エッセイ的な何か

エッセイ的な「何か」です。
エッセイなのかコラムなのかダイアリーなのか自分でもよく分かりませんが「何か」です(笑)

勉強しろ!

2008-03-06 | ちょっと考えた事
前に書いた記事「デキる人間とダメな子」で、コメントをもらって、そのコメントへの返信中に、ふと思い付いたこと。

親からよく言われたこの「勉強しろ!」と言う言葉について。
俺はまだ親という立場になっていないので、言う側としての経験は無いのですが、子供の頃はよく言われました。「遊んでないで、もっと勉強しろ!」
田舎だったし、特に教育熱心という家でもなかったけど、俺に限らずこのやりとりは殆どの家庭で、良くある事だと思います。
子供心には「うるさいな。分かってるよ」という感じで、うざったい感じしか受けなかったものだけど、最近になって「一理あるんだよなあ」と思うようになりました。

前回の「デキる人間とダメな子」内で書いた、インプットとアウトプットA,Bについて、特にアウトプットAの能力を伸ばすのは難しく、でもそこで差が出るような事を書きましたけど、この「アウトプットA」の能力を伸ばすことは確かに難しいと思いますが、事、「勉強」に関しては、そうでもないように思いました。
と、言うのも「勉強」には範囲というものがあって、出題される問題も予め与えられたインプットに少なからず関連するものだと決まっているので、傾向と対策を練ることが出来る。という点。
例えば数学であれば、与えられた問題に対して、どのようなアプローチをして、どのような公式を当てはめ、何を求めれば良いのか・・・そのようなものに、ある程度の道筋が見えているんですよね。
だからこそ、類似問題というか、数多くの問題に触れることで、大体の筋道・考え方のパターンが分かるように出来ている。だから、数多くの問題にぶつかって経験していくことで「アウトプットA」の能力も磨くことが出来ると思います。
そういう意味では「とにかく勉強しろ!」というのも、本質を突いているというか、一理あるように、今更ながらにそう思いました。
ただ、「勉強しろ!」という親が全て、そういう意味合いでこの言葉を言っているワケではないでしょうが・・・少なくとも俺の家の親は、ただ子供は勉強するものだという固定観念で「勉強しろ!」と言ってる部分が多いように感じられたけど、でも、どちらにしろ、結果としては間違ってるわけでも無いのかな?と。

これに対して、社会に出て働くとなると、このアウトプットAが途端に難しくなるんですよね。
試験で参考書を使うことが出来なくても、ある程度の範囲が決まっていて、傾向と対策も用意されてた「学校での勉強」と違って、仕事になるとその「傾向と対策」はもとより、「範囲」自体を、まず自分で見つけなければならない。
そこからアウトプットAが求められるんだから、実際大変です。
ここら辺は、実社会に出て始めて経験する部分ですけど。

だからこそ、今更感じることだけど、「勉強」に関してはアウトプットAだって、「やれば伸びる」と思うし、「勉強しろ!」というのは、その方法を示していて間違っちゃいないと思います。
だから、惜しい。とも思います。
ただ「勉強しろ!」じゃなくて、「こうだから数多く勉強する事が重要で生きてくるんだ」と説明付きの「勉強しろ!」だと、もう少し子供の勉強しようとする気持ちに響くような気がします。
「勉強そのものが大嫌い」で、「成績が上がることにも全く興味ない」という子供には厳しいかも知れませんけど(笑)