エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

自分のネタ、他人のネタ

2008-02-23 | ちょっと考えた事
YOSHIさんのブログ「BLOG15.NET」より
書きたいことが既に他のブログで書かれている場合どうするか?
という記事を読んで。

>自力で思いついたのだけど、後から同じようなことを書けば、パクリだと見なされてしまう。特許権や著作権なんかでもそうだと思うが、最初に書いた人だけが権利を認められるというのはどうだろう?

>だから結論を言えば、自力で思いついたことは、他のブログで書かれていようが書くつもりだ。

>何が言いたいのかというと、他のブログで同じようなことが書かれていても、引用していなければ、私は「パクリ」ということは絶対にしていない、ということを言いたいのです。

全くその通りだと思います。
純粋に自分で思い付いてブログに書いてみたら、たまたま同じ趣旨・内容の記事が他にもあった・・・こんな場合って多いと思います。
でも、あからさまな、その人本人が自覚して「パクリ」行為を行った記事ならともかく、自分で思い付いた考え・記事であるならば、何も気にすることは無いだろうと俺も思いますね。
だから、気にせずに記事にして、その後も堂々としていれば良いと思います。

さて、しかしそもそも「思考」というものについて、俺は個人的に思うところがありまして、それは

そもそも、人間の思考というものは、元を辿れば、必ず何かしらの他人の思考に基づいているのではないだろうか?

という疑問です。

ここで言う「他人」というのは、何も今現在すぐ近くに実際に存在して、接している人間に限りません。
例えば、昔から伝わる伝統やしきたり、各種学問や宗教、啓発思想、常識・・etc
ともかく、人から人へ伝えられる物事の考え方全てをもって、俺はそう捉えてます。
で、人間というのはこの世に生まれ出た時、その瞬間から思考能力が備わっているわけではありませんよね。その時点で自分の自我を持って、持論を展開する新生児など居ません。そもそも言葉というもの自体まだ理解していないのですから。
そこから考えると、人間だれしも生まれ出た時は、「思考」に関しては全くの「0」からスタートすると言うことです。
0というのは、いくら掛けてやっても0のまま。他からプラスが無い限り、それ自体が増えることはありません。思考もこれと一緒だと思うんです。
外の世界で、他人か何かのやりとりしているのを見て、聞いて、感じて、最初はそれを吸収して言葉を覚えたり、常識や世の中のルール的なものを親から教えられて、そして物事を知っていきます。
厳密に考えると、この時点ですでに少なからず「他人の思考」を取り入れてる事になるんだと言えます。

「物心付いた頃」と表現されますが、概ね自分自身で自分の存在を固めた時点、自我が形成された時点とでも言えるんでしょうか?
上で述べた理由から、自分で色々と物事を考えたり、創造したりする基盤が出来上がった時点で、すでにその基盤自体、少なからず他人の思考の影響を受けている。と言えますね。
小学校・中学校・高校と学校で習うこともそう、先人が確立してくれた各種学問を学んでいくわけです。

と、言うことは、例え自分が今まで誰も気付いたことのないような事柄を思い立ったとしても、それを思い付くに至った過程では、誰か他人から受けた各種知識や知恵、そして経験等を元にしているわけで、そう言う意味では「完全純粋に全く他人の影響を一切受けない思考」等というのは無いのではないかと、俺はそう思うんです。

そうやって考えると、そもそも「これは俺の意見だ」と言い切ること自体も難しいなあと。
だからこそ、「故意的に本人が自覚してわざと狙ってパクった意見」で無い限りは、他に同じような主張があろうとも堂々としてればいいだろうと、俺からしたら、そういう結果に至るわけです。
これは、その出てきた意見・主張そのものよりも、どういう思考経路を辿ってその意見・主張にたどり着いたのか、そちらの方がむしろ重要な気もします。

「おお~、おまえもこの考えに至ったんだ?ところで、どういう経緯でこの考えにたどり着いたの?俺は、こうこうこうだけど。へえ~、そういうアプローチもあるんだ、なるほどなあ~」
って感じで、むしろお互いに認め合うのが望むべき姿かな?と、俺は思います。

ちなみに、俺の愛読書の一つでもある「パスカル」の「パンセ」と言う本に、こういうくだりがあります

パンセ : 前田陽一・由木康 訳 より  
断章43
ある著者たちは、自分の著作について話す時、「私の本、私の注解、私の物語、等々」と言う。そういう彼らは、一戸を構え、いつも「拙宅では」を口にする町人臭がぷんぷんしている。彼らはむしろ「われわれの本、われわれの注釈、われわれの物語、等々」と言うほうがよかろう。というのは、普通の場合、そこには彼ら自身のものよりも他人のもののほうが、よけいにはいっているからである。


今回の記事は、かなり「勢い」に任せて書きました。
ちょっとね、自分の頭の中に渦巻いている朧な感覚の状態のこの思考を文章で表すには、その時の感じたままを勢いで書いていかないと、混乱してしまってまとめられない感じがしたので・・・・・
と言うわけで、とりあえず書き殴ってみた訳ですが、読み返してあまりに酷い場合は、推敲して加筆訂正を加えたいと思っています。
YOSHIさん、引き合いに出した割には、こんな完成度ですいません。
なんだか、最後になってグダグダ感を実感してきた・・・(笑)
まあ、俺なりに感じたことを書かせてもらいました。

4 コメント

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TBありがとうございました (YOSHI)
2008-02-23 22:18:31
>外の世界で、他人か何かのやりとりしているのを見
>て、聞いて、感じて、最初はそれを吸収して言葉を覚>えたり、常識や世の中のルール的なものを親から教え>られて、そして物事を知っていきます。
>厳密に考えると、この時点ですでに少なからず「他人>の思考」を取り入れてる事になるんだと言えます。


私もそう思います。確かに厳密には人はゼロから自分の思考を生み出しているわけではありません。学校教育、読書、他人との会話などによって、他の考えを取り入れて、そこから発展させていくものだと思います。逆に言えば、他の人の知識から多くを学べば学ぶ程、より多くの考えが思い浮かぶようになるともいえます。

まあ、あまり「俺の意見」という風に主張する必要もないのだろうと思います。あのエントリでは、なんとなく、「俺は自分でなんでも思いつく」みたいな感じの文章ですね。でも、そんなことはないわけで。このエントリに書いてあることは同意です。トラックバックありがとうございました。



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コメントありがとうございます (卯月 蒼)
2008-02-24 23:51:02
>YOSHI
この記事に至った元には

例えば常識的な事、「こういう場合はこうしなさいよ」とか「こういう場合はこうするべきだ」みたいな、誰もが知ってることは流用して記事にしたとしても誰も文句を言わないと思うけど、ブログでたまたま誰かのブログと同じような内容が被った場合はすぐ「パクリだ」なんだと問題になるその違いはどこにあるんだろう?
「誰もが知ってる常識的な事」だとしても、「他人の思考」と言う事は同じなんじゃないの?

と言うのが発端でした。
そこから自分なりに考えてみて、そもそも誰もが誰かしらの影響を受けてるんじゃないか?という流れに。

まあ、ともかく、自分で思い付いたとしても、若しくは誰かしらからの受け売りだとしても、どのみち自分の中でその思考の内容をしっかりと理解していれば、自分の主張として堂々としてれば良いと思いますし、逆に上辺だけなぞって、知ったと思い込んでいる内から、さも自分の思考だと主張するのは危険というか、それはやめるべきでしょう。
他人からどう突っ込まれても、返答できる。これが理解したかどうかを判断する基準かな?
例え間違った返答だとしても、返答を出来ると言うことは、そう言う風にその人にとっては理解したと言うことでしょうからね。
理解出来てないってのは、突っ込まれてしどろもどろになると言うのが理解出来てないって証拠でしょうね。
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Unknown (タピアン)
2008-02-25 22:39:22
こんばんは。
「完全純粋に全く他人の影響を一切受けない思考」というの、あったらどういうものだろうと思う私です。私も考える事はたくさんありますが、それは自分で経験した事以外に、その事について賛同できる意見、反対の意見、そういうのを聞いて「あ、そうか」と思っているんですよね。元を正せば完全なオリジナルというわけではないんですよね…。
ただそこはブログなどを書くときついつい頭から抜け落ちてしまう部分でもあると思うので、心のどこかにこの事は必ずとどめておこうと思います。
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コメントありがとうございます (卯月 蒼)
2008-02-26 15:28:56
>タピアン
俺はこの記事では「自分の意見も必ず他人の意見の要素が入っているのだから、俺の意見だと主張するのは難しい」という事よりも、どちらかと言えば、それを前提にして「だからこそ、たまたま内容が被ってたとしても目くじらを立てる必要なんて無いだろう?」という事の方に重点を置いてました。

でも、まあ、確かに片隅程度にはとどめておいたほうが良いかなあと、俺も自分自身で思ってはいます。
逆の立場で、誰かが自分が過去に書いた記事と同じような事を書いたとしてもそれを素直に認められるように。
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