エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

大学のイメージ

2008-04-10 | ちょっと考えた事

gooランキング。今回はこんなランキングやってました

大学に入学してビックリしたことランキング

で、このランキングを見て俺もビックリしました。という話です。

まず先に「大学」に対する俺の持っているイメージ。
いや、大学に限定せずに「大学を含む教育・学問に関するイメージ」と言った方が正解かもしれませんが、俺は

小学校~高校までの教育は学問をするために必要な「道具」(知識)を使いこなせるようになるための訓練をする場。そして、大学とは、高校までに訓練してきた道具(知識)を利用して、自らの疑問を解明するために研究・学問を行うところ。

と思っています。
だから、高校までの授業は、一方的に与えられた知識を詰め込む、若しくは知識の使い方の訓練(数学の問題とか)をするという方法で問題ないと思ってますし、大学からはいよいよ、それら道具を使って本当の学問をする場であると思うんです。
だから、高校までの授業と大学での講義・研究・学問は全く違うのは当たり前。

1位の「試験に教科書・参考書の持ち込み可能」や3位の「授業がいい加減」、8位の「受講する講義を自分で選択する」等を見ると特に思うんですが、大学って意外に

「単なる高校の延長」

と認識されているんですね。

俺は、今だからじゃなくて高校生の頃から、大学というと凄い特別なイメージを持ってたし大学生って大人だというイメージもあったんだけど、今の高校生~大学生になったばかりの人って、大学に対するイメージはこんなもんなんですね。

つまり、個人的に「認識の違いにビックリした」という話でした。


カテゴライズ

2008-04-08 | ちょっと考えた事

物事をカテゴライズする行為というのは、その物事を「分かり易くする」という意味でとても有効な手段だと思います。
始めて触れる場合であっても、あるカテゴリーで検索した結果見つけた物だったりすると、予めおおよその見当を付けられるという効果が考えられるし、既に持っている資料もだたそのまま抱えているよりも、カテゴライズして管理しておくと後に利用しやすいし、分かり易くなります。

ただ、逆にこのカテゴライズという行為に捕らわれすぎて、逆に物事を難しく考えてしまっり、混乱しちゃったりすることもあります。
最近では、自分のこのブログを書いていて「はて?カテゴリーは何に該当するかな?」とか思ったりする事も多いです。
俺の場合、とりあえず頭の中にあるイメージというか漠然とした思考を文字に置き換えるという形でまず先に記事を完成させます。そして、その記事に見合ったタイトルをその後に考えて、最後にカテゴリー及びジャンル(gooブログには「カテゴリー」と「ジャンル」という区分があります。他のブログのシステムはよく分かりませんが、ブログによりそれぞれでしょうね)の区分をします。
そのカテゴライズの部分で、「こっちかな?」「いや、こっちにも当てはまるな」「でも、こっちの方が今回はだとうかな?」とか、そんな感じです。

しかし、よくよく考えてみたら(いや、考えるまでも無いことなんですが)、ブログに限らず、世の中に存在する全ての事物に関して、何かをカテゴライズするというのは、そもそも人間が自分自身にとって、その方が理解しやすく、扱いやすく、整理しやすくするために、自分で後付的にルールを決めて、それに従って区分しているに過ぎない事なんですよね。
世の中は「カテゴライズのルールが既に有りき」で始まった世界ではなく、存在する物はあるがままに存在しているだけ。それをカテゴライズするのは人間の勝手。と言うことです。
だから、上手くカテゴライズ出来ない物なんて有って当然だし、カテゴライズ出来ない物、どのように捉えて良いのか分からないものなんてのも無数に存在します。

ブログの場合を例に挙げましたが、ブログなんて自分で好きでやってて趣味みたいなもんで、そもそも自分でカテゴリーを自由に作成できる分には、多少「?」と思う部分があっても、さほど苦労することも無いだろうし、あまり支障は無いし、大雑把でもたいして問題有りません。
ただ、これが、学問だとか仕事に絡んでくるとなかなかに厄介なものになってくるんですよね。
特にテストなんかでは「次の○○は、a~bのどの種類に分類されるか?」とかいう問題をやった記憶ありますし、仕事でもある統計を取ったりする作業の時に「これって、こっちにもこっちにも被るんだけど、どっちに集計すればいいんだ?」なんて場面があります。

「aにもbにも当てはまる」若しくは「aにもbにもcにもdにも当てはまらないぞ」なんてものも当然あるわけで、たまにはカテゴライズに拘らず「ありのままのこと」はその「ありのまま」で捉えても良いんじゃないか?とか思ったりもするのですが、テストや仕事では正解が求められているので、その正解を覚えないといけません。まあ、幸いにしてそういった物にはおおよそ「正解」というものが存在しているので、それを覚えるように努力すれば良いわけですが、仕事やテストなどと言った必要で覚える分はともかくとして、それ以外の部分、ブログを始めプライベートであれやこれやをカテゴライズする際には

カテゴライズという行為に捕らわれすぎて、逆に物事を難しく考えてしまっり、混乱しちゃったりすることが無いように気を付けよう

と、最近は心がけています。
アクセスアップにばかり気を取られすぎて、ブログを書くのが苦痛になったり面倒になったりしないように・・という事を『「ブログのネタ」は考えない』という記事でも書きましたが、それと考え方の根本は一緒です。
目的と手段を見間違えないように。
カテゴライズが難しいなと思ったら、

ありのままのことはありのまま受け止めてみよう

と思っています。

って、あれ?ブログで書きたいネタが浮かんで、その前提としてカテゴライズの話が必要だなと思って、この記事を書いたんだけど・・・・その元々何を書きたかったんだっけかなぁ?俺(笑)
これを書いてる最中に忘れてしまいました。思い出したら書いてみます(笑)


「建て前」って「害のない嘘」じゃないかな?

2008-04-02 | ちょっと考えた事
昨日4月1日はエイプリル・フールと言うことで、俺の周囲のリアルな実生活では全くと言って良いほど無関係なイベントでしたが、ネット上では様々な形で盛り上がっていた(所もあった。個人ブログだとか)みたいですね。

そもそものエイプリル・フールについて、ウィキペディアで調べてみると

エイプリル・フールWikipedia

要するに、「害のない嘘をついてもよい」日と言うことらしいですね。
確かに4月1日であろうと、詐欺罪は詐欺罪に問われるだろうし、やっぱり人に迷惑を掛けちゃいけないってのは基本だと思います。

で、その「害のない嘘」と言うのをちょっと考えて「本音と建て前」ってのに考えが及びました。
それに関連して、以前その類の題材をテーマにした記事をDONTAKTで見たなあと思って、ちょっと探してみると、見つかりました。

[非技術的雑文]匿名性をやめるために、敬語を廃止しよう!(疲労コンパイル)

と言う記事。

これを読んで、ちょっと「本音と建て前」というものについて考えました。
ただ、この記事は単純に『「本音と建て前」の「本音」を大事にしようぜ。「建て前」はいけ好かない」』と言ってるだけではなくて、それともまた違った観点からも考察されてますので、単純に「この記事に対する俺の考え・意見」と言うわけにもいきません。
なので、あくまでこの記事は俺が今回、以下に考える事柄の「切っ掛けとなった記事」と言えますし、そういう事だというのをここで最初にお断りしておきます。
「疲労コンパイル」ブログの管理者さんとしても、自分の意図しない部分で変な方向から意見や反論をされても困ると思いますしね。

で、今回取り上げたいのは「本音と建て前」について、「建て前」なんて気持ちの籠もってない物、本心とは違う上辺だけの美辞麗句や敬語なんかはむしろ邪魔で不要か?というテーマをここで自分で作成。それについて考えてみました。

そして俺は、たとえ本心が籠もってなくても、礼儀として「建て前」も「敬語」もやっぱり必要だろうという結果に至りました。
「疲労コンパイル」ブログの管理者さんは、例えとして、バイト言葉の
「本日はご来店まことにありがとうございます」
「お次にお待ちの方、こちらへどうぞ」
や、企業の謝罪での
「…日頃からご支援ご愛顧を賜っておりますお客様、株主様、関係者様に多大なるご迷惑とご心配をおかけいたしまして、つつしんで深くお詫び申しあげます。今回の事件を厳粛に受け止め、社員一丸となって信頼の回復に勤め邁進致します所在でございます」云々
と言う言葉を引き合いに出して、「はたしてこれらに誠意を感じられるか?」と問いかけていらっしゃいましたから、この事例について俺も自分なりに感じたことを。

これらの言葉はしらじらしくて誠意なんて感じないことが多いですし、「表面的に謝ってるだけだろ?どうせ」と俺も思うことは多いです。

でも、確かにその通りなのですが、だからといってコンビニ店に入っても挨拶の一つも無く、無愛想にしている店員と「ご来店ありがとうございます」と笑顔で迎えてくれる店員。いざその場に自分が客として居た場合には、やっぱり後者の方が嬉しいです。単純に。
例えそれが、あくまで仕事上のバイト言葉・接客であって本心に誠意は無かったとしても。
露骨に無視というか、「あくまで仕事でやってるんだ」って態度を出されると、それがその人の本心で正直な態度であったとしても、俺は嫌な気分ですね。そういう従業員の態度は。
やっぱり客と従業員という関係からすれば、当然にあるべき礼儀というか、そういうものがあると思うんですよね。
別に上に見られたいとか、「俺を敬え」とかそういうのじゃなくて、単純に客として、どういう態度で接してもらうと嬉しいかという、それだけのことですが。

店員に「ありがとう」と言う人が大好き。おかしいとは思わない。。。
(↑俺の過去記事です。これも少しは関連ありな内容かな?と思ったので一応)

そして、企業の謝罪会見もそう。
確かに上辺だけの世間体を気にしたものかもしれないし、本心では反省よりも「どうやって乗り切ろう」とか、そう言うことしか考えてないのかもしれません。
でもこれも、だからと言って、謝罪すらしないとか、開き直られるのに比べれば、テンプレート的ではあっても謝罪する姿勢を示すだけでも、俺はまだマシな方だと思います。

確かに、本音を隠して全く心にも無いことを言われるとなると、良い気はしません。
それは、確かにその通りなんです。

でも、だからといって、なんでもかんでも本音で言えば良いかというと、それも時と場合と状況(TPO)ってものがあるかなぁ?と思うんですよね。
「何でも後腐れ無く、本音で言い合える仲」というのは確かに理想だけど、それはそれを言い合えるだけの仲に発展したからこそ出来る部分もあるし、まだ知り合って間もない人や、知り合ったばっかりの人、取引先の人とか、従業員と客とか、礼儀として人間関係を円滑に進める為には本音ばかりではなくて、やっぱり建て前や敬語なんてものも必要だろうとは思います。
で、これこそエイプリルフールに限ったことじゃないけど、「ついて良い嘘」「害の無い嘘」なんじゃないかなあ?とか思ったりしました。

あ、でも最初から意見交換会や会議などの「議論」をする場だというのが決まっている状況下、本音を言い合うことが本来の趣旨であるという場に限定すると、建て前や敬語は邪魔になるのかもしれませんね、確かに。

ゼロ

2008-03-25 | ちょっと考えた事

「コカ・コーラゼロ」という商品があります。
エネルギーが0キロカロリーなのはもちろん、タンパク質・糖質・炭水化物も0グラム、糖類も0。
と、別に説明しなくても既にご存じかとは思いますが。

このコカ・コーラゼロに限らず、ペプシコーラにしろ、他の飲料にしろ、ゼロを謳っている食品は多数あると思います。
特にコカ・コーラについてあれこれ言いたかったのでは無くて、コカ・コーラは具体的な例として挙げたのですが、この「~ゼロ」という商品を目にすると

「それじゃ、いくら食べても(飲んでも)大丈夫なんだろうな?(太らないんだろうな?とか、血糖値上がらないんだろうな?とか健康を壊さないんだろうな?とか言う意味で)」

と言う人が必ずいます。
俺の周囲にもいました。

でも、なんで「ゼロ」となった途端に、こんな喧嘩腰でこんな事言うんだろうなあ・・と考えました。
というか、コカ・コーラゼロに限らずとも、どんな物だって食べ過ぎ、飲み過ぎは体に毒。薬だってそうだし、水だって限度を超えて飲み過ぎれば下手したら死ぬかもしれませんね。
だから、ゼロかどうかに限らずに、どんなものだって限度を超えちゃダメであって、それは多分「大丈夫なんだろうな?」と言った本人でも分かっている筈なのに、何故か「ゼロ」を目にすると、そんなことを口走ってしまう。

この「0(ゼロ)」という数字って、そういう特別な部分がありますよね。
何故だろうと思ってみたら、ゼロって「=絶対」に近い部分があるんじゃないかなあと、個人的に感じました。
ゼロってそれ以外に無いんですから、全くの無。1でも2でも有限であれば、1が1.1だったりしても誤差の範囲内とかいう感覚があるけど、ゼロって僅かな誤差も無い、全くの無というイメージがありますから、その感覚って「絶対」というものに近い気がするんです。
で、日本人って、曖昧にしたがるというか、ぼかしたがるというか、最初から誤差を含みたがる人が多いと思うし、そういう文化ですし、なるべくなら「絶対」を避けたい場合が多いと思います。
多分そこら辺の感覚と「ゼロ」が衝突して「じゃあ、いくら飲んでも~」なんて事になってるのかなあ?と考えました。

ともかく、ゼロであろうがなかろが、どんな物でも度を超えた飲み過ぎは体に良くないと言うことです。

というか、「よし、本当にゼロなんだろうな?飲んでも大丈夫なんだろうな?」という人は、もし「うん、大丈夫だよ」と、お墨付きをもらったとしたなら「よっしゃ、じゃあ飲んでやろうじゃないか」ってことで、実際に飲むのだろうか?あり得ないほどの量を。
「大丈夫」だと言われても、そんなに飲まないだろうとは思うんですけどね。


「正解」と「不正解」は結果によって判断される(場合が多い)

2008-03-15 | ちょっと考えた事

DONTAKTさんの、3月14日分の編集後記より

『ここで取ろうと思っている手段は2つ。勝利まではいかないもののゲームオーバーにはならないような確実な手を打つことと(タイムオーバーになる可能性はある)、勝利する可能性があるものの失敗すれば即ゲームオーバーになるというリスクの高い方法の2つ。

ゲームオーバーになってしまえば今までかけた莫大な時間が無駄になってしまうため、リスクの少ない確実な手を打っているんですが、勝利に結びつくようなリスクの高い方法を使った方が早くクリアできるんだろうなぁとも思う。

たぶんどっちが正解ということもないんでしょうが、どちらを選ぶかにより人の性格が見えるかもしれませんね。』

という記事を読んで、色々と考えさせられました。
これって、実は結構深い内容を含んでいる話ですよね。
で、俺なりに少し掘り下げて考えてみました。

管理者さんは、自身で結論として
「たぶんどっちが正解ということもないんでしょうが・・・」
と、述べられています。
おそらくそれは、「選択時」という視点で見れば正解で、その通りのことだと俺も思いました。

でも、現実にはこれに「正解」が付く場合が多々あります。
そして、それは全て結果論から至る正解だと思うのですが、そもそも物事を評価するという行為が行われる場合、その評価する人というのは、当然その当時の当事者よりも後の人間が行うわけで、一連の行為の結末・結果まで全て含めて、それを吟味して「評価」という結果に至ります。
なので、リスクが高くても大胆な作戦行動に出た場合・・・それが成功を収めると、後にそれが「英断」だと判断され、正解とされる。逆にとった行為は全く同じであっても、結果が全滅だった場合、それは「無謀な判断」「失敗」だと評価される仕組みです。
敢えて退いた場合にあっても、後の結果と絡めて「勇気ある撤退」か「臆病な腰抜け」かの判断に別れるでしょう。例え、その時点では全く同じ行動を取ったとしても、結果が違うと言うことだけで。
歴史上の英雄と言われる人も、暴君と呼ばれる人物も、結構ここら辺は紙一重だったりするかもしれません。

「判断する時点」では、「どちらとも言えない」または「どっちを取っても正解でもあり、また間違いでもある」という場面は多々あると思います。
これって、戦略ゲームに限らず様々な事に当てはまりますよね。例えばスポーツでもそうだし、ビジネスでもそうだと思います。
究極の選択としては、「多くを生かすために一人を見殺しにすべきか」or「多くの犠牲が出ることになってでも目の前を犠牲を容認できない」とかいう話も聞いたことがあります。
(まあ、これは法律的には「緊急避難」と言うことで多くを生かすためには、他に方法がない場合は少数の犠牲もやむを得ないという解釈もあるらしいですが、人道的にはどちらも正解とは言い難いですよね・・・・)

同じ行動を選択したのに、たまたま結果が違うだけで180度正反対の評価が下されてしまう。
全てがそうだとは言えませんけど、そういう部分って、実際に結構多くある事だと思います。大小様々な事柄で。
そういわれると、
「結果ばかりじゃなくて、その判断の時点での、判断の妥当性を評価してくれ」
という気持ちになるかもしれません。
確かに、たまたま上手く事態が転んで良い結果になったのと、判断は素晴らしいモノだったが、運に恵まれず散々であった場合、それでも前者が「正解」で後者が「失敗」だと判断されると、納得いかない部分もあるかもしれません。
そして、それは一理ある論理であるかもしれませんが、でも逆に考えてみると、行為を起こす場合における「判断」はそもそも何故行うのかと言えば、結局は

「ある、目指す目的を果たし、結果を残すために行うもの」

なんですよね。突き詰めて考えると。
ある目的があって、それを達成するために、色々と試行錯誤して、様々に悩み判断をして行くわけですから、時には理不尽な、納得の出来ない結果が訪れようとも、「結果ありき」は、間違ってはいない考え方でもあるのかな?と。

でも、そうは言っても
「じゃあ、結果さえ良ければ何をしても良いのか?たまたま運が良かっただけという人と、本当に優秀な人がたまた不運に恵まれただけという人を、そこだけで線引きしてしまって良いのか?」
と、言われれると、これまた一理あるようにも思われます。

で、堂々巡って結局は最初の

「たぶんどっちが正解ということもないんでしょうが、どちらを選ぶかにより人の性格が見えるかもしれませんね。」

という、DONTAKT管理者さんの発言に戻るわけですけど(笑)
ここで、俺が主張・・・というか、この記事を書いた目的は「ある、一つの結論を出す事」ではなくて、これも最初に述べましたが「深く掘り下げて考えてみること」でした。
なので、こうやって色々と考えを巡らし、考えてみるそのこと自体にも、少しは意味があるかも知れないかな?と。


勉強しろ!

2008-03-06 | ちょっと考えた事
前に書いた記事「デキる人間とダメな子」で、コメントをもらって、そのコメントへの返信中に、ふと思い付いたこと。

親からよく言われたこの「勉強しろ!」と言う言葉について。
俺はまだ親という立場になっていないので、言う側としての経験は無いのですが、子供の頃はよく言われました。「遊んでないで、もっと勉強しろ!」
田舎だったし、特に教育熱心という家でもなかったけど、俺に限らずこのやりとりは殆どの家庭で、良くある事だと思います。
子供心には「うるさいな。分かってるよ」という感じで、うざったい感じしか受けなかったものだけど、最近になって「一理あるんだよなあ」と思うようになりました。

前回の「デキる人間とダメな子」内で書いた、インプットとアウトプットA,Bについて、特にアウトプットAの能力を伸ばすのは難しく、でもそこで差が出るような事を書きましたけど、この「アウトプットA」の能力を伸ばすことは確かに難しいと思いますが、事、「勉強」に関しては、そうでもないように思いました。
と、言うのも「勉強」には範囲というものがあって、出題される問題も予め与えられたインプットに少なからず関連するものだと決まっているので、傾向と対策を練ることが出来る。という点。
例えば数学であれば、与えられた問題に対して、どのようなアプローチをして、どのような公式を当てはめ、何を求めれば良いのか・・・そのようなものに、ある程度の道筋が見えているんですよね。
だからこそ、類似問題というか、数多くの問題に触れることで、大体の筋道・考え方のパターンが分かるように出来ている。だから、数多くの問題にぶつかって経験していくことで「アウトプットA」の能力も磨くことが出来ると思います。
そういう意味では「とにかく勉強しろ!」というのも、本質を突いているというか、一理あるように、今更ながらにそう思いました。
ただ、「勉強しろ!」という親が全て、そういう意味合いでこの言葉を言っているワケではないでしょうが・・・少なくとも俺の家の親は、ただ子供は勉強するものだという固定観念で「勉強しろ!」と言ってる部分が多いように感じられたけど、でも、どちらにしろ、結果としては間違ってるわけでも無いのかな?と。

これに対して、社会に出て働くとなると、このアウトプットAが途端に難しくなるんですよね。
試験で参考書を使うことが出来なくても、ある程度の範囲が決まっていて、傾向と対策も用意されてた「学校での勉強」と違って、仕事になるとその「傾向と対策」はもとより、「範囲」自体を、まず自分で見つけなければならない。
そこからアウトプットAが求められるんだから、実際大変です。
ここら辺は、実社会に出て始めて経験する部分ですけど。

だからこそ、今更感じることだけど、「勉強」に関してはアウトプットAだって、「やれば伸びる」と思うし、「勉強しろ!」というのは、その方法を示していて間違っちゃいないと思います。
だから、惜しい。とも思います。
ただ「勉強しろ!」じゃなくて、「こうだから数多く勉強する事が重要で生きてくるんだ」と説明付きの「勉強しろ!」だと、もう少し子供の勉強しようとする気持ちに響くような気がします。
「勉強そのものが大嫌い」で、「成績が上がることにも全く興味ない」という子供には厳しいかも知れませんけど(笑)

デキる人間とダメな子

2008-03-03 | ちょっと考えた事

俺は自分自身を「ダメな子では無いぞ」という位の自負はありますが、かといって特別「デキる人間」でもないし、そんなたいしたもんでもない。と自己分析してます。
「デキる人間」か「ダメな子」か?なんて分類は極端すぎるし、「どちらとも言えない」場合だって多いと思うけど(そもそも「デキる人間」や「ダメな子」って言う判断そのものが相対的なもので、あやふやなものでもありますが)、今回は話を分かりやすくするために、敢えて「デキる人間」と「ダメな子」という極論を用いて書いてみます。

仕事に限らず、勉強でも、その他あらゆる場面において「デキる人間」と「ダメな子」の差ってのはどの辺にあるのか?というのをちょっと考えてみました。なんとなく。

結局は、何か物事を成すのに必要な要素は極端な話

インプットとアウトプット

に集約されるような気がします。例外もあるかもしれないけど、大体の場合に於いて。
生きていくという行動は、自ら勉強して知識を蓄えたり様々な経験したり、他人から教わったり、話を聞いたり(インプット)して、それを活用して仕事をこなしたり、学生であればテストや、部活動の大会、他にも日常生活で何か物事を判断して行動する(アウトプット)という形式で成り立っている部分って多いと思います。

インプット自体は簡単な行為である

俺が思うに、インプットという行為それ自体はそんなに難しい事じゃないと思います。
「インプットが出来るか出来ないか」なんて部分では「デキる子」と「ダメな子」にそれほど差がつくとは思えないんですよね。
インプットとは、要するに「覚えること」だから、覚えるべき事柄(基本やマニュアルや経験したこと等)を覚えれば良いんだから、それを覚えると言う行為自体は単純作業です。
その記憶を長く自分の中で保存できるかどうか(覚えていられるか)とか、記憶する為に要する時間等に個人差は当然あるでしょうが、それ自体は「インプットそのもの」とはまた別な話で、「覚えるべき事」さえ覚えていれば、どこにその知識があるのかをしっかりと把握しておいて、必要な時にそこから取り出すという手法でも代用が可能ですし。
まあ、テストや試験ではそうは行きませんけど、人生においては大体は参考書でもネットでも何でも必要に応じて使って問題ないようにできてますからね。仕事などでは結果を出すためには参考書でも何でも、利用出来るものは、むしろ積極的に利用すべきですしね。
覚えることが多すぎて覚えきれない・・インプットが難しいとすればこの一点位のものじゃないかな?
「とは言っても、意味が分からなくて覚えづらいこともあるぞ?」という人もいるかも知れませんが、それは基本では無く、大概応用している事柄であったりするので、アウトプットが絡んでる場合が殆どだと思われます。
ただ、面倒だとか、他の感心事に興味を奪われて、必要とする知識を、そもそも得ようとしないために「物事が分からない」ってんなら、これはインプットが出来る出来ない以前に「ダメな子」だと思いますが。

差がでるのはアウトプット

なので、難しいのは結局アウトプットだと思うんです。
ただ、そのアウトプットにも2種類というか、2段階あって
第1段階(以降便宜上アウトプットA)として

その時の状況の把握・分析・判断

という行為と、第2段階(以降アウトプットB)として

アウトプットAでの結果を基にインプットした知識技能を活用する

という行為があると思ってます。
で、単に「アウトプットが難しい」と一括りにするのではなくて、俺はアウトプットの中でも、特に難しくて、「デキる人間」と「ダメな子」の差が出てくるのも、このアウトプットAの能力の差かな?とか思います。
アウトプットBは、実はこれも簡単な事なんです。アウトプットAさえしっかり出来ていれば、そこで必要とされている知識・能力を使用(発揮)するだけですから。
使用すべき知識・能力が何であるか分かっているのに、知識・能力そのものが足りないと言うのであれば、それはインプットの段階の問題で、「しっかり覚えておきなさい」「しっかり練習(訓練)しておきなさい」の話で、問題解決の方法は分かっている事だし、後は覚える・練習(訓練)するという行為をするだけ。
若しくは、それをしたかしないかという差だけ。

で、問題になるのがアウトプットA。
ある問題αに遭遇したとして、実はその解決方法βという知識を既に持っていたとします。
でも、難しいのはそのβという知識が、その場面でαの解決方法であると、瞬時にそこで分析・判断が出来るかどうか?ということなんですよね。
そこでちょっと戸惑っちゃって、パニクっちゃって、結局先輩に助けられて・・・で、後になってみて解決方法を聞いてみたら「あ、な~んだ、この場合の問題ってそういうことだったんだ。俺でも出来たのに」という経験、誰しも一度位はあるんじゃないでしょうか?無いかな?俺はありますよ(笑)

「あいつは勉強は出来るけど・・・」とか言われている人は、インプットもアウトプットBも凄いものがあるけど、このアウトプットAが苦手な人って事なんでしょうね。
「あいつ、頭は良いのに」・・・でも、実際に仕事や、日常生活等でも「頭が良い、キレる」と言われる人々は、どちらかというとインプットがずば抜けている人よりも、このアウトプットAの能力に長けている人のような気がします。
で、結局「出来る人間」と「ダメな子」の差はそこにあるのかな?と。

でも、インプットの能力は努力に比例して上がっていくだろうけど、このアウトプットAの能力の場合は、どうなんだろ?どうやって磨けば良いんだろう?経験がやっぱり大きいと思うけど、

日頃から如何に実戦に即した物事の考え方が出来るかどうか?

ということなんでしょうかね?
インプットと違って、単純に「こうしたら能力が上がります」という方法が無いから難しいし、だからこそそこで、「如何にしたらアウトプットAの能力を伸ばせるか?」というものに、自分なりに気づけた人が「デキる人間」なのかなあ・・・とか思ったりしました。

と、冒頭で最初に断りを入れたとおり、ちょっと極論で話を進めてきました。極論だというのは自分自身自覚してますので、「おいおい、あまりにもそれは極論ってもんだろ?」という意見も当然あると思いますが、「最初から極論だ」という視点で見てもらえれば幸いです(笑)

俺もそりゃあ、できるなら「デキる人間」になれたら嬉しいので、頑張ろうとは思ってます。色々と(笑)


武力に訴えちゃいけない

2008-02-26 | ちょっと考えた事

俺は、普段からテレビはほとんど見ない。部屋に居るときはテレビではなくFMか、適当にお気に入りの音楽を掛けている。
ただ、昨日、天気予報を見るためにテレビを付けてみたら(地デジって、番組とはまた別にいつでもニュースや天気予報などを見れるから、その点は便利ですね)パキスタンの現在の情勢に関する特番みたいなのがやっていた。
ムシャラフ大統領と、暗殺されたブット元首相、それからアメリカが絡んでの様々な思惑やら情勢やら最近の選挙のことまで色々と現在のパキスタンについての事だった。なんとなく見てしまったのだけど、その番組を見て思ったのは
「武力に訴えて言うこと聞かせよう」
なんてのは最悪だな、と言うこと。改めて。

と、ある市民へのインタビューで、その市民は
「選挙には行かない。死にたくないから。民主化は望んでいるし大事な事だと思うが、それ以上に生きることの方が大事だ」
的な事を言っていたのが、印象的だった。
選挙会場を狙ったテロだとか襲撃だとかが多発していて、民主化を求める人々を武力で弾圧しているという事らしい。

国民が民主的な主張すらできない・・・なんだよ、それ。
それに比べれば、まだ日本はとても恵まれている方だろう。贈収賄や汚職は絶えないけど・・・

で、この番組を見てて思ったのは

やっぱり、武力で論理を封じ込める行為は許せないし、やっちゃいけないだろう

と言うことです。

これは、なにもパキスタンの国内情勢に限った事ではなくて、規模や形こそ異なれど、本質的に似たような事は日本の、ごく普通の社会生活の中にだって沢山あることだと思った。

一例としては
「恋人からの暴力」若者の半数が経験(俺の過去記事から)
こんなのとかさ。

で、さらに思ったのは、やっぱり

「意見が衝突する場合は、単純にとことんまで疑問点追求の為の論争を交わしたいなあと思うのだが、現実社会では役職の上下だとか、論争に憎悪の感情を持ち込んで来る場合が多くて、後の人間関係とか色々と邪魔になる要素があって「純粋な論争」をする機会というのは滅多に無い。
そう言う意味ではブログを含むネット上はバーチャルであり、匿名性が高いからこそ、そのような事が出来る数少ない場の一つかもしれない。」

かなあ。と言うことでした。
ちなみに、これは俺が過去に別な記事で書いた一文です。自分の文章だから誰にも気兼ねなく引用できる(笑)
「そういや、前にも同じような内容の事書いたなあ」と思ったので、新たにここでまた書くよりも、そのまま使い回ししちゃいました。
というか、楽しただけ・・・・とか言っちゃあいけません。
でも、ネット上はネット上で「ブログが炎上」とか、ネット独自の様々な現象もあるみたいですけどね。

まあ、なんにせよ、力を持って論理を封じ込めようとしちゃ駄目ですよね。
そして、これから先の日本もそんな社会になりませんようにと、祈らずには居られない。
俺は戦争を知らない世代だからこそ尚更です。知らないで済む社会が一番良いと思ってます。
色々と、ありこち跳びまくりの記事になっちゃったけど、なんとなくそんな事。


自分のネタ、他人のネタ

2008-02-23 | ちょっと考えた事
YOSHIさんのブログ「BLOG15.NET」より
書きたいことが既に他のブログで書かれている場合どうするか?
という記事を読んで。

>自力で思いついたのだけど、後から同じようなことを書けば、パクリだと見なされてしまう。特許権や著作権なんかでもそうだと思うが、最初に書いた人だけが権利を認められるというのはどうだろう?

>だから結論を言えば、自力で思いついたことは、他のブログで書かれていようが書くつもりだ。

>何が言いたいのかというと、他のブログで同じようなことが書かれていても、引用していなければ、私は「パクリ」ということは絶対にしていない、ということを言いたいのです。

全くその通りだと思います。
純粋に自分で思い付いてブログに書いてみたら、たまたま同じ趣旨・内容の記事が他にもあった・・・こんな場合って多いと思います。
でも、あからさまな、その人本人が自覚して「パクリ」行為を行った記事ならともかく、自分で思い付いた考え・記事であるならば、何も気にすることは無いだろうと俺も思いますね。
だから、気にせずに記事にして、その後も堂々としていれば良いと思います。

さて、しかしそもそも「思考」というものについて、俺は個人的に思うところがありまして、それは

そもそも、人間の思考というものは、元を辿れば、必ず何かしらの他人の思考に基づいているのではないだろうか?

という疑問です。

ここで言う「他人」というのは、何も今現在すぐ近くに実際に存在して、接している人間に限りません。
例えば、昔から伝わる伝統やしきたり、各種学問や宗教、啓発思想、常識・・etc
ともかく、人から人へ伝えられる物事の考え方全てをもって、俺はそう捉えてます。
で、人間というのはこの世に生まれ出た時、その瞬間から思考能力が備わっているわけではありませんよね。その時点で自分の自我を持って、持論を展開する新生児など居ません。そもそも言葉というもの自体まだ理解していないのですから。
そこから考えると、人間だれしも生まれ出た時は、「思考」に関しては全くの「0」からスタートすると言うことです。
0というのは、いくら掛けてやっても0のまま。他からプラスが無い限り、それ自体が増えることはありません。思考もこれと一緒だと思うんです。
外の世界で、他人か何かのやりとりしているのを見て、聞いて、感じて、最初はそれを吸収して言葉を覚えたり、常識や世の中のルール的なものを親から教えられて、そして物事を知っていきます。
厳密に考えると、この時点ですでに少なからず「他人の思考」を取り入れてる事になるんだと言えます。

「物心付いた頃」と表現されますが、概ね自分自身で自分の存在を固めた時点、自我が形成された時点とでも言えるんでしょうか?
上で述べた理由から、自分で色々と物事を考えたり、創造したりする基盤が出来上がった時点で、すでにその基盤自体、少なからず他人の思考の影響を受けている。と言えますね。
小学校・中学校・高校と学校で習うこともそう、先人が確立してくれた各種学問を学んでいくわけです。

と、言うことは、例え自分が今まで誰も気付いたことのないような事柄を思い立ったとしても、それを思い付くに至った過程では、誰か他人から受けた各種知識や知恵、そして経験等を元にしているわけで、そう言う意味では「完全純粋に全く他人の影響を一切受けない思考」等というのは無いのではないかと、俺はそう思うんです。

そうやって考えると、そもそも「これは俺の意見だ」と言い切ること自体も難しいなあと。
だからこそ、「故意的に本人が自覚してわざと狙ってパクった意見」で無い限りは、他に同じような主張があろうとも堂々としてればいいだろうと、俺からしたら、そういう結果に至るわけです。
これは、その出てきた意見・主張そのものよりも、どういう思考経路を辿ってその意見・主張にたどり着いたのか、そちらの方がむしろ重要な気もします。

「おお~、おまえもこの考えに至ったんだ?ところで、どういう経緯でこの考えにたどり着いたの?俺は、こうこうこうだけど。へえ~、そういうアプローチもあるんだ、なるほどなあ~」
って感じで、むしろお互いに認め合うのが望むべき姿かな?と、俺は思います。

ちなみに、俺の愛読書の一つでもある「パスカル」の「パンセ」と言う本に、こういうくだりがあります

パンセ : 前田陽一・由木康 訳 より  
断章43
ある著者たちは、自分の著作について話す時、「私の本、私の注解、私の物語、等々」と言う。そういう彼らは、一戸を構え、いつも「拙宅では」を口にする町人臭がぷんぷんしている。彼らはむしろ「われわれの本、われわれの注釈、われわれの物語、等々」と言うほうがよかろう。というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいにはいっているからである。


今回の記事は、かなり「勢い」に任せて書きました。
ちょっとね、自分の頭の中に渦巻いている朧な感覚の状態のこの思考を文章で表すには、その時の感じたままを勢いで書いていかないと、混乱してしまってまとめられない感じがしたので・・・・・
と言うわけで、とりあえず書き殴ってみた訳ですが、読み返してあまりに酷い場合は、推敲して加筆訂正を加えたいと思っています。
YOSHIさん、引き合いに出した割には、こんな完成度ですいません。
なんだか、最後になってグダグダ感を実感してきた・・・(笑)
まあ、俺なりに感じたことを書かせてもらいました。

ATMでのマナー

2008-02-22 | ちょっと考えた事
前にも一回どこかで書いたことのあるネタです。
ただ、自分のブログだったかどこかの誰かのブログへのコメントだったか、忘れちゃって、このブログにも残ってなかったのでここでもう一回書いてみます。
と、言うのも今日も似たような経験をしたもので。

ATMでのマナーについて。
俺は

ATMの操作は一人当たり、一回の使用で多くても3回まで

と思ってます。

それ以上の操作をしたい場合は、一端外れて最後尾に並び直す。これが後ろで待っている人への配慮、マナーだと思います。
もちろん、他に待っている人が居なければ何度でも良いですけど。
3回というのは俺なりの判断だけど、引き出し・入金をするとしたらそれで2回操作することになる。この行動はよく分かる。
さらにどっか別の口座にも入金したいとかそういうのもあるだろうから、まあ、3回ってところかな?と。
別に厳格に3回じゃなきゃ駄目だ。というつもりでもないけど、大体の目安として3回を限度にするくらいがちょうど良いだろうと思う。
予め入金する分のお金をきちんと分けて用意していて、すぐに終わるというなら4回とかになっても、さほど問題は無いかもしれないが。

ただ、今日もあったんだけど一人で何冊も通帳用意して、一人で延々と5分以上何度も操作を繰り返しているオバハンがいた訳ですよ。
その後ろにはかなりの列。その中には俺も。
もう少し他人への配慮ってものがあれば、ここら辺のところ気付かないかなあ?と、毎回思うんですが、分からないらしいです。
自分の番だからと、ATMの前で何冊も(あれは5冊以上はあった)取り出して、当然の如くそれらを操作し始める。これはさすがに配慮無さ過ぎだろ?と俺は思うんだが。
そして、偏見ではなく今までの経験上の事実として、そういうことをするのは、やっぱり中年の女性が多い。今回もそうだったし。

ちなみに、俺は自分の提案を実践してます。操作が数回にわたりそうな場合は、3回の操作を限度に次の人に譲ってます。
ATMの操作に於いては、この程度のマナーは必要だと俺は思う。
やたら長い人の後に並んでて、同じように思った人は居ないだろうか?少なからず居ると思うんだけど。