をそのまま視覚化したような看板に興味深々。
 

 




 再び国内旅行や、山登りなど、脚光を浴びる日本の観光地ですが、下吉田界隈もぜひともそのレトロさ(?)を保ちつつ完全に廃れるような事の無いことを願います。