ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

柳橋から両国へ(両国・柳橋・墨田区)

2011年02月08日 | 芸者町・三業地跡
 ここの所、内部の腐敗が叫ばれている大相撲、もう呆れるばかりなのですが、はたして大相撲の国技としての資格を剥奪してしまえという議論に関してはどうかと思うのです。田舎出身者としては、相撲取りが浴衣で電車に乗っていたり、髷を結った幕下力士が自転車に乗ってプラプラしてるのを見ると都会ならではの光景だな~と思ってしまうわけです。同じく大激震真っ最中の歌舞伎界、絶滅寸前の花柳界、そしてこの相撲界・・・江戸の華を形作り、時代の移り変わりと共に時に即し、時にそのスタイルを頑なに変えずに、今も息づく時代の後継者達の運命は彼ら当事者だけのものではありません。彼らの衣食住を支えるスタッフさん、職人さん、興行主の人たち、そして劇場、競技場、御茶屋さんの周囲に立つ飲食店やそこに出入りするお客様達全てが共有する価値観、すなわち「伝統文化」というものが、たとえどんなに大きな問題を抱えていようとも、ある日突然途絶えてしまうような事があってはならないと思うのです。
   
 JRの浅草橋駅から降りて、隅田川と神田川が合流する地点の柳橋を眺めてから隅田川にかかる橋を眺めつつ柳橋へ行きました。雛人形の大手メーカーのある浅草橋のすぐ傍にある柳橋界隈は以前は都内でも屈指の高級芸者街(置屋、待合、料理屋の提携する三業地)でしたが、現在は芸者さんの置屋は姿を消し、お座敷を貸す待合も殆どが廃業し、人通りの少ないさびしい場所です。
 
 待合に料理を出していた料理屋は小料理屋や割烹料亭に転業しています。この柳橋には、芸者歌手として数々のヒットを飛ばした浅草芸者の市丸が、芸者を引退してから川沿いに家を構えた場所で、今はギャラリーになっているようです。あえて浅草の地でなく、高級芸者町の柳橋へ移った所に「心意気」があったのかもしれません。 
 
 また川岸では現在も営業している屋形船の乗り場があります。現在では船などめったに乗りませんが、江戸時代の江戸は川や堀が多く、水運が発達していたのに加えて、夏などは舟遊びに興じる市民で溢れかえっていたようです。有名な芸者の小唄「梅は咲いたか」の歌詞の中には♪柳橋から 小舟で急がせ 舟はゆらゆら 波次第 舟から上がって土手八町 吉原へご案内~とありますが、柳橋や蔵前あたりから吉原へ船で向かう当時の交通経路が伺えます。
 
 白黒写真はかつての柳橋の光景。橋の袂に立派な少なくとも3階建て以上の木造建築が黒いシルエットで見て取れます。こちらは江戸時代から続く「亀清楼」で、現在は横綱評議会などが行われる老舗料亭のビルに姿を変えました。

  
 石塚稲荷の玉垣には左右に柳橋芸伎組合と柳橋料亭組合の文字が刻まれています。


 隅田川の橋を徒歩で渡り、両国で以前から気になっていた割烹吉葉に行きました。漆喰と瓦の概観がまるで劇場のような店舗です。故横綱吉葉山の宮城野部屋を改装したので、本物の土俵が今も店舗の中央にあります。築年数は半世紀も経っていないのですが、総檜造りという吹き抜け空間が素晴らしく、両国駅の隣にある近代建築の旧駅舎を改装した居酒屋と共に、両国の名物となるでしょう。
 
 火曜日、木曜日はアコーディオン奏者が浴衣を着て見事な演奏を披露してくれます。♪春のうららの隅田川~を始め、様々な音楽が聞けます。