ビバ!迷宮の街角

小道に迷い込めばそこは未開のラビリント。ネオン管が誘う飲み屋街、豆タイルも眩しい赤線の街・・・。

スナックゆの花(長野県上田市)

2015年03月03日 | 赤線・青線のある町
先日、信州は大停電と情報があるにも関わらず、新幹線でかろうじて電気の通っている雪の軽井沢まで行き、そこから各駅のしなの鉄道に乗り換え、上田駅から別所線に乗り換え・・・都内から4時間かけて行ってきた「別所温泉」。そこは箱根と信州の鎌倉と異名をとるぐらい、仏教寺院が多く、印象としては箱根と鎌倉を足して小さくしたような場所でした。

 終着駅別所温泉駅へ。時代を感じさせる近代建築でした。
 

 温泉街まで、勇壮な夫神山を望みながら坂道をひたすらあるくと、「北向観音」の石造りの門が見えてきます。
  

 厄除けで名高い「北向観音」は平安時代、比叡山延暦寺の慈覚大師によって開創されたそうです。南向きの善光寺と合わせてお参りするとはじめてご利益があると言われています。善光寺に似た破風の形や年月ですすけた材木に貼られた千社札が印象的でした。


境内にある「温泉薬師瑠璃殿」。こちらは境内の前に流れる湯川が氾濫した時に流されて、水を避けるように崖の下に再建されたものだとか。縁の下の木組みが綺麗です。奉納されたおカイコの繭で書かれた北向山の絵馬。上田市では上田紬が作られ、養蚕が主な産業でした。


寺院の前を流れる湯川沿いに土地が大きく凹んでいて、そこだけ別世界のミニ参道になっていました。現在はは小さな川ですが、昔は大きな流れだった跡でしょうか。 
  

 別所温泉は、日本武尊が見出したと言われる古からの湯です。湯川沿いには「大師湯」というお堂を模した共同浴場もあります。家族風呂のような小さな浴室なので、地元の方と楽しくお喋りをしながら入浴しました。硫黄の匂いが強烈でしたが、それゆえに皮膚疾患などには効果がありそうです。周辺には至る所に温泉が引いてあって、お湯の洗い場までありました。
 

 「常楽寺」は、北向観音の本坊です。現在も茅葺きのスタイル。


 別所神社には、農村歌舞伎を上演していたのでしょうか?大きな舞台があって、そこから独鈷山という尾根が鋸型の尾根が見渡せます。
 

 「安楽寺」の国宝三重塔は八角の屋根の梁が幾何学模様を描いて連なる様子が優れています。北条氏の加護を受けて鎌倉時代に建てられたものが、現存しているのは大変貴重だと言う事です。複雑な図形を描く梁の様子、眺めるだけで瞑想を十分誘います。
 

 赤線は、上田の市街地にあるのですが、こちらの温泉街にも遊郭跡と思しき建物がありました。長野県は表向きは廃娼県なので、遊郭ではなく料理屋と呼びます。一見、料理屋なので、小料理屋や定食屋と見分けがつかないのが特徴です。ですので、弱気に撮影しました。

 大通りと違ってなんだか、怪しさあふれる通り。
 
 
 レトロな用品店に、軒や柱のデザインがモダンな家。
  

 一見、素泊まりの旅館風なのから、スナックまで様々。
  

 火山岩に見せかけたセメント加工、粋ですね。
 

 スナックゆの花、そしてスナックちゃこ!!
 

 もちろん民家かもしれませんし、想像するだけですが・・・。
 

 目を奪うタイル物件。
 

上田の市街地に戻り、上田遊郭(新地)に向かいました。真田氏の居城上田城の北側で、駅から徒歩で40分以上。1972年まで鉄道が通っていたのですが、廃線で、現在駅も更地になっています。かつて養蚕業が盛んだった上田市では、多くの絹糸業者が訪れた事でしょう。蚕糸業の繁栄と共に、夜の街も賑わいます。市を上げて遊郭を盛り立てる為に、明治の廃藩置県で老朽化するのみの上田城の櫓を、料理屋(遊郭)の店舗にするために売却した事もありました。しかし華やかな時代は去り、現在はスナック一軒すら見当たらないただの住宅地となってしまいました。

 廃線となった花園駅跡地は物悲しい砂利道に。新地の入り口は立ち食い寿司か、うなぎ屋と相場が決まっているので、入り口はすぐ分かりました。
 

 他の住宅地と違って、道が不自然に整然としてくると、そこは新地です。吉原に習って、大通りを挟んで、左右に店舗が区画に沿って建てられたようです。
  

 お堂が、大通りを見据える形。出梁造りの旧遊郭時代の建物も。格子などが昔はあったのかもしれません。
 

 凝ったただの民家なのか、それとも料理屋なのか・・・かろうじて、塀の意匠で分かる程度でした。
 

 駅の近くの繁華街には面白い通りがありました。花やしき通りです。古き良き浅草のお笑い界を舞台にした映画撮影ために、上田劇場という古い映画館が雷門ホールとして使われて、看板がそのまま残っていました。
 
 

赤線特集その二(江東区洲崎)

2014年04月08日 | 赤線・青線のある町
 

 今回訪れたのは「洲崎」の赤線跡(現在東陽町)です。江戸時代から辰巳芸者や相撲興行などで遊興の場として名高い深川に近い洲崎でしたが、江戸時代は海沿いの低湿地帯で、高潮の被害などがあったことにより、幕府により住居とすることを禁止されている地域でした。洲崎神社(洲崎弁財天)の境内には江戸時代の波除碑が残っていました。震災と空襲を経てボロボロでした。
   
 しかし明治19年に転機が訪れます。文京区に東京帝国大学(東京大学)を建設するために、根津神社周辺の根津遊郭がすべて立ち退きを迫られる事になり、そこで移転先に選ばれたのが、洲崎の埋め立て地でした。吉原を彷彿とさせる大通りと、整然と並ぶ路地による巨大な遊郭街の誕生です。洲崎は、戦時中は工場用地として営業を停止、空襲を経て戦後は、大門の通りを挟んで東側の地域のみが遊郭として営業を再開しました。1958年売春防止条例が施行されるまで、カフェーという和洋折衷の遊郭の建物がひしめいていました。
 他の赤線は、防止条例後に、スナックや旅連れ込み宿がひしめく歓楽街に転化するか、ただの住宅地になるかですが、洲崎が辿ったのは以外にも後者でした。木場や工場地帯の労働者たちが歓楽街に集うという図式が時代の流れと共に崩壊してしまったからでしょうか。数年前に訪ねた時には、現存するカフェー建築は驚く程少なく、わずかに残っていた店舗の跡も、先ごろの大震災で、建て替えを余儀なくされました。

 某政党の建物として近年まで使われていた大店の「大賀」。母屋は和風、一階のサロンを持つ店舗部分は洋風、黒いタイルの円柱、沢山ある戸口・・・全てが印象的でした。現在は建て替えされています。


 

 大通りに面したアールデコのような近未来的なデザインの建物、様々な店舗が居抜きで使用していましたが、建て替えになっていました。
 

 青い柱はすべて豆タイル装飾で、日中は眩いばかりでした。
 

 堀の外側にある一杯飲み屋は赤線時代からのもので、今は無くなった地名「洲崎」の名を持つ飲み屋もありました。


  

 現在は埋め立てられていますが、以前は洲崎川だった部分に洲崎の入口はあります。戦後はネオン管で「洲崎パラダイス」と輝く大門が掲げられていました。大門通りの広さは、かつて鉄道でも通っていたような風情です。交通ルールを説いているだけとは思えない奇妙な啓蒙看板もありました。
   

 2004年4月現在、主だったカフェー建築は無くなっていますが、赤線時代の建物を改装して、住居として活用している物件はまだ見ることができます。装飾を取り払って、こざっぱりと改修しているので、これからも長期的に残っていくでしょう。
 

  

 軒下や角々に、わずかに残る装飾。スナックも大人しい雰囲気です。
  

 遊園の文字のある電信柱がありました。
  

 古い赤線時代の電信柱のある通り。掲示板もまだ木製です。 
  

 防火壁のウダツ風の装飾がある民家。バーバーのタイルも古風な配色。
  

 珍しい意匠の建築。この建物のある大通りの西側は、戦後は一般の商業地域になりました。
  

 蔵のような民家。ネズミ返しのような装飾。
四方を土手に阻まれていて、そこかしこに息苦しいような雰囲気が残る洲崎でしたが、カフェーの主だった建物が姿を消した事で、少し町の雰囲気に変化が出たようでした。古い建物が好きな者にとっては寂しく、実際に住んでいる人々にしてみれば風通しが良くなるのは歓迎すべき事なのかもしれません。
  

 路地裏だろうが民家だろうがカメラ向けまくる輩が風通しとか、聞いてあきれちゃうわ。

赤線特集その一(葛飾区立石)

2014年04月05日 | 赤線・青線のある町
 10年以上前、はじめて本屋で「赤線跡を歩く(木下聡著)」を購入した時は、赤線を魔界の入口のように思っていました。しかし実際に赤線跡を訪ねて歩くと、かつて使用されていた店舗の建物はとても特殊で面白いのです。しかしここ数年、建物の老朽化による建て替えなどで、地域における赤線の記憶のようなものが無くなりつつあります。ですので、ここ数年の街歩きの総仕上げのつもりで、東京の下町~多摩、埼玉の都心周辺の赤線跡の町を取り上げてみたいと思います。(年表などの記述に事実と異なる表記などあるかもしれませんが、ご了承下さいませ。)


 葛飾区立石は、大きくうねる川沿いの土地で、度々の洪水に見舞われています。しかし意外とその歴史は古く、周辺では古墳時代の遺物が発掘されたりしています。そのうちの一つが「立石様」と呼ばれている、地中深くにめり込んだ岩石です。房州石と呼ばれる千葉県産の岩石で、江戸時代は道標などとして活用されましたが、不思議なパワーにあやかる人々が戦地に赴く兵士のお守りとして削ってしまったために、今現在は若干地上から姿を現すのみとなりました。古墳の石室を作る為に房州から持ち込まれ、石室の一部が露出しているのではないか?と言われていますが、都心部における唯一の磐座(巨石信仰)としてとても興味深いものがあります。
 
  
 

歴史の立石・・・低湿地帯の下町のイメージが一新したわ!

 
 立石の赤線は、京成立石の駅のすぐ近くを散策すれば見つける事ができます。空襲で焼け出された亀戸天神裏の遊郭の業者が作った遊郭で、戦時中昭和20年には民家を改装して既に作られていたといいます。戦後は、進駐軍の遊興の場所としてRAAに指定され、黒人兵が出入りしました。(当時は人種や地位の垣根は深かったので、白人と黒人、一般兵と将校は同じ地域では遊ばず、住み分けがなされていました。)一年後、進駐軍の出入りはオフ・リミッツ(立ち入り禁止)とされ、赤線地帯として指定されます。
  

 正面から見ると、洋風のカフェー、側面から見ると和風の遊郭のスナックつかさ。吉原や洲崎にあったような大店以外は、和風の建築に洋風の外壁を張り付けているだけの建物が殆どです。赤線時代の綺麗な豆タイルが塗装から覗いています。


  

 一つの建物に2つ戸口があります。一つの戸口につき、一名の女給さんが客引きを行えたと、法的な決まりがあったので、カフェーは沢山の入口を持っています。また二階の小部屋に上がる道筋もそれぞれ別だったようです。
 

 大通りからは見えないような小道。
 

 何度か折れ曲がる道を抜けると、開ける通り。
 

 立派な装飾、その建物をサメが見上げる景観・・・。
 

 モルタルの外壁に施された、様々な左官屋の手仕事に、「粋」を感じます。
  

  


 通りに面していたところは小料理屋風。
 

 建物のディテールが浮世離れしています。
   

 立石は、赤線跡も開発の手を免れていますが、近隣に闇市跡から青線酒場に移行したであろうスナック街も丸々残っている所が凄いです。昨年、下北沢の駅工事に伴って闇市跡が取り壊しになったので、こういう景観もまた貴重だと思うのですが・・・。
 

   

 ハートの模様が印象的な戸口。まだ残る木の電信柱。ずっとこのままで居てほしい立石でした。
 

多摩の酒蔵と米軍の夜(福生市)

2014年04月01日 | 赤線・青線のある町
 まず行き交う人々に明るい話題を提供していた三鷹駅近くの子供服屋のプリティ富士が閉店して、ごくごく普通の展示場に変貌してしまった事をお伝えいたします。勿論、あの愛くるしいマネキン達も今頃スクラップ。


ウソでしょ?!
更新時は4月バカだけれど、まぎれもない本当よ。

 さて、多摩の酒蔵、福生にある田村酒造場に行ってまいりました。江戸時代文政5年より、秩父奥多摩伏流水を仕込み水として、「嘉泉(かせん)」などを作っています。
 JR福生駅を降りて、多摩川の流れる東に歩みを進めると、福生神明などの神社仏閣が目につきます。
 

 そして多摩川と、人工河川の玉川上水に挟まれた田丸酒造場一帯の土地の古めかしい景観は、そのまま江戸時代!




 黒々と光る屋根瓦、春の日にまばゆいばかりの白壁。敷地内は田村家の母屋と日本庭園もあってとても広く、一部古い蔵を製品の展示場としていました。ただ、利き酒できるような土産物屋やレストランは無く、事務所でカタログを見て購入するシステムでした。
    

 駅周辺に目を移すと、シャッター通りでした。古めかしい食堂や、手動の台が置いて有りそうなレトロなパチンコ屋。
 

 福生駅の東側は、米軍横田基地(旧日本軍時代は多摩飛行場)です。上空を巨大な戦闘機が通過するたびに、敗戦国に生まれたんだな~と思います。終戦後、立川にあった米軍基地(旧日本軍の立川飛行場)は米兵のためのバケーション施設も兼ねており、立川を歓楽街へと様変わりさせます。ところが米軍と市民との対立は深く、砂川騒動などを経て、立川の基地は閉鎖され(1969年)、戦後接収していた福生の横田基地に全ての機能が移転してきました。と同時に、福生の歓楽街の規模も大きくなっていったことでしょう。
    

 戦後の一時期、赤線と認可されていたのは富士見通りという通り周辺で、他所の地域の花街に見られるように、店舗が人目を避けて路地裏に密集したりするような構造をしていません。あっけらかんと、飲食店やジャズバーなどと共に、少し広めの路面に面してお店が立ち並んでいます。


 
 
 福生不動尊ギリギリまで立ち並ぶ、スナック。


立ち入り禁止の古いお稲荷さんまであって、米軍のための歓楽街になる前から何かしらの賑わいがあった場所なのかもしれません。
  

 人魚・・・いちご・・・。
 



 観光旅館風の連れ込み宿(屋根の水色は諸外国では娼婦をイメージさせる色彩的なサインです。)そして「バイハイ」と言う名前のラブホテル。第二次世界大戦時の米軍キャンプが舞台のミュージカル「南太平洋」で歌われる夢の理想郷バリハイがモデルでしょう。花咲き乱れる夢の島が、こんな〇末に・・・。
 

 かく恋慕・・・女帝・・・カトレヤ・・・。まだ現役まっしぐらの町なので、長居はできませんでした。
 


富士のふもとの不夜城~その2(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
富士のふもとの不夜城~その1の続きです。
 
 富士山に行きました。富士急行から見える富士だけが雲から僅かにお裾が見えて富士山だと確認できました。終点駅富士吉田から、金鳥居をくぐり富士を見据えながら進むと、道沿いに江戸時代の富士登山者の人々を世話する「御師」の宿坊を目にする事になります。江戸時代の市民にとって遊興の為の旅は禁じられていましたが、信仰のための旅は許されていました。霊峰の富士山登山、伊勢参り、金毘羅参りなどの旅です。しかし高さのみならず日本一気象条件の厳しい霊峰富士を目指すことは命懸けの旅でした。ところが、その危険とは裏腹に富士信仰は爆発的な人気で広がり、関東の神社の境内には必ずと言っていいほど、浅間神社の祠と共に、高さ10mに満たない富士山のミニチュア(富士塚)が富士の溶岩石で築かれ、そのミニチュアを登ることが市民の間で大流行したのです。そこで、市民は個人でまかなえない旅費や引率の登山のプロに支払う賃金を積立金として近隣のものと行う「富士講」の宗教的組織に参加しました。毎年行われるクジで、代表者だけが参拝する講のシステムは他の山々にある山岳信仰でも見られます。富士講は人気だったために、富士登山口にある「北口本宮冨士浅間神社」はその規模も雰囲気も歴史的重みも素晴らしいものがありました。

金鳥居をくぐると、雲の中の富士山を見据えながら「御師」の宿坊が連なる坂道を登ることになります。
  

「北口本宮冨士浅間神社」の入り口。植樹された杉並木と朽ちた灯篭が畏怖の念を駆り立てます。
 

 境内の拝殿の右隣にある白木の鳥居の奥が富士登山口です。そこに立つこの不敵な笑みを浮かべる富士講の石像・・・。
   
 
 安土桃山様式の素晴らしい拝殿。奥の本殿は金箔張りで、木花開耶姫を祀るもの。冨士山の神様はなんと女性だったのです!?
 

 拝殿には天狗の絵馬があって気分を盛り上げます。
 

 神社を堪能したあとは、下吉田の歓楽街の続きです。屋根が富士型になっている店舗もあります。
  
 
 細い暗がりの路地に面している壁に、大きな窓を設えるのは、中にいる女給さんが良く見えるようにという行政の指導によるものです。戦前の旧遊郭の建物は、日本家屋特有の格子窓だったので、そこで女給さんが手招きしたり、媚を売ると牢屋のように見えたから・・・と確かそのような理由で大きく採光窓が取り付けられました。今はユースホステルになっている店舗もありました。
 

 

コカコーラの富士社交組合看板。明朗会計の店という表示も。人魚の看板がとても可愛いのですが、場所はとても怖い廃墟の折り重なる路地でした。
 

見ているだけで吸い込まれちゃうアールの入口。まだ営業しているお店はキュートな色使い。
 
 
 歓楽街が途切れる場所に、病院と真向かいに「角田医院」というお神輿がそのまま建物になったようなお宅を目にしました。今は病院が管理していますが当時は大宴会場だったという事です。東京の宮大工に作らせた昭和初期の建物です。芸者遊びをする温泉宿をもはるかに凌ぐ豪華な建築だと思います。文化的価値が認められて内部公開とかにならないでしょうか?財閥や大富豪なんて言葉が現存していた頃の栄華がまだ富士の裾に眠っているのです。
 日本一の意地と張りだわね!

富士のふもとの不夜城~その1(山梨・下吉田)

2012年11月07日 | 赤線・青線のある町
 富士山が見たくなって、富士急行に乗りました。しかし関東が記録的な濃霧の為に、終点の富士吉田に到着するかしないかの時に電車の窓から見えた一瞬のみが、富士山のお目見えでした。あとは、雲の中・・・。富士吉田は、江戸時代からの富士登山口です。霊峰を崇める「北口本宮富士浅間神社」に参拝したあとは、古い建物を探索する事にしました。溶岩石をタイルがわりに張り巡らした商店など、いかにも富士のふもとの店といった感じです。
 
 富士吉田駅から、隣の月江寺駅、下吉田駅に下る国道の坂道はかつては富士道と言われていた通りで、ユニークな看板建築が軒を連ねます。戦前は、下吉田は絹織物の産地として、織物商の仲買人が泊まりがけで月江寺、下吉田界隈に多く訪れたために、遊郭、宴会場のような遊興の歓楽街が国道と並行した「西裏通り」周辺に出来ました。また富士には陸軍の演習場があったために、戦後は進駐軍がそこを盛り場とし、遊郭を母体とした赤線、私娼街の青線がその周辺にくまなく張り巡らされる結果となりました。進駐軍が撤退したあとは自衛隊が、そして観光客がそれらの施設を利用したようですが、街並みも裏通りの歓楽街も不思議と、1970年代頃から時間がストップしているように感じます。戦後織物産業は廃れ、国内旅行ブームの終焉などの為、宿泊客が激減して地方にお金を落としていかなくなったからでしょうか。
 

 

 所謂、瀕死の街をレトロタウンとして、魅力再発掘をアピールする観光振興会のパンフなどを見ると、「西裏通り」を歓楽街とはっきり明記しています。法の整備が地方によって曖昧なので、都内の歓楽街巡りよりも危険を承知で探索してみました。西裏通りを中心としてその横に入る路地にも様々な名前の通りがありました。
  
 
  

 戦後は赤線の店舗はカフェーといって、洋風に設える事が殆どなのですが、私娼街の青線に至っては千変万化です。スナック風、和風の小料理屋風店舗、二階に隠し部屋を持つ長屋店舗、戦前の旧遊郭をそのまま利用したもの、入口にブルーのペンキを塗って進駐軍のための目印にした店舗など様々でした。
 

 

 2つの店舗が向かい合う大正ロマン的な装置のような一角はどうでしょう。あまりにも作りが良いので戦後の赤線時代のものか、最近のキャバレーのものか判断つきかねる程でした。




  

 

 さらにデォープな雰囲気の場所。色町のタイル装飾は本来、綺麗なものと相場が決まっているのですが、こちらは少し趣が違うようです。
 

 

 「子之神通り」の富士が見える3階建ての豪奢な木造建築。通りに面してではなく、細い路地側に破風のある入口がある事から、たぶん遊郭でしょう。看板を見ると寿司屋に転業したようです。


 

 遊郭の通りの奥はタイル張りのカフェー風店舗がひしめき、さらに赤線感漂う一角です。赤線は、本来計画的な区割り上に建てられるのですが、こちらは迷宮化しています。おどろおどしいタイルや欲望をそのまま視覚化したような看板に興味深々。
 

 




 再び国内旅行や、山登りなど、脚光を浴びる日本の観光地ですが、下吉田界隈もぜひともそのレトロさ(?)を保ちつつ完全に廃れるような事の無いことを願います。

秩父ロマン

2012年10月14日 | 赤線・青線のある町
 山に囲まれた埼玉県の秩父は、市街地を流れる川の周辺に形成されたひな壇状の街です。34箇所観音霊場を始め、市街地には秩父総鎮守の「秩父神社」、山間には「宝登山神社」、「三峯神社」などがあり、見所は豊富です。この3つの神社には江戸時代から伝わる社殿に破風を飾る豪華絢爛な木彫の装飾(懸魚)が施されています。

秩父の長瀞にある「宝登山神社」は白地に極彩色の龍の木彫。
 

秩父神社は、家康公によって建てられているので、日光東照宮の木彫の装飾で名高い左甚五郎による「つなぎの竜」の彫刻などを見る事ができます。江戸時代のこうした寺院における彫刻は、様々な、なぞ賭けを見るものに与えます。鎖で繋がれた竜…川を中心とし、一筋縄ではいかない修験者達が山間部に居たと言われるこの秩父は、幕府にとってまさに繋ぎの竜そのものだったのかもしれません。
 

 町並みは普通に古ぼけた町ですが、50年前にタイムスリップしたようだ・・・と言っても大げさではありません。西武秩父線の終点、西武秩父駅の近くには34箇所観音霊場の13番「慈眼寺」があります。本堂の観音様の隣にはお薬師様の眼病治癒のお堂が奉られています。こじんまりとしたお寺ですが、これが市街地のお寺かと驚く程のひなびた佇まいに驚かされます。明治時代に建てられた本堂には、秩父独特の懸魚が施されています。琴の名手応婦人と龍の模様は、秩父の名物「夜祭」の主役、華麗な山車を飾る懸魚でも見ることができます。
  

 慈眼寺の裏側の路地はとても怪しく必見です。古くからの宿場がある大通りには、木造建築の旧遊郭(赤線)があるようですが、それとは別の青線が駅やお寺の傍に出来たと仮定すれば、だいたいこのあたりではないかと思うのですが、推測の域を出ていません。ただの民家だとしたら御免なさい。
  

狭い路地に所々にある不思議な作りの建物や色っぽい意匠などに、もしかしたら・・・と思いながらの散策でした。
 
 
 白壁の蔵造の本堂がモダンな風情を漂わせている「少林寺」の近くには小規模のスナック街がありました。ここも青線ストリートだったようです。
 
 
 小さな路地に不思議を極めた、「クラブ湯」がありました。男湯と女湯が扇形の意匠で、鮮やかな豆タイルの装飾がとても怪しい感じです。卓球場のようでもあり、カフェーのようでもあり・・・。
  

 
 
 番場通りと昭和通りの交差点には、誰もが足を止める、大正~昭和初期の見事な看板建築が現存しています。その周辺にも華麗な洋館が立ち並び、その保存状態の良さなどから、まるで建物のミュージアムに居るような気さえしてきます。俗に言う大正ロマンの退廃的な雰囲気がここまで残された場所は、本郷や千駄ヶ谷の古書街かこの秩父の通りと言ったところでしょうか?
 
 
 埼玉の山奥にパリ出現。大衆食堂「パリー」。なんてデカダンス!
 

 ネオン管がまだ残っていて、お店の横にはかわいい屋敷神様が・・・。
 
 
 パリーもこちらの「小池煙草店」の看板建築も、登録有形文化財になっています。看板建築は表面は木造モルタルですが、あたかも西洋の石作りのビルで、3~4階建てに見せかけるのが特徴で、中の家屋よりも路面側の天井高は相当高めに作ってあります。裏側をつっかえ棒などで立てているものまであって、まさに看板なのです。


 お寺や神社巡りもいいですが、近代建築を巡る楽しさも秩父にはあります。
 

順子の部屋(さぬきうどん県)

2012年06月12日 | 赤線・青線のある町
 久々に郷里のうどん県に帰りました。誰が決めたか知らないが、玄関口の高松駅はさぬきうどん駅に変わっていました。四国香川はしばらく故郷を離れているうちに、さぬきうどん自治区になってしまったのです。でもさぬきうどん県の人々はたらいうどんで産湯を使い、朝昼晩うどん、死に水ですらうどんの出汁なのですから、それも致し方ないことです。
 
 この度めでたく、観光地を賑やかに(騒々しく)するミシュランガイドから三ツ星を頂いた松平家の下屋敷跡の栗林公園に、海を渡る世界一の瀬戸大橋、四国88箇所巡り・・・と見所はたくさんあるうどん県ですが、今回ご紹介する場所は子供の頃、知らずに踏み込んだときに、その雰囲気の凄まじさに圧倒された場所です。思えばそれが初めての青線地帯との出会いでした。そこは高松市街地の中心部分に近い、琴平電鉄片原町駅の前にある場所です。近隣には江戸~大正時代からある海に張り出した出島の「城東町」(旧遊郭~赤線~現在も全国区に知れ渡る歓楽街)があるので、そこへのアクセスに使う片原町駅前が青線になったのでしょうか。
〈赤線・青線のある町〉


 気品すら漂うボロさ。 

 ここ20年、半廃墟のような佇まいで、開発も入りません。

 完全に遊郭そのものの出入り口が、駅前に出現する異様。

 昔のお店の手書き地図ですがネーミングの多彩さにご注目。「泥棒貴族」「ボントン」「バンボリーナ」「子子子」「鳩子」・・・。
 
 建築意匠は当時のまま残っています。
  
 とある一番奥まった所にあったお店には夜間保育の看板が出ていました。さらに小道に入ると力強い看板文字と場末の極限のような店舗の数々。
 

 
 通るたびに何も変わっていなくてほっとするのです。この界隈、はたして今も営業しているのかどうか不思議なのですが、流石に夜に出向いて確かめる勇気はありません。

  
 四国一の歓楽街であった高松市にも過疎の波が押し寄せ、ずいぶん街中が寂しい気がするのが残念です。お店の看板の多彩な文字に田舎の逞しさを感じます。

千住宿と千住遊郭(足立区)

2012年01月02日 | 赤線・青線のある町
謹んで新春のお喜びを申し上げます。

 今回ご紹介するのは、足立区、北千住駅に近い「千住宿」です。現在の日光街道と平行に並ぶ商店街が、江戸時代の旧日光街道(現在宿場町通り)で、その周辺に形成されていたのが千住宿で、江戸四宿(新宿、板橋宿、品川宿、千住宿)のうちの一つです。震災と、戦火から免れた場所が多く、千住には歴史的な景観や細くて折れ曲がった路地が残っています。
  

 駅、徒歩一分で連れ込み旅館とは下町パワー、いえ千住パワー。
     

「毎日通り飲食店街」が街道沿いの小道にありました。昔の歓楽街や色町を示すレトロな電柱がありました。
 

旅館の看板が郷愁誘う通り。屋根瓦にも風格があります。


街道近くにある氷川神社は大黒天が旧本殿に納められています。花こそ咲いていませんが、藤棚があって、風雅な雰囲気が感じられた神社です。
  

重々しい銭湯の建物と、歴史的建造物の横山家住宅。
  

 宿場町ですから宿場女郎も当然居ました。大正10年に、旧日光街道沿いの宿場町に散在していた女郎達を、現在の日光街道を跨いでさらに西へ進んだ場所に指定地を設けて移動させ、「千住遊郭(柳新地)」とし、戦後は千住の赤線地帯として売春防止条例が発布されるまで繁栄したという事です。現在は千住柳町と言って、大門通り、いろは通り、仲通りなどといった、いかにも赤線的な名称の商店街が並ぶひっそりとした雰囲気の住宅地となっています。駅から15分も歩くような遠い土地ですから、スナックなども少なく、如何わしさは皆無です。

 大門(おおもん)通りといろは通り。かつて柳新地だった千住柳町を取り囲む形で、様々な商店街があるのですから、赤線が地域にもたらした利潤には驚かされます。
 

美容室は女給さん達のため。寿司屋も花街周辺ではよく見かけます。
 

おどろおどろしいアパートの廃屋。電柱には古い地名の「廓」の文字。廓町って、露骨すぎですね。
 

柳町の隣町、大川町の物干し台が印象的な家屋。この遊郭にはお堀やどぶ川などの他の地域と色町を隔てた結界がありません。しかし目と鼻の先には荒川と隅田川が流れています。自然が生んだ結界という事でしょうか?


 危惧していた通り、古い建物は相当建て替えが進んでいるようで、戦後のカフェーの建物は見当たりません。戦後の赤線の店舗はカフェー(特殊飲食店)といって、建築そのものは木造で、座敷があったりするのですが、窓は大きく、入り口は西洋風、または和洋折衷様式を基調としていました。モルタルでひさしに段を重ねたり、スペイン瓦や色とりどりの豆タイルで一階部分に装飾を施し、華麗なネオンサインで粋な店名を掲げます。しかし、ほんの僅かにカフェーの痕跡を残す店舗跡がある他は、曳船にある「鳩の町」のようなカフェー独特の建物にはお目にかかりませんでした。

複雑に折れ曲がった路地の中にカフェーと見まごうばかりの左官屋さんの店がありました。看板建築にありそうな中国風の文様を施した入り口、戸袋にコンクリートで擬似木をあしらったり・・・。 
 

やっと目にしたお店はカフェーでしょうか?バルコニーやら二色に色分けされた外壁などが粋な感じでした。
 

通りから入り口は塀を建てて隠していましたが、ひさしのディテールが綺麗です。
  

ひさしがアール状である事を除けばまるきり新しい建物にも見えます。


ちょっと装飾が物足りないのですが、建て替えを免れるのはむしろこういう一見普通のお宅なのかもしれません。


灯篭と楓の木がむちゃくちゃな和風テイストをかもし出す珍住居。
    

色町には質屋が必ずあります。左官屋がイタズラしたようなポストの下に小さな擬似木の装飾のある普通のお宅。右端の建物は入り口が2つあるのがカフェーっぽいのですが普通の民家かもしれません。当時、女給が客引きを行うのは、ひとつの入り口につき一人と決められていたために、女給の多いカフェーは無理やり沢山の入り口を設けていました。
  

出前は敏速、そしてニコニコ商店街。
  

色町の粋。お風呂タイルを貼った染み抜き屋の入り口。竹の格子も数奇屋をイメージしたのでしょうか。
    

不夜城新宿~その2(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町
 (その1の続き)内藤新宿は、飯盛女郎を有した飯盛旅籠が多数あり、明治~大正と吉原や州崎に並ぶ大型の花街(新宿一丁目~三丁目までの広範囲)になります。大震災の被害はありませんでしたが、大空襲で当時の遊郭は被害を受けて、戦後は靖国通りと新宿通りに挟まれた二丁目の一角が赤線地帯となり、売春禁止法が制定されて以降は、ヌードスタジオやトルコ風呂、ビジネスホテルなどと共に、当初新橋にあったゲイバーが進出して街をゲイ一色に染めて行きます。かつては武士道や仏門に加護され、軍国主義の台頭で歴史の狭間に追いやられた隠花植物達が再び、ゲイボーイやシスターボーイなどと、呼ばれてお茶の間を賑わした礎は、元々赤線があった新宿で大きく花開いたのです。
 

 しかし、もと赤線に共通するうらびれた感じ・・・仲通り沿いにある古い建物。作りが地味ですが、入り口が何か所もあることから、カフェーの店舗跡ではないでしょうか?
  

 花街と言えば質屋。
 

 ひさしが、アールを描いて、とても古めかしい雰囲気のバー、酒寮奴。
  

 通りに面して外壁を大きく取ってますが中は日本家屋のちゃんぽん屋さんに、古い焼き鳥屋さん。
 

 人がやっと通れるぐらいの路地には天蓋があって、異世界の雰囲気。明るい時間でも酔客のカラオケの声が聞こえるバー・・・。プレイスポットデイトライン・・・。
 
 
 宿場があった以前からの江戸時代の史跡が豊富にあるのが、この二丁目界隈です。3軒お寺があり、かつて新宿御苑に屋敷を構えていた内藤家の菩提寺「太宗寺」がその中では最大です。入り口の大きな銅造地蔵菩薩坐像は、江戸の街道の入り口に立つ江戸六地蔵の一つで、通行人を見下ろすように建っています。 
   

 夏の縁日には、境内で閻魔堂ご開帳が行われていました。塩だらけの塩地蔵は江戸時代ならではの風変わりな民間信仰のスタイル。屋根が立派な本堂もなかなか風情があります。
  



 こちらの閻魔堂は都内でも最大。中に座している6m近くある閻魔様に誰もが驚嘆の声を上げます。閻魔大王は、地獄に落ちて命乞いをする罪人の嘘を暴き、罪を制裁する怖い存在ですが、元々浄土に住まう仏であった事から、江戸時代では信仰の対象となっていました。
 

 その隣のこれまた巨大な奪衣婆は阿鼻叫喚。
 ひぃ!

 目に血管の浮き出た生々しいガラス球を使っている事などから、これは仏像ではなく、江戸時代に流行した生き人形の類だと思われます。当時お祭りの際などに、見上げるばかりの山車の中央に鎮座していたのが巨大な生き人形で、菊人形などの見せ物興行などでも大活躍しましたが、今現在人形の需要と言えば、ひな祭りと五月人形ぐらいです。脱衣婆は地獄へ向かう三途の川を渡る死者の衣を剥ぐ事から、遊郭の守り神とされていました。「こちらで衣服を脱いでお遊び下さい。」というわけです。他にも遊郭の守り神は、布袋様(時には狸が化けた布袋様)、弁天様などですが、皆お腹を出して半裸であることが共通していて、成る程と思います。

 大宋寺の北側、靖国通り沿いには「正受院」と「成覚寺」があります。正受院にはこれまた小ぶりの脱衣婆の像があって、こぎれいな境内です。一方、成覚寺はどうにもこうにも、傍を通るだけで嫌な気持ちになってしまうのです。特に境内の裏側の細い通り道など昼でも薄暗く怖い感じがします。
 

 このお寺の由来を聞いて納得したのですが、以前は遊郭で死んだ女郎達の投げ込み寺であったという事です。遊女は生前、贅沢な成りをしていても、死ねばお墓すら立ててくれないのです。またこの界隈で遊女と心中したものを供養する旭地蔵が、遊女達を弔う子供合埋碑と共に残されています。遊女との心中というのはご法度だったのでしょうか、今も目黒不動尊の門前や、池袋界隈にもそのような碑があります。今現在地蔵や子供合理碑は靖国通りから眺められる本堂の前にありますが、当時は境内の裏の墓地、裏通りの近くにあったというのです。

 二丁目を出て、御苑大通りを渡り、伊勢丹のある新宿三丁目界隈までかつては宿場でしたが、今現在は商業施設が並び、かつての面影はありません。こちらには末広通りという通りがあって、昔懐かしい雰囲気の寄席、末広亭があります。終戦後すぐ建てられた木造の劇場で、外壁のスクラッチタイルや白い提灯形のガラス電灯、豆タイルが縁取りされた切符販売所が素晴らしく、寄席の内部の客席は緩く傾斜した畳席があり、一般の劇場には無い雰囲気があります。
 

  


 およそ文化的な雰囲気とはかけ離れた新宿ですが、戦前は「新宿ムーランルージュ」などといった軽演劇を上演する劇場もあり、伊勢丹デパートの豪華な装飾などに代表されるように、今よりも格段洒落た場所であったという事です。
 (その3に続く)

不夜城新宿~その1(新宿区)

2011年10月31日 | 赤線・青線のある町

 眠らない街、新宿をご紹介いたします。
靖国通り沿いの歌舞伎町一番街のネオン。私が子供の頃は、TVで歌舞伎町の悪の巣窟をルポする番組をやっていましたが、今現在歌舞伎町は、家出中学生が街娼をさせられていたり、ドリンク一杯で目から飛び出るようなな値段を吹っかけられたりするような事はないらしいです。でも親子そろって歩ける健全な街になったかというと、そんな事はなく、歌舞伎町の不健全さは東洋一、眠らぬ不夜城として、この街は人々の悪徳と欲望を吸い込んだり吐き出したりしています。

 最近は、演歌や東宝ミュージカルの興行を行っていた新宿コマ劇場や、広場を囲むように立っていた映画館も消え、文化的にも少々勢いを欠いた歌舞伎町です。この土地が歌舞伎座が無いのに歌舞伎町という名前になったのは戦後の復興に当たって、地域の有力者が歌舞伎の専用劇場のある銀座のように文化的な街にしようと提唱した都市構想から由来しています。しかし、その計画は実現せず、当時大衆娯楽を担っていたレビュー劇団(コマダンサーズ)の専用シアターとして作られた新宿コマ劇場や、映画館の建物がコの字型に取り囲む噴水広場などが出来ましたが、その周辺は、パチンコ屋、風俗店、非合法の青線地帯、連れ込み旅館が幾重にも取り囲む大歓楽街です。
     

 ホテル街に近い昭和の香り漂うキャバレー。
 

 明朗会計~円ポッキリ、という宣伝文句が流行った時代の産物。入り口には様々な団体や同業者お断り!の張り紙が・・・。色電球を無数に取り付けたネオンの入り口が貴重。
   

 古めかしいジュース屋さん。窓の柵の色彩にご注目。
  

 レトロなネオン看板のバッティングセンター。消えかけた看板は長島選手がモデル?
  

 歩き疲れたら、日本庭園を思わせるラブホテル「山○」へ。
 

 石臼を飛び石として利用した茶の湯の庭さながらの装飾。
  

 花園神社の裏手側は、「ゴールデン街」。戦後の焼け跡に出来た非合法の青線地帯でしたが、当時のバラック建築の如何わしさはそのままに人々の憩いの飲み屋街として今も繁盛しています。
  

   

 かつては都電もゴールデン街の傍を走っていました。ストリップ小屋まで隣接する昭和のカオス。
   

 通りの中やお店は撮影許可が必要で、時折ドラマのロケなどでも使われているようです。一切開発されていない、数少ない魔窟の跡としていつまでも残っていて欲しいと思います。


 ゴールデン街の東に位置する「花園神社」は新宿の総鎮守です。参拝客が絶えず、秋の酉の市には大きな熊手が売られ大変な賑わいです。なんでも話によると、水商売のお店は、こちらを購入しないと痛い目に会うとか会わないとかという話を聞いたことがあるのですがさて、真偽のほどはいかばかり?この花園神社、社殿は新しいのですが、お稲荷さんに江戸時代から続く庶民の信仰のスタイルを見て取れます。
  

 性器を模ったご神体が鳥居の頭上に収められています。お稲荷様は豊穣の神様であると同時に、狐が穴を出入りする事から性交を意味します。祠の後ろにも性器を模った石(陰陽石)があります。文明開化と同時に明治政府によって廃止されたのが、性器そのものを御神体として崇める信仰スタイルで、首都圏だと川崎に残るのみですが、花園神社にもこうしてひっそりと迫害を逃れて残っているのです。
  

 花園という名前は、この場所に武家屋敷があり、花が咲き乱れていたから・・・と言いますが、花園という地名がある場所には必ずと言って良いほど、花街が存在します。新宿の花街の起源は宿場にいた女郎達です。新宿は古くは広大な内藤家の武家屋敷(現在の新宿御苑)があった事から内藤新宿と呼ばれ、江戸四宿(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿)のうちの一つでした。有事の際に将軍が江戸城から甲州へと逃げるために作られた軍事道路の甲州街道と、江戸城築城の為に奥多摩の石灰を大量に必要としたため作られた青梅街道の起点が、新宿追分で交わる交通の要所で、荷を積んだ馬車が行き交い、馬糞がそこかしこに落ちていた荒っぽい宿場町でした。江戸時代、宿場町にはだいたい宿場女郎が一軒に一人は居て、旅人のお給仕と共に性的なサービスも行っていました。そんな彼女達は幕府公認の吉原の遊女達と分けるために、飯盛り女郎と呼ばれてしました。もともと非公認なので、宿屋が複数の女郎を抱えたり、女郎が吉原の花魁のように派手に着飾ったり・・・その都度、取り締まりが行われたようです。安く遊べる宿場女郎の繁栄は、吉原の存亡の危機・・・天下の吉原と宿場とのいたちごっこが繰り広げられていたのです。
 もともと江戸の町が整備され始めた時に、西の宿場町は、新宿ではなく、下高井戸にありました。ところが、新宿の地に宿場町を作ろうという嘆願が出されるのですが、便宜上というよりは、宿場女郎を包括する宿場町の運営を目論む業者が出した物でした。女郎ありきの宿場構想だったのです。
 その宿場町は、江戸城寄りの四谷大木戸から、今現在の新宿3丁目まで一キロ程、東西に伸びていましたが、宿場町が姿を消すと、今度は遊郭としての機能だけ残り、終戦後は新宿二丁目にある赤線地帯へ整備され、売春禁止法案が発令されるまではカフェー(特殊飲食店)の居並ぶ花街となりました。まだ10数年前まで、赤線跡の二丁目の仲通りには、お稲荷さんがあったり、的を矢で射る的場があったり、花街の名残を示す古風な建物が沢山残っていました。現在も花園通りという通りには柳並木などもありますが、現在はゲイバーがひしめくいささか地味な歓楽街です。(~その2へ続く

タイルが誘う夢の街(墨田区)

2011年05月11日 | 赤線・青線のある町
墨田区にスカイツリーが建設中で、なにかと取りざたされることが多くなった墨田区界隈ですが、レトロな街「鳩の街」と「玉の井」についてご紹介します。
  
 
 都心から隅田川を隔てて東側にある、向島芸者街(三業地)の隣街にあった通称「鳩の街」。東武線の東向島駅(旧玉の井駅)近くにあった「玉の井」と並ぶ「カフェー街」(赤線地帯)でした。建設中の大きなスタイツリーが望める東武線曳船駅から、徒歩で行くには骨の折れる鳩の街ですが、カフェー街が栄えていた頃は都電が通っていて、浅草からもアクセスが便利な土地だったと言います。
 鳩の街は、終戦後から、売春防止条例(1958年)が施行されるまでの短い間、空襲で焼け出された近隣の玉の井遊郭から流れて来た業者によって開かれたカフェー街として栄えていた場所です。鳩の街商店街から小道に入り、路地のそのまた路地の奥・・・といった場所に、ごくごく小さな通りがあります。 
 
 昔から遊郭、新地と呼ばれていた場所は戦後、「カフェー街」と呼び名が変わりました。カフェーは、飲食を供するカッフェーではなく、女給さんによる性的な接待を主としたために、銘酒屋や特殊飲食店とも呼ばれ、警察の管理下に置かれ、決められた敷地内で、店舗も一目でそれと分かるような外観にするように指導されていたそうです。
 大正時代から昭和初期にかけては、小さな商店までがこぞって、人々の目を引く、趣向を凝らしたモルタル作りの看板建築や銅板張りの看板建築で往来を賑やかに飾っていた時代がありました。この世を忘れさせる遊郭の流れを汲むカフェーなら、なおさら派手な外観にネオン看板を掲げて、えも言われぬ世界を演出していた事でしょう。
 鳩の街も玉の井も、戦後の復興の最中、業者が民家を買い上げて一階部分だけをサロン風に改装したにわかこしらえなので、大規模な赤線地帯の州崎遊郭や吉原遊郭のように凝った店舗はありません。ただ、豆タイル装飾の技が優れていて、鳩の街に数軒、玉の井には路地が行き止まりになった民家の影に隠れて一軒、パステル調の可憐な色合いに配色されたタイルの装飾の建物があり、とても印象的でした。
     
 法律も物事の価値観も今とは大きく違う当時、闇夜にネオン管に点されて、建物を蛇のウロコのように包み、色味を艶かしく変えていたタイル装飾は、今は何も語りません。
 


 円柱を囲む青いタイルの所々にピンク色のタイルがさし色で入っています。のぞき窓は和風で全体的に和洋折衷です。
 
 一階部分だけの装飾ですが、市松模様に若草色と桃色が踊る青いスペイン瓦の日よけがついた建物。
 
 ラブホなどは入り口が宇宙船みたいな所が多いですが、このお宅もSF風。
  

   
トタンもタイルもカーキ色で統一されてて、とってもシックです。

 和洋折衷のお宅はとても不思議な外観。そしてさらに謎だったのはオフリミット(立ち入り禁止)の文字。
 
 調べてみると進駐軍(GHQ)が終戦後、出入りしていた名残でオフリミットと壁に書かれていたのです。戦後業者と国家が組織的に、遊郭に進駐軍の遊興場として出入りを推し進めたために、戦前からの生業としていた遊女や新たに民間人の女性が大勢、新聞広告で募集されました。江戸時代からあった吉原のような巨大遊郭街や、戦後新しくできた新興の鳩の街のようなカフェー街、またダンスホール形式の大規模なキャバレーが、新たに小岩や、アメリカ軍の空軍基地が置かれた立川、将校住宅のあった三鷹等で、国家の支援の下、業者によって営業されていたという事です。しかし戦後一年足らずで1946年、マッカーサーによって公娼廃止令が出ると、入口に「オフリミット」が掲げられた多くの遊郭街は、日本人相手の合法的な赤線地帯として整備されました。ダンスホール形式のキャバレーは日本人のニーズにあわないので、解体されました。しかしたまったものではないのが解雇された女給達です。立川で解雇された大勢の元ホステス達は、パンパンガールとして米兵相手の街娼になり、連れ込み旅館にしけこんだり、赤線の傍に形成される事の多い、非合法の青線地帯(私娼街)に組み込まれていく他ありませんでした。
 
 「玉の井」は、関東大震災以降に、浅草観音堂界隈から流れて来た遊郭の業者が築いた非合法の私娼街でした。しかし、戦後に晴れて合法の赤線地帯となった場所です。戦前の玉の井は小説家永井荷風の「濹東綺譚」でドブ川沿いのうらびれた娼館の様子が詳細に描かれたために、悲しい私娼窟の代名詞として知れ渡る事になりました。大正時代から戦中大空襲を受けるまでは、表通りにあたる、商店街の「いろは通り」を挟んだ東側に広がっていた私娼街でしたが、空襲で全焼した以後は、通りの西側に焼け残っていた民家を業者が買い上げて、外装をカフェー調にして、赤線の町を築いたということです。
 
 かつて湿地帯だった場所に無秩序に建てられた家屋の名残で、そこは大の大人一人しか通れないような小さな道が曲がりくねって形成されたラビリントと化しました。通りの入口には「この道抜けられます」と書かれた看板が立てられて、秘密の入り口を指し示していたと言うことです。戦前、戦後といろは通りを挟んで営業していた場所は推移しましたが、くねくねと折れ曲がる道筋が独特の雰囲気を醸し出す場所です。
 現在は、玉の井という地名は無く、カフェー調の建物も数軒スナックに転業していたりしますが、建物の殆どが民家に転用され、通り抜け道だった場所も垣根や覆いで塞がれ、女給さんが入り口に立ち、おいでおいでと手招きした猥雑な雰囲気はなくなりつつあります。
  

 
 緑色のタイルがまぶしいお宅。外壁の赤と緑のコントラストが奇抜なお宅。

  

 
 角に当たる部分を高く塔のように盛り上げて目立たせた、和洋折衷の建物。二階部分のバルコニーは洋風、一階部分は和風な旅館風の作り、いびつな中にも風格があります。
  
 細い路地にある洋風の円柱のある建築。瓦や外壁がコバルト色で美しいお宅。大きく窓を取って中を覗きやすくするのもカフェー調の建物の特徴です。

 
 縞柄の外壁が不思議なスナック。古い洋風の電柱はかつてそこが色町や花街であったことを示しています。

  
 殆どの建物の外壁はペンキで一緒くたに塗りつぶされていますが、当時はもっと派手な色合いだったのかもしれません。

   
 ここでは銭湯もカフェー風。ひさしにはスペイン瓦、上部に鏝絵で波が描かれていました。

 
 ちょっとカフェー風な作りの教会と、タイル貼りの櫓があるいろは通りの玩具屋。

 
 角がカーブを描いて、入り口を開放的に取った洋館のようですが、木造の民家です。日が落ちると、窓枠にまで菊の花の意匠を施しているお宅を見つけました。

戦後派な街(池袋・豊島区)

2011年05月10日 | 赤線・青線のある町
 現在山の手線沿線上では、新宿、渋谷につぐ大繁華街の池袋ですが、その発展の歴史は最も新しく、大正~昭和頃と言われています。1885年にようやく鉄道が開通されますが、駅は無く、赤羽、田端のほうがいち早く貨物用の駅として整備され、1903年にようやく新宿~田端間に池袋駅が出来たということです。それまでは田畑が広がるだけの池袋はかつて、巣鴨村と呼ばれ、中山道の板橋宿の手前の休憩所を擁し、巣鴨地蔵尊のある信仰の場所として大いに賑わった巣鴨界隈と違って、辺ぴな場所であったようです。江戸時代には旅人をねらった辻斬りが横行し、歴史に残る未解決事件の供養塔として建てられた四面塔尊のお堂が今も駅東口の小さな公園にあります。
 しかし転機は訪れます。埼玉方面のターミナル駅として当初目白が起点となるはずでしたが、目白は学習院のある閑静な高台の場所、近所住民の反対運動に合い、池袋が今見るように西武線、東武線を初めとした西の玄関口となってから、急速に発展する事になったのです。今はもうありませんが戦前は思想犯を収容し、戦後はA級戦犯を裁いた巣鴨プリズンと言われた東京拘置所(現在サンシャインシティ)があった事も昔話。サインシャインシティの水の流れる憩いの場に、戦争の歴史を物語る慰霊碑があるのを知っている人は少ないのではないでしょうか。

  
 池袋の東側、東池袋にグリーン大通りという緑のまぶしい通りがありますが、ここは市電が以前走っていて、その両隣の周辺一体は、大きな雑木林で、「根津山」と言われる丘がありました。今は削り取られて、跡形もありませんが、根津山の林の境界にあたる部分が以前ご紹介したアップダウン著しく、古い家屋が立ち並ぶ「日之出町」なのではないかと思います。根津山は戦時中、大きな防空壕があり、大空襲の際、多くの死傷者を仮埋葬した場所でもあります。現在、本立寺などお寺が集積する場所に、単純に空き地として解放されている池袋南公園があり、そこが仮埋葬の墓地であると言われ、建物が今現在も建てられない所以となっているようです。


 グリーン大通り沿いに昔ながらの薬局の建物が残ってます。

 グリーン大通り、北側の東池袋一丁目は人々でごったがえす大繁華街です。しかし、大きな通りの奥には闇市の跡がまだあります。戦後の焼け野原、駅の周辺など突如現れたのは廃材など建てられたバラックの店舗が軒を連ねる闇市で、政府の侘しい配給品では飢え死にすると、闇で流通していた米や焼き鳥などを初めとする食品やアメリカ軍の横流しの物資が公然と売られていました。武蔵野市吉祥寺のハモニカ横丁、現在は駅周辺が整備されていますが荻窪の荻窪銀座商店街などは、闇市が商店街へとゆるやかな時間をかけてシフトしていったために、かつての世相などを知る手がかりになると思います。池袋の闇市のあとを示す通りは、「美久仁横丁」、「栄町」、「人生横丁」、「ひかり町」という小さな折れ曲がった路地でしたが、現在人生横丁、ひかり町は惜しくも更地となり、再開発のためビルが建設中です。
  
 この横丁・・・飲み屋が主ですが、ラブホテルも周辺に多数あるので一見すると違法に客とやり取りする青線地帯のような場所です。池袋は新宿、板橋のように、赤線地帯(宿場町に併設された色町として、売春防止条例が出来るまで長く政府に容認されていた公娼がいた遊郭町)がありません。しかし駅のどの出口もビジネスホテルやファッションホテル街が連なる地域が数多くあり、街中が歓楽街と言ってもいいでしょう。

   
「栄町」はL字に折れ曲がって見晴らしの利かない不思議な通りです。

    
 飲めば天国?それともお酒に溺れる地獄?

   
 美久仁小路は、その小粋な当て字の名称や、少し折れ曲がった通りの様子などからあれこれ想像を掻き立てられます。そして従業員しか通らない真っ暗な裏小路まで、「通り抜けられます」と書いてありますが、これは墨田区の玉の井遊郭の「この先抜けられます。」をもじっているのでしょうか。
 

通りの中央にあたる店舗がなくなった為に、かつてはジメジメして真っ暗な通りが現在は見晴らしが利くようになってしまいました。 
   

 新婚姉妹や和・・・美人姉妹の店なんていうと聞こえがいいですが、ママはもう相当なお年の筈。しかし3階建で小料理屋のような丸窓が粋です。3階建ての木造建築が他にも何軒かありましたが、隠し部屋がありそうで興味深いものがあります。
  

   

 今もこの通りには根強いファンがいると言うことです。
  

 黄色い外壁が昭和な雰囲気をかもし出す池袋区役所の近くはボロボロのビルが多いのですが、少しずつ壊されていく建物が増えてきました。画像のお弁当屋さんは今はもうありません。
   

 区役所通りの北側、明治通りと山の手線を挟んだ細長い土地は、大きな再開発もなく古びた場所です。わずかなお店がかろうじて営業している寂しい場所です。
     

三鷹探索~その1(三鷹市・武蔵野市)

2010年07月23日 | 赤線・青線のある町
 JR中央線三鷹駅周辺は古い街角の雰囲気をを満喫する場所に乏しい町です。中央線の各駅の中では、いちはやく開発が入って駅の周辺が整備されてしまったからでしょうか。
 中央線の路線を挟んで、南側三鷹市には、むらさき橋通りと、雅な名前が残っています。江戸時代は、武蔵野市の井の頭池から豊富に出る湧き水と、三鷹周辺で取れたむらさき草の根で染められた、紫染め(江戸紫)の産地でした。
 戦時中は、三鷹市、武蔵野市には中島飛行機、日本無線などの工場が建ち、軍事産業の街となりました。したがって、都心から離れた郊外であるにも関わらず、大規模な空襲があり、中島飛行機工場が全壊、周辺の街も大きな被害を受けています。中島飛行機だった場所の広大な土地は現在、武蔵野市役所をはじめとした総合運動場などの公共施設になっています。

 三鷹駅の北側、武蔵野市中町一丁目「八丁通り」周辺は、空き地や、駐車場、閉じた商店が多く、駅前にも関わらず、閑散として寂しい街です。大きな駐車場の傍らには八丁稲荷があります。
 

 いつも気になっている建物。すでに使われていませんが、二階のバルコニーの手すりが砂利で塗装加工されています。向かって右側には溶岩石で出来た小さな滝の跡まであるし、外壁も溶岩石を使った懲りようで、周辺にもニ、三軒既に空き家となった居酒屋があります。
  

 八丁通り沿いには数軒のスナックが立ち、さらに小さな横道を確認しました。
 
 
 舗装されていない砂利道を明かりに誘われていくと、八丁通りの裏にあったであろう、昭和のうらびれた匂いムンムンの裏通りを見つけました。
 
 実はこちらの通りは、かつては武蔵野八丁通りという青線地帯でした。三鷹駅からさらに南へ直進すると、武蔵野市の総合体育館や市役所になりまして、そのあたりは戦時中、中島飛行機工場という広大な軍事工場のあった場所です。激しい空襲に晒された工場の跡地は進駐軍に接収されて、グリーンパークという米軍将校の住宅が出来ました。(現在の緑町という地名が当時の名残です。)そして今の市役所がある場所の西側には、プロ野球の興行を行っていた神宮球場が米軍の接収で使えない為に、新しくグリーンパーク野球場が三鷹にプロ野球の公式野球場として昭和26年にオープンしました。国民的娯楽施設の出現に水商売の業者が期待をかけたのは言うまでもなく、何やら怪しげな特殊飲食店がオープンしだしたのも、丁度昭和25~6年頃と言います。しかし終焉はあっけなく訪れます。水道橋に出来た後楽園球場の出現と、芝生に適さない土壌の問題やらで、グリーンパーク野球場は瞬く間に閉鎖。また武蔵野市の地域住民が、特殊飲食店の業者に対して、立ち退き運動を起こしました。(特殊飲食店街が形成されゆく事に当惑する市民の声は、ネット上で閲覧できる昭和26年の参議院会議録などで知ることが出来、大変興味深いものがあります。)


 今にも消えそうな町並みですが、これが意外と地元のお客さんで賑わっていて、なんともなんとも不思議なスナック通りです。
 夕暮れ時、街角に一人で佇んでいると、ネオンがまた一つ、また一つと明かりを点していく。昼は死んだと見せかけて闇が迫ると同時にその秘密の花弁を開き、生命を得る月見草のような看板たち・・・。

 JR三鷹駅の南側は、駅前に古い町並みはありませんが、まだ小さな通り沿いに、築年数の古い飲み屋が所々残っていて、面白い箇所がありそうなので散策してみました。
 多くのファンを持つ作家の太宰治は、終戦後間もなく、三鷹駅近く、多摩川浄水で情死をしましたが、生前出入りしていたといわれる酒屋の跡地に、現在太宰治の関連資料を集めた文学サロンがあるというのでどんな場所かと赴いて行ったら、これがうらびれた大衆酒場が軒を連ねる通り沿いで、腰を抜かしました。生憎サロンは閉まっていたのですが・・・。
   
 この看板の数・・・。なんでも三鷹は、中央線では阿佐ヶ谷並に次いで飲み屋件数が多い街だとか。戦後、三鷹が都心に並ぶの歓楽街を目指していた過去が微妙に陰りを与えてます。

 このいずみ通り(下連雀)の居酒屋の長屋はとても興味を引かれます。


 こちらの「しの平」。

 ガラス戸の意匠、丸い下地窓、竹の植え込み、縄のれん、モルタル壁に施された熔岩石風のタイル装飾、ガラスケースの中の貝殻、入り口上部の明り取りにはめられた穴空きの板・・・外見だけで酔ってしまいます。
   (その2へ続く)

瀬戸内の城下町(丸亀市)

2010年07月14日 | 赤線・青線のある町
 瀬戸内に面した香川県は琴平市金毘羅宮参りの帰りに、予讃線の丸亀駅に降りて、散策してみました。


 丸亀駅の北側は湾沿いの港町で、関西との流通はもとより、江戸時代東のお伊勢参りと西の金毘羅参りで人気を二分した参拝客を乗せた金毘羅船が停泊し、大いに賑わった名残として、古い宿が今も沢山軒を連ねます。また駅の南側は、日本一高く築かれた石垣で有名な丸亀城がそびえ、戦火に煽られなかった城下町が江戸時代からの、町並みの面影を留めています。ただ残念なことに殆どがシャッター通りで、空き店舗の老朽化も著しく、観光地としての魅力を欠いています。
 
 和風、洋風の建物を持つ、古いお菓子屋さんの洋館部分。右の建物は眼鏡屋さん。

 黒いタイルの大きな商店は現在NPO法人によってイベントスタジオとなっているようです。

 今回の散策の目的は丸亀駅、北側にある新町のカフェー街(遊郭街)跡を見る為です。丸亀のカフェーの存在を知ったのは、もう20年も前の事。たまたま見た新聞の記事で、「港町に残る古い洋館のアールデコ様式のステンドガラス」と書いていたのに興味を引かれて、わざわざ遠出をして見に行きました。その当時はカフェーを、前掛けした女給さんが銀のお盆でお茶を出す場所だと思っていました。それはカッフェーで、カフェーではありません。しかしステンドグラスのはまった洋風のカフェーを数軒、撮影してもはや満足。ついでに今度は駅の反対側、洋館や「うだつ」という火災よけの漆喰の装飾がある町屋作りの店舗が並ぶ商店街の中にある、古めかしい不動産を撮影していると、中からちょび髭の自由業種の二人組が出てきて脅された事など思い出します。
 
 

この光景にはドキっとします。カフェー街跡にある「厳島神社」ですが、鳥居と玉垣の中にバラックが建って集落を築いています。ここでも客を引く女性がいたのでしょうか?露天商がそのまま居ついてしまったような、なんとも説明がつかない光景ですが、瀬戸内には狭い境内に民家が立ち並ぶこんな場所が他にもあるようです。

 今回、久々に丸亀に訪れて、犬にすら会わない町の静けさに仰天し、悲しくなってしまいました。遊郭町だった海沿いの新町も、開発はなく、やはりカフェー跡は減っていました。




 崩れかかっていますが、華やかな手すりの装飾が遊郭のようでもあり、また芸者を呼ぶお茶さんのようでもあり・・・。

 戦後は、遊郭町(赤線)の整備にあたり、格子戸越しに女給さんが客に媚を売る、和風建築での営業は人道的でないと廃止され、1階に洋風のホールとカウンターを持つ開放的なカフェー(特殊飲食店)を構えていたようです。こちらの遊郭町は関西方面の建物の業者さんが内装外装を担当したのでしょうか?とても華やかなアールデコのデザインです。あまりにも洒落ているので本当に大正時代からあったのかと思ってしまいます。


 津坂洋服店です。丸窓に施されたアールデコの意匠、すすけていますが色違いのステンドグラスの入った出窓などこのように優美な店舗は再現不可能なのではないでしょうか?惜しくも現在取り壊しになったとか。

 20年前に中に入ってお邪魔したとあるクリーニング店では、葡萄模様の建付けのしっかりしたステンドグラスが一階の奥に何枚も入っていました。お店の人は、「そういうものが好奇の対象になっても今の商売には関係ない。」と呟くように言っていましたが、そのお店は無くなってしまったのか、今回見当たりませんでした。次訪れた時には、この町がどう様変わりしているか気になる所です。 こちらの建物はしっかりリフォームされていて目を楽しませてくれます。
  


春駒の恐ろしいまでに鮮やかな青いタイルに衝撃を受けました。
今日の実が明日の虚と入れ替わる時代を乗り越えた花が、港町の水際にその幻影を移したようなそんなインスピレーションを得た旅でした。