日常

セバスチャン・サルガド「アフリカ」

2009-11-04 11:16:12 | 芸術
そういえば。

恵比寿の写真美術館で、セバスチャン・サルガドの「アフリカ」展を見てきた。

思ったより写真の量が多くて嬉しかった。
サルガドの写真は『風の旅人』の9号(森羅万象と人間 人間の領域)と、13号(「自然」と「人間」のあいだ 生命系と人類)を見てからのファンです。

写真の奥深さを知らしめてくれた写真家。
いわゆる報道写真のようなものではなく、そこに人間の尊さとか、生命の息遣いまでも感じさせてくれる写真。
写真という媒体の不思議さを感じさせてくれる稀有で偉大な写真家です。


サルガドが出している『Africa』という写真集も持っていますが、今回の展覧会はこの本に載っている写真も多い。新旧織り交ぜて展示されていた。
やはり、現物で見る写真と、写真集で見るのとでは全然違う。それは絵画と同じです。


ただ、大きく引き伸ばされすぎている写真もあって、もう少し小さい方がいいかなぁと思える写真も何点かあった。大きい写真の方がとりあえずの迫力やインパクトがあるのは勿論だけど、ディテールが同時に等倍拡大されることで、細部が粗雑にな印象を受けるときもある。細部はあくまで細部のままがいい場合もあると思う。もちろん、これは素人考えですが。



写真を見ていると、アフリカの現状は過酷で厳しいけれど、その中で日々生きている人の眼差しや視線は、見る側を突き刺して突き抜けていくように感じられる。


人の顔の印象は目つきが大きな部分を占めると思うけれど、アフリカで生きている人の眼差しや視線は吸い込まれそうになる何かがある。
遠い眼つきをして、常に焦点を遥か遠くに合わせて生活をしているからかもしれない。
近視眼的な生き方をしていると、ああいう眼差しには絶対ならない。



すさまじいアフリカの現状で生きている人に、自殺者がいない(具体的な数字は知らないけど、ほとんどいないはず)というのは考えるべき事柄だと思う。

この豊かで便利な日本では年間3万人以上の自殺者がいるというのに、水すら飲めずに何日も放浪するアフリカでは自殺者がいない(or ほとんどいない)。
これはどういうことか。そのことに僕ら医療者が真剣に向き合わないといけない。きっと、ここには深い意味がある。


人体とか細胞の中に、アポトーシスというシステムで死がプログラムされているのは確か。
でも、それは「死がプログラムされている」という物々しい言い方ではなく、「生の上限を決めている」ようなものであって、死を前もって予測し、計画どおり死ぬような、眼に見えない時限爆弾のようなものではない。

人体や細胞は、ホメオスタシス(恒常性、同じ状態を維持しようとするシステム)があるので、生まれてきた以上は「生きている状態」を維持しようと努める。そこで平衡を保とうとする。
そんなシステムの上で、人体の一部分に過ぎない脳ごときが、暴走したあげく全体の個体として死に至らしめる「自殺」という出来事は、いかに歪んだ現象だろうか。
ただ、そんな歪んだ現象が起きるのには、脳が暴走してしまう土壌がある。それは気付きにくいだけで、厳然としてある。
自然を排して人工・幻想社会に満ちた世界を作りすぎた証拠なのだと思う。


「生きなおすのにもってこいの日」田口ランディ(2009-09-14)の本の感想を書いたときも少しふれたけど、
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【本文P53】
まだ精神的に未熟な子どもの自殺は「うっかり自殺」が多い。
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ほんとうは「もだえ苦しむ心」をらくにしたかったにすぎない。
マスコミはステレオタイプの言い回しを捨てて、正確に状況を伝えたらいいのだ。
誰だって、心が楽になれば生きていたいはずだ。
だったら、心をどうにかすればいい。間違って肉体を殺すのは「うっかり自殺」である。
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「うっかり自殺」のネーミングは面白い。

自殺しようとしているとき、確かに脳の中のスイッチを一時切りたいだけなんだと思う。「こころ」を一時休止状態にさせたいだけなのだと思う。

そこで、「からだ」が死んでしまうのは検討違いなのだと、確かに思う。
なぜなら、「からだ」はそんなときでも生き続けようとしているものだから。

「からだ」は、基本的に常に生きている。生き続けている。
「からだ」が死ぬとき、おのずから死ぬものだ。勝手に動かなくなる。勝手に機能停止する。


だから、「こころ」が死にたいとメッセージを送ってきたとき、それは「からだ」のメッセージではないのだから、「こころ」だけを休ませて楽にして空っぽにする方向へと向かわないといけない。
そして、「こころ」の自殺は不可能であるから、そんなときは「こころ」を一時オフにして、「からだ」が生きている状態に、ただ身を委ねればいいんだと思う。


それは、ただ寝て、起きて、ご飯を食べて、出るものを出して、そして寝ればいい。
ただ、それだけを繰り返せばいいんだろう。

「からだ」が生きていると、「こころ」は変化してくる。
少し長く生きている人間はそれを知っている。
だから、「うっかり自殺」は見当違いなのだろう。
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こういう現代社会の現状と、アフリカの現状。
ここには同じ人間の「生や幸福」を考える上で大きな溝があり、大事な問題がある。


脳だけで考えていてもよく分からないけど、実際に足を運んで写真を見に行くと自分に働きかけてくる何かがある。


今の世界は脳が暴走しやすいような、アクセル作用を持つものに溢れている。
そんなアクセル作用を持つものは、脳で言うと大脳辺縁系(別名では情動系とも呼ばれる)へ、人間の奥深い感情を刺激する場所へと働きかけてくる。
そこは、なかなか意識上に上がらず言語化しにくく認識しにくい広大な無意識の世界でもある。


そんな無意識の世界にアクセル効果で働きかけてくるものばかりではなく、ブレーキ作用を持つ、ゆっくりと時間を過ごすよう促すものに触れた方がいい。
意識しづらいことは、「意識しようと意識する」ことをしないと、永遠に無意識の層に浸り続けで、自分の行動を無意識に操作する。



サルガドの写真は、しばし日本の現実世界の呪縛から解き放たれて、静かでゆっくりした時間と向き合う事を促してくる。

アフリカもそうだけど、世界は同時並行的に質の違う時間が流れている。
そこを同時並行処理で感じながら、日々を淡々と生きていきたいものです。