エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

「正解」と「不正解」は結果によって判断される(場合が多い)

2008-03-15 | ちょっと考えた事

DONTAKTさんの、3月14日分の編集後記より

『ここで取ろうと思っている手段は2つ。勝利まではいかないもののゲームオーバーにはならないような確実な手を打つことと(タイムオーバーになる可能性はある)、勝利する可能性があるものの失敗すれば即ゲームオーバーになるというリスクの高い方法の2つ。

ゲームオーバーになってしまえば今までかけた莫大な時間が無駄になってしまうため、リスクの少ない確実な手を打っているんですが、勝利に結びつくようなリスクの高い方法を使った方が早くクリアできるんだろうなぁとも思う。

たぶんどっちが正解ということもないんでしょうが、どちらを選ぶかにより人の性格が見えるかもしれませんね。』

という記事を読んで、色々と考えさせられました。
これって、実は結構深い内容を含んでいる話ですよね。
で、俺なりに少し掘り下げて考えてみました。

管理者さんは、自身で結論として
「たぶんどっちが正解ということもないんでしょうが・・・」
と、述べられています。
おそらくそれは、「選択時」という視点で見れば正解で、その通りのことだと俺も思いました。

でも、現実にはこれに「正解」が付く場合が多々あります。
そして、それは全て結果論から至る正解だと思うのですが、そもそも物事を評価するという行為が行われる場合、その評価する人というのは、当然その当時の当事者よりも後の人間が行うわけで、一連の行為の結末・結果まで全て含めて、それを吟味して「評価」という結果に至ります。
なので、リスクが高くても大胆な作戦行動に出た場合・・・それが成功を収めると、後にそれが「英断」だと判断され、正解とされる。逆にとった行為は全く同じであっても、結果が全滅だった場合、それは「無謀な判断」「失敗」だと評価される仕組みです。
敢えて退いた場合にあっても、後の結果と絡めて「勇気ある撤退」か「臆病な腰抜け」かの判断に別れるでしょう。例え、その時点では全く同じ行動を取ったとしても、結果が違うと言うことだけで。
歴史上の英雄と言われる人も、暴君と呼ばれる人物も、結構ここら辺は紙一重だったりするかもしれません。

「判断する時点」では、「どちらとも言えない」または「どっちを取っても正解でもあり、また間違いでもある」という場面は多々あると思います。
これって、戦略ゲームに限らず様々な事に当てはまりますよね。例えばスポーツでもそうだし、ビジネスでもそうだと思います。
究極の選択としては、「多くを生かすために一人を見殺しにすべきか」or「多くの犠牲が出ることになってでも目の前を犠牲を容認できない」とかいう話も聞いたことがあります。
(まあ、これは法律的には「緊急避難」と言うことで多くを生かすためには、他に方法がない場合は少数の犠牲もやむを得ないという解釈もあるらしいですが、人道的にはどちらも正解とは言い難いですよね・・・・)

同じ行動を選択したのに、たまたま結果が違うだけで180度正反対の評価が下されてしまう。
全てがそうだとは言えませんけど、そういう部分って、実際に結構多くある事だと思います。大小様々な事柄で。
そういわれると、
「結果ばかりじゃなくて、その判断の時点での、判断の妥当性を評価してくれ」
という気持ちになるかもしれません。
確かに、たまたま上手く事態が転んで良い結果になったのと、判断は素晴らしいモノだったが、運に恵まれず散々であった場合、それでも前者が「正解」で後者が「失敗」だと判断されると、納得いかない部分もあるかもしれません。
そして、それは一理ある論理であるかもしれませんが、でも逆に考えてみると、行為を起こす場合における「判断」はそもそも何故行うのかと言えば、結局は

「ある、目指す目的を果たし、結果を残すために行うもの」

なんですよね。突き詰めて考えると。
ある目的があって、それを達成するために、色々と試行錯誤して、様々に悩み判断をして行くわけですから、時には理不尽な、納得の出来ない結果が訪れようとも、「結果ありき」は、間違ってはいない考え方でもあるのかな?と。

でも、そうは言っても
「じゃあ、結果さえ良ければ何をしても良いのか?たまたま運が良かっただけという人と、本当に優秀な人がたまた不運に恵まれただけという人を、そこだけで線引きしてしまって良いのか?」
と、言われれると、これまた一理あるようにも思われます。

で、堂々巡って結局は最初の

「たぶんどっちが正解ということもないんでしょうが、どちらを選ぶかにより人の性格が見えるかもしれませんね。」

という、DONTAKT管理者さんの発言に戻るわけですけど(笑)
ここで、俺が主張・・・というか、この記事を書いた目的は「ある、一つの結論を出す事」ではなくて、これも最初に述べましたが「深く掘り下げて考えてみること」でした。
なので、こうやって色々と考えを巡らし、考えてみるそのこと自体にも、少しは意味があるかも知れないかな?と。