エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

真に相手の立場に立って考えるとは

2008-02-21 | ちょっと考えた事

前回の

果たして、同じ場面の別な当事者の立場になったとしても、同じ発言が出来るか?

の記事とはまた別の、ちょっと違った視点からの「立場」というものについて。
前にあるニュースを目にして、その時にちょっと考えたことがあった。それを思い出したのでここで書いてみる。

宮崎県で、東国原知事のキャラクターがパッケージに印刷された、各種お土産が大人気だというニュースを以前目にした。
もう結構前の話なので、今、そのニュースを探しても見つかるかどうかは分からない、そして今でも、そういう状況なのかは分からないが、東国原知事の現在での人気を見れば、まだその状況は続いているのではないかと、俺は推測している。

東国原知事の人気は俺も良く知っている。
そしてテレビで見る限りは頑張っているなあとも思う。俺は実際に宮崎県に在住している訳ではないので、具体的にどうのこうのとは言えないけど。ともかく、別に東国原知事に関しては、特に悪いイメージは持っていないし、頑張って欲しいと思う。
ただ、東国原知事本人とは無関係に

東国原知事のキャラクターが入っただけでお土産の売り上げが急上昇

という状況の発生は何故なんだろう?と、当時凄く疑問に思った。
と、言うのは俺には理解出来なかったからで、ただ単にお土産品のパッケージにキャラクターがプリントされて、パッケージを変えただけなのにどうして急に売れるのだろう?買う人は、どうしてそこまでしてそれを欲しがるのだろうか?と。
正直俺は、人気キャラクターのプリントされたパッケージ等には全く興味がない。だって買ってから中身を取り出せば結局今までのものと一緒なんだから。
・・・・と、そう思っていたら、きちんと解答があった。
それは

買って帰って周囲の人に配って話題を作りたい。その話題の中心になりたい。

という心理からだそうだ。
要するに自慢したい心理というか、他人に話題を提供することにより自分を注目して欲しいという心理、見栄なのかな?そういう感じの心理。それに起因しているらしい。
それでみんな、「物」そのものよりも、そういう部分のために買うのだそうだ。

言われて納得した。
ああ~、そんな感じね~。うん言われてみれば分かる分かる。確かにそういう人居る、沢山。
俺自身は、そういう自慢というか話題作りには興味ないというか、逆にそういうの格好悪いなあとすら思う性格なので、
(コレはあくまで俺の性格の事です。俺がそう思うという個人的な俺の価値観。だからそう思う人が駄目だとかそういう事を言いたいのではない、と言うのを補足しておきます)
言われるまで気付かなかった。
そもそも、そういうのが自慢にあたるのかどうかすら、俺からしたら疑問だし、そういう俺だってみんなから注目を集めたり、褒めてもらえたりするのは嬉しいと感じる事もあるけど、俺の場合それは

自分で何か成したときにそれに対する評価

として注目されたり褒めてもらえるならば嬉しいのであって、ちょっと人気のお土産品を買ってきただとか、何処で芸能人に会っただとか、そういう話題で注目を引いてもなんだかなあ・・・と思ってしまうんです(あくまで、俺の個人的な価値観として)
という価値観から、この解答を得るまで俺はずっと疑問だったんですね、これ。

相手の立場に立ってものを考えろ

と良く言われますが、

立場に立っただけじゃ分からないこともある

と、言うのがその時俺が感じたことでした。

俺をその立場に置いてみる。
・俺は今宮崎に旅行に来ている、旅行の最中だ
・さあ、お土産屋に着いたぞ。お土産品が一杯並んでる。何か買って帰ろう
・東国原知事キャラクターのものがあるけど・・
ん~。イメージしてみたけどやっぱり特に欲しいと思わない。
そもそも、それを欲しいという人と俺とじゃ、同じ立場に立ったとしても、物事の判断基準の価値観が違うからなあ~。

他にも、

自分でされて嫌な事は相手にもするな

ともよく言われる。
もっともな事だと思うので、とりあえず自分でされて嫌な事はしないように心がけている。
ただ自分でされて平気でも、それを嫌がる相手も居るし、俺が嫌だと思ったことでも平気でする奴もいる。
これも価値観の違いかなあ~
ハッ、これって「空気読めない」に繋がるなあ(笑)

真に相手の立場に立つというのは、ただ単に同じ境遇に身を置くだけじゃなくて、その相手の価値観を理解した上で心理までトレースしなければならないのか

きっと、商売が上手い人や成功する起業家ってのはこういうのが出来る人、自分の価値観とは別に他人の価値観までも読める人なのだろう。

残念な事に、俺には営業や起業は向いてないみたいだ。


無駄と贅沢

2008-02-05 | ちょっと考えた事

休みの日、思う存分に惰眠を貪り、目が覚めてみると昼だったり既に午後だったりすると「損した~」と激しく後悔することがあります。

でも最近、「無駄に使える時間ほど贅沢だ。」と思う事もあって、眠りたいだけ眠り、ただゴロゴロ~っと、本当に「無駄」と思える時間を、無駄と知りつつあえて無駄に使う。
すると「なんか、今、俺、凄い贅沢な時間の使い方してるんじゃないか?」なんて思ったりすることがあるわけです。

考えてみたら、そもそも贅沢っていうのは「無駄に使う」という側面が少なからず伴う行為で、確かに物事すべて余分な部分を取り除いて、常に必要最小限度という生活に「贅沢」という言葉は入り込む余地は無いように思われます。
一般に「贅沢」と言って思い付く事はなんだろうと考えてみると、ブランド物の高いバックだとか、高い高級料理だとか、高い車だとかetc・・・
要するにもっと安いもので代用できる所を、敢えて高い物を用いることだったり、数限りあるものを後先考えず浪費してみたり、結局はそう言うこと。
宿泊するにも、雨風を凌いで一泊するという目的達成の為だけだったら、ビジネスホテルで十分だし、列車で移動するにも目的地に到着したいという目的達成の為だけだったらグリーン席は必要ない訳で・・・そこに出てくる贅沢というのは、「目的達成のために必要となる我慢を減らす事、その為に費用を掛ける」といった事なのだろう。

で、贅沢が必ずしも悪かというとそういう訳でもなくて、なにかしらの贅沢が生きる目標というか、生きる楽しみ、活力になっている部分もあるだろうし、「自分へのご褒美」なんて、ちょっとした贅沢をして、ちょっとした幸せを感じたりするのは、誰しもがやっていることなんじゃないかなと思います。

ちょっと話の矛先が逸れたので、元に戻るとして(笑)
無駄と贅沢というのは、そう言う意味では紙一重というか、どちらにもそれぞれの要素が含まれていて、本質的には一緒なものというか。
だから、「無駄にした」というのも「贅沢をした」というのも、実は気持ちの切り替え一つで+にも-にも受け止められたりする・・・かもしれない。と言うことです。
実際にお金が絡んだりしてくると、単純に「無駄じゃなくて贅沢だよ」とか言ってもられない状態になるかもしれないけど、今回は主として「空いた時間の使い方」について、「ああ、こんな事だったら○○したほうがナンボかマシだった~」とか後悔する前に「無駄~に時間を浪費するってのも、ある意味贅沢な事だよね~」と思うと、精神衛生上にもよろしいのではないかと。
それによって失った物と言えば、元々空いていた僅かな時間だけなんだから。

別に、たいして「考え方を変えたら物事がガラリと変わった」的な事じゃなくて、そういうのを狙ってるわけでもなくて、狙うほどの事でもなくて、単に部屋でウダウダやってる時に、ふと思い付いて「ちょっと記事にしてみようかな?」と思っていたことを書いてみました。
それだけ。


大往生

2008-02-01 | ちょっと考えた事
親戚のじいさんが亡くなりました。
その関係でちょっと色々とあって忙しかったんだけど、享年94歳ということで、大往生でした。
まさに「天寿を全うした」という事だと思う。

人が亡くなって、「喜ばしい」だとか「嬉しい」等というのは確かに不謹慎で、「人の死」と接する時の態度ではないと思うし、人としてどうだろうと思う。
だけど今回のように、寿命を全うして亡くなったような場合は「お悔やみ申し上げます」とか「ご無念の事と心中お察しします」・・と言うともまた違うような気がする。

「死」というものは、大体にしてマイナスのイメージで取られがちである。
まあ、その大体の場合は間違っちゃいなくて、確かに「死」はマイナスの感情である場合がほとんどであるのは事実だと思う。
何故「死」がマイナスなのか。何故痛ましいのか。それは多くの場合、本人の意に反して強制的に「生」を終了させられてしまうからだと思う。
悪意のある他人に殺されるといった「殺人」による「死」は最もたるものであると思うし、事故にしろ、病気にしても、「まだ生きられるのに、ここで終えなければならないのが無念でしょうがない」といった事だと思う。

ただ、これが寿命で逝った場合はどうだろう?
元々人の生は有限であって、誰しも必ずいつかは死ぬし、これは最初から定められている、どうしようもない事実であり運命。
途中の不慮のハプニングで終了する人生と違って、寿命で終える人生というのは、いわば「人生を最後までやりおおせた」と言うことであって、「死」は「死」でも、迎えるべくして迎えた「死」というか・・・

だから、今回無くなった親戚のじいさん。
確かに「亡くなった」という事実は重くて、厳粛に受け止めねばならない事ではるけど、今回の場合は「悔しい」とか「悲しい」というよりも「天寿を全うして逝けた。大往生だ」という意味で、その人をむしろ「祝ってやるべき」というか、亡くなったからといって、ただただ悲しんでばかりいるのは逆にそのじいさんに失礼にあたるような気がして。

焼香をあげ、手を合わせ一例したとき
「今までお疲れ様でした。最後まで人生を全うできたことは幸せな事だったと思います。どうか安らかに」
との気持ちを向けました。
旅立つ友を涙ではなく笑顔で送る心境というか・・それに近い感覚です。

冒頭で述べたように、人の死に対して「喜ばしい」等という言葉を使うと、「死者に対して喜ばしいとは何事だ!」となるかも知れないけど、今回のように、天寿を全うして逝くべくして逝った故人。自分の人生を最後まで全うした故人は、人間ならばいずれ必ず迎えなければならない「死」を、もっとも幸せな形で迎えることが出来たという意味で「喜ばしい事」だったのではないかとも思います。

最後まで人生を生ききる。
俺の目標でもあります。

・・・故人への哀悼の意とともに。

空気を読むためには

2008-01-28 | ちょっと考えた事

旬な話題は旬なうちに。
別に小栗旬と掛けたつもりではないのだが、「KY」なんてまさに今が旬な話題ですからね。

こんな記事

小栗旬「オレは許せない」「KY」現象に批判噴出

ん~。個人的には分かるなあ、この感覚。
正直なところ、テレビってあまり見ない俺にとっては、「小栗旬=イケメンの俳優」位の認識しか無かったんだけど、「へえ~、良い事言うじゃん」と感じました。

さて、この「KY」。
俺は流行語大賞のカラミで、確かネットでニュース記事読んでる時に初めて知ったんだけど、正直なところ、出所は分からない。
「KY」なんて言葉の使い方からして「女子高生が作って広めたのかな?」という感じではいたけど、誰か芸能人が使い出して広めたのかもしれない・・・まあ、でも別に誰が作って広めたにしても、その事自体はたいした問題でも無いので苦労してまで調べようとは思ってないけど。

KY=空気読めない(若しくは「空気読め」の場合もあり?)
この「空気を読む」という言葉自体は、結構以前から良く耳にする言葉ではありましたね。
「空気を読む」・・・「空気読め」って感じで、よく使われていて、要するに「言わなくても分かるだろ?察しろよ」という事。
「言わなくても分かるだろ?」ってのも結構横暴な感じで、「言わなきゃわかんねーよ」って場合もあるだろうけど、要するに、例えば10人居たとしたら7~8人位は「こうしよう」と思うだろうという事。そう言う場合に、その時の雰囲気、みんなの意向を察しろよって事だと思う。俺はそう理解している。
Aという人間が、個人的な勝手な自分の価値観で「俺はこうしたいんだよ、空気読めよ」なんて言っても、その場合は「んなこと分かるか~」って事になると思う。
要するに、大多数の意向が同じ方向に動く場合に、言われなくてもそれを察しろという事。
でも、最近は身勝手な奴も増えてきてて、とにかく自分の意にそぐわないと、なんでもかんでもKY呼ばわりする奴もいるけど、そういう人間こそ、場の空気壊し。KYな人間なんじゃないかな?とも思う。

空気読めって言われてもなあ

じゃあこの「空気を読む」ってのはどうやったら身に付くのだろうか?
常識とか、相手の立場で考えろとか、そういう事になりそうだけど、だとしても空気読めない人ってのは読めないだろうし、そういうのに自信が無い人にとっては、あまりに抽象的すぎてどうすればいいのか結局分からない。ということになるんだとも思う。

でも、なにか方法はあるんじゃないか?空気読める方法

俺なりに考えてみた
結局は「経験」と「知識」だと思う。
要するに色んなコミュニケーションの場面で「こういうときはこうするべきだ」「こんな時はこうかえす」という様々なシチュエーションを経験しているかどうか。

別に「空気を読む読まない」と言うことに限らず、人間生まれた時点では頭の中は全くの真っ白であり0であって、そこから様々な経験をして知識を得て、その上で自我を形成して、自分なりの意識を形作っていくもの。
「空気を読む」に通ずる「こういうときはこうすべきだろ?」とか「俺はこうされると嬉しい」「こうしたい」という感覚も、元を辿れば「そうあるべきだ」という何かしらの経験なり知識が元になっているのだと思う。

だから、沢山の人と接する経験を積むことがまずは大事だと思う。
別に見ず知らずの人と接点を無理して増やす必要はなく、いつも一緒に遊ぶ友達とでもいい、そういう人と接する機会を増やすことが大事だと思う。
こういう時どうするだろう、相手はどう思うだろう。
ケンカしたらしたでそれはそれで経験になると思う。
「空気を読む」ってのは結局「相手の気持ちを分かってあげる」という事の一部分なのではないだろうか?

直接の経験でなくても、例えば本を読むなどにしても、堅苦しい学術書などよりも人間関係、コミュニケーションの表現の多彩な小説等がいいと思うし、そういう意味では、小説でも例えば、芥川賞受賞作よりも直木賞受賞作かな?とか思ったりもする。
ドラマやアニメなんかも、そういう意味では下手な純文学作品なんかよりもよっぽと役に立つかもしれない。人間相互のコミュニケーションを疑似体験するという意味では。
ここら辺は学校では教えてくれない知識だし、「よく学びよく遊べ」とはよく言ったものだ。

でも、元々こういうコミュニケーションに係わる経験や知識って、日常生活を普通に営んでいく上で普通に身に付く物だと思うし、人と話すたびにいちいちそんなことを堅苦しく考える必要もないと思うし、いちいちそんな事考えていたら疲れてしまう。
本来、普通に身に付くものであるからこそ、今まではたいして「空気を読む、読まない」なんて問題にもならなかったんだろうけど、実際にこういう問題が出てくる背景には、人とのコミュニケーションが苦手になっている人が増えている。と言うことの一種の現れでもあるんだろうか?
引きこもりまでいかなくても「外でみんなで遊ぶよりも、家で一人でゲームしてる方が楽しい」なんて幼少期を過ごす子供や、「遊ぶよりも塾」なんて子供が増えてるって話も聞いたりするけど・・・そういう影響もあるってことか?

「俺って空気読めないなあ」って感じる人は、そして「出来れば読めるようになりたい」って思う人は、どんどん人との接点を増やすようにすればいいと思う。
失敗しても「ああ、こういう時こうすればスムーズに流れるなあ。こういう事すれば迷惑だな」ってのにちょっと注意を向けて、それを感じていけば良いんじゃないかと。

ただ、途中に一回言った事だけど、最近の「KY」は「読めない側」ばかりの問題ではなくて、自分の勝手な願望を一方的に押しつけて、そぐわないと「KY]発言するという、その言葉を使う側の濫用的な側面もあるんじゃないかなあとも思う部分はある。


No!War

2007-07-02 | ちょっと考えた事

昨日の「原爆云々よりも・・・」という記事に引き続き、ちょっと「戦争」について考えてみました。

戦争って、なんだかんだ言っても「悪いこと」だよね?
という認識がずっと俺の中にあって、そしてそれは今でも変わらず、俺は戦争反対なのだけれど、戦争について次のようなコメントを頂いて、少し(自分なりに)深く考えてみました

>戦争反対を実践している国があればで攻め入ってきた国の民族に一生、奴隷として働かせられ、人間としての人権などなくなります。
>平和というものは、武力が裏づけされた国家に与えられた保障のようなものです。国家に力がなければ植民地・奴隷民族・牛・馬なみの生活しか与えられない事を知るべきです。

確かに、そのとおり現実問題としてはそういうことだと思います。
で、このコメントから考えたこと・・・いや、確かにそのとおりではあるんだけど、侵略して攻め入った国の民族を一方的に奴隷にしてしまう行為ってそもそも「悪」じゃないか?と。
「国家間」「戦争」と考えるから分かり難くなってるかも知れない、簡単に身近な問題に置き換えてみよう・・・・
見ず知らずの人が勝手に自分の家に上がりこんできた、で一方的な暴力で(凶器なども含め)痛めつけられ、財産を持っていかれた。
この行為・・・完全に「悪」ですよね。侵略戦争ってこれと一緒の事なんじゃないかな。

まあ、「善悪」という事について考えていくと、そもそも生物は食物連鎖・弱肉強食で他の犠牲の上に成り立っているものだけど、そう考えていくとそもそも「善」って何?「悪」って何?という話にもなっちゃうんだけど・・・まあ、今回そこはもう禅問答のような所にまで言っちゃうので、一旦おいて置くとして、とりあえず人類、人間だけでも平和な生活が営めるように・・・という事で考え出されたのが各種の法律であったり、現在の社会制度なのだと思います。
先に述べた、強盗事件の例、あんな行為を悪とせず、咎めないのだとすれば、そもそもの今の社会そのものが根底から破綻していまいますね。
だとすれば、やっぱり侵略戦争も「悪」だと思うし、やっぱり俺は反対だし、「No!War」を叫びたいと思う。

ちなみに俺は前回の記事でも
>たとえどんな理由であろうとも、まあ望んでないのに侵略された方はしょうがないにしろ、仕掛けた側(どちらかが仕掛けなければ戦争は起こりませんね)は、たとえそれがどんな理由であれ、戦争という行為は人殺し以外の何ものでも無いし、絶対に正当化出来ない行為だと思うし、そんなやつの行為を決して正当化してはいけないと思う。
↑こう書きました。
専守防衛なら、まあ致し方ないとは俺も思います。降りかかった火の粉を振り払うだけなら、しょうがないでしょう。これは強盗の例に置き換えても「正当防衛」とか「緊急避難」という部類になると思いますし。みんなが専守防衛で、自ら手を出さないならそもそも戦争は起きないわけですしね。
だから、侵略戦争、そういう行為自体・・・これはやっぱり、俺は「悪」だと思うし、これまでどおり反対します。

ちなみに、実現可能かとかそういうことではなく(そりゃ実現できれば最高ですが)、「悪いことだから反対だ」という、そういうことです。言いたかったことは。
実現できないからといって、悪いことを「悪いことだ」と言うことすら出来ないわけではないと思いますし、実現の可能性が限りなく低いからといって、最初から理想を掲げては駄目だということも無いと思いますから。


原爆云々よりも・・・

2007-07-01 | ちょっと考えた事
久間防衛相、講演で「原爆投下、しょうがない」(朝日新聞) - goo ニュース

こういう記事を読むたびに「またか」と思っちゃうのですが、俺はそもそも「戦争」という行為自体に反対だし、戦争という行為はどんな理由があれ否定されうる行為だと思うし、絶対悪であると思っています。
たとえどんな理由であろうとも、まあ望んでないのに侵略された方はしょうがないにしろ、仕掛けた側(どちらかが仕掛けなければ戦争は起こりませんね)は、たとえそれがどんな理由であれ、戦争という行為は人殺し以外の何ものでも無いし、絶対に正当化出来ない行為だと思うし、そんなやつの行為を決して正当化してはいけないと思う。
俺は「戦争」という行為自体を憎んでるし、否定しています。

なので、今回の原爆云々に関わらず、たとえば生物兵器の使用は人道的に云々だとかいう話なども耳にすることがありますが「じゃあなにか?生物兵器は非人道的だけど、銃で人を殺す行為は人道的な行為なのか?」と。
原爆にしたってそう、もちろん原爆に関わる被害は甚大で悲惨なものでしょうけど、原爆だけに限らずそもそも戦争そのものが、とてつもなく悲惨で許し難いこういなんじゃないのか・・・と、俺はそう思えて仕方ありません。

戦争そのものに絶対反対で戦争という行為自体許されざる行為だと信じて疑わない俺としては、戦争そのものはとりあえず置いておいて・・的に、原爆だと何だのと話題になるたびにウンザリしてしまいます。

もうね、原爆も悪だけど、それ以前に戦争そのものが悪。
戦争だけは決して認めない。これは誰がどんな理屈をつけようと、俺は決して曲げるつもりはないし、「No!War」この言葉は決して間違ってないと信じてます。

過保護社会

2007-02-20 | ちょっと考えた事
たまたまHNKの特集で、公園の遊具が撤去されてどうのこうの・・というのをやっていて、それを何となく見ていました。2~3日前の話です。

公園で遊具を使って怪我をする児童がいて、それで最近は公園からどんどん遊具が撤去されているとのこと。
昨年だけでも、年間で全国3000箇所以上の公園で遊具が撤去されたとか。

この「怪我をして危ないから撤去」って考え・・・俺から言わせたら「アホか!?」と言いたくなります。全く、物事の本質が見えてない。
ようするに、自転車で転んで怪我をしたら「危ないから自転車なんてものは使用禁止にしちゃえ」。道路を歩いていて例えば電柱にぶつかったから「電柱なんて撤去しちゃえ」・・・まさしく、そういう発想。少しでも危険が及ぶ要因があれば、それをそのまま撤去しちゃえばいいという、何とも安易で貧困な思考だと思います。
危険と向き合い、どうすれば危険であって、その中でどう回避すべきなのかといった考えが全くない。
どんな物にだって、場合によっては危険が生じる可能性はあります。例えば調理実習での包丁や図画工作での彫刻刀だってそうでしょ・・・それを、どう使いこなすかが重要であって、「危険だから」と一括りに出来る物ではないと思います。でも、ひょっとして、最近はそういうのもやらせなくなってたりするのかな?

遊具自体に、そもそもの欠陥があって、適正に使用してたとしても必ず怪我をする・・・・そういう遊具なら撤去もわかりますが、そうじゃないでしょ?
俺だって子供の頃は遊具使って遊んだし、怪我も何度もしました。むしろ「なにやってんだ」と逆に叱られた記憶さえあります
まあ、撤去する行政よりも、すぐ「管理責任」だとか騒いで人のせいにしたがる社会風潮自体に「?」と首を傾げることが多い今日この頃。行政側も、なにかあれば直ぐ責任を問われるので、こういう問題があれば直ぐに撤去の方向に動くのでしょう。最近は自然災害ですらそうですからね。

で、そのHNK特集。
最初は、遊具が撤去される事を疑問視した立場で番組を進行していて「お、こっちサイド(俺寄り)の視点からだな」と思って見てたのに、途中からなんだか変な方向へ話がずれて、最後は怪我をしない、怪我をしにくい・・そういう遊具を開発するプロジェクトが動いているとかなんとか、そんな締まらないラストで終わってました。
せっかく自分のブログなので、ちょっと言いたい。
「はぁ?結局お前らも、全然本質が見えてないじゃねえか!!」

俺が思うに、怪我をすることが良いことだというつもりは毛頭無いし、当然怪我なんてしない方がいいに決まってる。
でも、だからといって、怪我の原因になるからと、周囲が神経質になって過保護になりすぎるのは、逆に子供のためにならないと言うか、広い視野で見てみると、子供から自己防衛する能力を奪う結果になるんじゃないかと思う。
ブランコにしろ、滑り台にしろ、ジャングルジムにしろ、高い所から落ちれば当然に痛いし怪我もする。鉄で出来た遊具にぶつかれば当然痛いし、怪我をする。
そんな事は、子供でも当然に分かることであって、そういう「痛み」を経験するから危険であることも覚えて行くんだと思う。
例えば、高いところから落ちても、下にマットを敷いているから安全な設計とか行ってるけど、子供の頃からとにかく「怪我の無いように」という観点からだけで、遊具を作ると、「高いところから落ちたら当然に痛い」という感覚すら鈍るんじゃないか?と俺は思う。

子供であれ、怪我は一種の自己責任的な部分をもたせて、バカなことをして危険な遊びをすれば当然に「危険」というリスクを背負うんだということ、そこを学ばせることも重要だと、俺はそう思う。

交通事故は、毎年必ず起こっている。死者も必ず出る。
交通事故が全くの0であるなんてことは、今の社会では考えられない。
公園の遊具が危険だから撤去しろと言うなら、じゃあ「危険だから車というもの自体廃止しろ」とどうして誰も言わないのか、俺はそれが不思議でしょうがない。不思議でしょうがないし、筋が通ってない。
いや、今の社会車は必要不可欠ですけどね。ただ、公園の遊具の事を撤去しろと騒いで、車が危険だと騒がないのは筋が通ってないだろ?と言うこと。

別に今更俺が公園の遊具で遊ぶわけでもないし、公園の遊具が無くなろうと、俺には直接の関係は無いんですけど、その撤去しろと言う理屈が納得できなくて、ちょっとこうして書いてみました。

「食べ物を粗末にするな」とは言うけれど・・・

2007-02-06 | ちょっと考えた事
粗末にするよりは大切にした方が良いと思う。
「当たり前」だと思うよりは「ありがたい」と感謝の気持ちを持つ方が良いと思う。
これは別に食べ物に限ったことではないけれど、そういう謙虚さというか、そういう心持ちは大切にしたいとは思う。そして俺は、素でそういう気持ちを持てる女性が好きだ・・いや、そこは今はどうでもいい話だけど(笑)

普段口にする食材。
おそらく、スーパーやデパート、他には八百屋さんなり肉屋、魚屋・・・ともかく、どこかかしらのなにかしらの「店」から購入しているのが大半だと思います。
自給自足・・な人も居ないことは無いと思いますが、今回は「店から買っている」という前提で話を進めたいと思います

お店のシステムとしては、仕入れて販売。
当然事前に注文を受けて、受けた個数を仕入れるワケではないので、おおよその、最近の売り上げなどからの予想で仕入れをしますね。ただ売り切れは困るから、多めに仕入れる。そしていざ販売し、売れ残ったら・・・・そう、全部廃棄処分です。
「食べ物を粗末にするな」と口にする前に、自分で食材を買っている店のこういう行為をどう考えるか?ということ。
でも、いざ注文制になって注文の数だけしか仕入れない・・等ということになったら、売る側も買う側も不便でしょうがないし、生活のあらゆる面で支障が出てくると思う。欲しい物が欲しいときに手に入らない。
無駄を省くという意味では、重要にぴったりの供給ということが理想だけど、競争社会ではそうも言ってられない。たんなる理想論にすぎない。売る側も買う側も、それが分かっているから、今のシステムで社会はなりたっていると思う。
それじゃ売れ残りは社員で分ければどうか?
これは不公平を生じるために、出来ない。
無駄にはならないが、企業としては一部にそういう不公平を生んではいけないし、企業として業として行っている事に「私情」を挟めないということも有ると思う。個人経営の商店ならば有りだけど。だから、売れ残りは廃棄する。
それはもう情け容赦なく廃棄処分。

さて、ここでもう一度考えてみる「食べ物を粗末にするな」
企業のしてることは許される?不公平を生まないための、仕事の一環だから?
企業の目的は利益追求、いわゆる金儲け。
金儲けの為なら粗末にしていいの?
さて、現実問題としてはしかたのない部分があるとはすでに述べました。別に企業を責めたいわけじゃありません。本当に一切の「粗末」を無くしたいならば、今の社会そのものを捨てて自給自足の生活に戻るより他は無いだろうし、それこそ無理な話。
で、かといって「だから食べ物は粗末にしてもいい」と言いたいのでも無い。それは冒頭で述べました。

「じゃあ結局何が言いたいの?」

俺なりの結論
「食べ物を粗末にするな」というのは、正論。粗末にするよりは大切にした方が良い。
ただ、世の中にはそういう現実もあるということ。
生と死、生かすと殺す・・「食べるためなら殺して良いの?」という疑問と同様、人間は常にこういう部分矛盾を背負っていると言うこと。そこを認識した上で発言したほうがいいんじゃないかな?と、そういうことです。
俺はまだ独身だけど、例えば自分の子供が結構捻くれてたりして(笑)自分が子供に「食べ物を粗末にするな」と言ったときに、今回のような点を突いて反論してきたらどう答えるべきか・・・・などと、そう言うことを漠然と考えたりして、ちょっと書いてみました。

少子化問題?

2007-01-31 | ちょっと考えた事

「少子化問題」について。
以前にも、書き込みしたことがありますが(すでに、諸事情で削除しちゃいましたが)、俺はむしろ「少子化」は歓迎すべき自体で、地球規模・全世界規模で環境問題や人口爆発について考えると、「少子化」を推し進めるのが、これからの向かう方向性だと思っています。
社会保障云々・・・・確かに重要な問題だけど、結局それって「目先しか見ていない」と感じてしまいます。
だって、そうでしょ?見立ての甘かった、一昔前の日本政府が作った、社会保障制度の崩れを、なんとか繕おうと必死で、そのために老人を養うべき子供を増やせ・・・って。
俺は、個人的に考え方の方向性が逆というか、昔からの決まった方向しか見えていないというか・・・・、子供を増やすよりも、寿命が延びて、人工比率での割合が増えた「高齢者が活躍する社会」をどうして目指そうとしないのだろう?と、そこが疑問でしょうがないです。
60歳・・・・まだまだじゃないですか。
しかも、定年後まだまだ働きたいという人が沢山居るという話ですし、そういう高齢者がまだまだ活躍して、経済的な面でも高齢者自身が支えるという構図が見えないのかなあ。
政治屋なんて、60歳で「新人」呼ばわりですよ?
まあ、とは言っても、俺自身はなるべく早く仕事を引退して年金で悠々自適の生活を送ることを夢見てますけどね(笑)
俺は早く仕事を辞めたいけど、世の中には働きたい高齢者が沢山居るはずです。

少子化って・・・本当に問題?それ以上に人工が増えすぎである事のの方が、世界規模で見て、よっぽど深刻な問題に見えますけどね。


特技

2007-01-29 | ちょっと考えた事

前回の記事「比較」とリンクする内容ですが、たまにプロフィールなどで「特技」という項目を目にします。
俺は毎回この「特技」という項目を見て疑問に思うことがあって
「いったいどのレベルを持って特技を謳っていいのだろう?」
と感じています。

何事も下をみればキリがないですが、上を見てもキリがないわけで、例えば特技「料理」だとすると、いったいどの程度の腕があって特技を謳っているのかと。
俺からしたら、いわゆるプロ。ある意味頂上付近を極めて初めて「特技」と名乗れるんじゃないか?と思ってるのですが、それだと基準が厳しすぎるのでしょうか?
でも、上には上がいるわけで、中途半端な知識や技能で「特技」を名乗るのはおこがましいというか、そう感じてしまうんですよね。
だから「料理」であれば自分で店を持てるくらいになって始めて「特技」を名乗れるんじゃないかとか、車の運転であればA級ライセンスを持っているとか、英会話だと本当に英語でなんの淀みもなく普通に会話が出来るくらいになってはじめて「特技」と言えるんじゃないかと、個人的にはそう思ってます。

「そんなこと言ってたら特技なんて持てないよ」

俺は、その通りだと思います。
軽はずみに「特技」を謳うべきではないと・・・と言うのも、俺は「俺の特技はこれです」と言われたら、単純にそういうレベルをその人に期待しちゃいますよ?
これは逆も言える話で、俺が「○○が特技だ」と口にした以上は、かなりのレベルを期待されてもしょうがないというか、それで当然だと。
だから、きちんとした自信と実力を備えてからでないと、簡単に「特技」を口にすべきでない・・・と自分ではそう思ってます。
でも、そうすると「なんだおまえ、特技の一つもないのか?」なんて、言われることもありますけど、きっとここは価値観の違いなんでしょうね。
今のところ、特技はありません。